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福岡史伝・戦国 【北部九州戦国史】(戦国時代) ところが、1551年にはその大内氏が配下の陶氏に謀反され滅び、筑前には大友氏が勢力を伸ばします。 そして中国地方では陶氏を倒した毛利氏が台頭、大内氏の所領を継承し、1557年には貿易港・博多を取り戻すべく、筑前の中小の豪族へ反大友の動きを煽ります。これに呼応したのが秋月、筑紫の両氏ですが、大友氏に鎮圧され筑前を追われます。 また翌年の肥前では龍造寺氏が少弐氏を滅ぼし戦国大名として名乗りを上げます。 1564年、毛利氏は一旦、大友氏と和睦し、東に兵を向け石見の尼子氏を破ると、再び筑前の攻略に引き返します。筑前では毛利氏の支援で帰還した秋月氏、筑紫氏の他、原田氏、宗像氏、肥前の龍造寺氏が連携し大友氏へ抵抗します。また大友氏の内部からも高橋氏、立花氏などが反旗を翻し筑前は大混乱に陥ります。大友氏はこれに対し大軍を送ると共に大内氏残党を周防に上陸させ、尼子氏の残党を支援し後方を攪乱、毛利氏を筑前より撤退させます。 後ろ盾をなくした筑前の反乱勢力は大友氏に降伏、和議を行い混乱は収束します。そして、立花氏、高橋氏の頭主には大友氏の重臣・戸次氏、吉弘氏が据えられます。 大友氏は筑前が収まると次に肥前を抑えるために、兵を佐賀に向け龍造寺氏を包囲しますが、龍造寺配下の鍋島氏の夜間奇襲作戦(今山の戦い)で大混乱に陥り撤退を余儀なくされます。龍造寺氏はその勢いで勢力を広げ九州は大友、島津、龍造寺の三氏鼎立となります。 しかし、1578年には「耳川の戦い」で大友氏が島津氏に大敗するとこの均衡が崩れ、筑前では秋月氏、筑紫氏等が三度(みたび)大友に反乱を起こします。この混乱の隙を突き、筑後には龍造寺氏が攻め入り筑後の勢力を次々に配下に取り込みます。 ところが破竹の勢いで勢力を拡大した龍造寺氏ですが、1584年に「沖田畷の戦い」で北上して来た島津氏にあっけなく破れ、島津の配下に入ります。 1586年、島津軍の侵攻に抗す手立てをなくした大友宗麟は豊臣秀吉に謁見し援軍の依頼を行います。一方で、肥後、肥前、筑後の勢力を配下に入れ大軍となった島津軍は筑前攻略に取り掛かります。 筑前では秋月氏、原田氏等も島津に組し、直前に大友方に組した筑紫氏も島津に降伏、豊後の兵の救援もなく立花、高橋両氏は孤立します。そして高橋氏が守る岩屋城は島津軍の猛攻に落城。高橋氏、筑紫氏の兵が共同で守る宝満城も筑紫の兵の勧めで降伏します。次に島津軍は立花氏の立花城へ向かい攻撃を開始しますが、豊臣秀吉の意を受けた毛利軍の九州上陸を察知した島津軍は南に向けて撤退します。そして1587年には島津氏は降伏し、九州は豊臣秀吉によって平定される事となりました。 関連記事:戦国 |
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福岡悲話 【「濡れ衣」の語源は博多にあり】(奈良時代)-悲しい話です-
そしてある日のまだ星の輝く早朝に、一人の若い漁師が近世の邸を訪れ「佐野様のお嬢様が最近、夜な夜な私の所へいらっしゃって釣り衣(つりぎぬ)をお持ち帰りになります」と訴えます。驚いた近世が娘の部屋に行ってみると、なんと娘は濡れた釣り衣を背中に掛けて眠っていました。このかた後妻と娘の板挟みにあい悶々としていた近世はとうとう怒り心頭に発し、即座に娘を手打ちにします。実はこの若い漁師、金品を受け取り後妻から言われたとおりに一芝居打っていたのです。そして釣り衣の方は娘の部屋に忍び込んだ後妻が寝入った娘に掛けたものだったのです。このようにして事は後妻の思い通りに運んだのですが、翌年のある日 娘が近世の夢に現れ次のような内容の歌を詠みます。 「私が脱ごう脱ごうとしている濡れ衣は、実は私を長い間 苦しめる 身に覚えのない罪のことなのですよ」 「濡れ衣の袖から落ちる雫は、身に覚えのない罪を洗い流すための私の涙なのですよ」 近世は娘に罪のない事を悟ると後妻を里に返し、自らは出家し松浦山(唐津・鏡山)に移り住んだという事です。 以上は貝原益軒の「筑前国続風土記」に記載されている「濡衣」の内容です。 現在、国道3号線と昭和通りの交わる石堂大橋の近くに「濡れ衣塚」という史跡が残されています。 |
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