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検索の結果 38件の記事が見つかりました


薩摩街道 松崎宿「油屋」(2018年11月25日)【余談】
数ヶ月前の事になりますが、西郷隆盛の泊まったといわれる小郡市松崎の「油屋」の撮影に行って来ました。残念ながら史跡「油屋」は建替中で足場が組んであり見学する事はできませんでしたが、玄関の撮影だけはどうにか叶いました。  薩摩街道は島津藩が参勤交代で通った街道で松崎宿はその宿場町ということです。昔も薩.....

古屋佐久左衛門(1833年~1869年)【福岡人物伝】
筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官.....

高山彦九郎(1747年~1793年)【福岡人物伝】
江戸中期から後期にかけての草莽の勤皇家で「寛政の三奇人」のひとり。40代半ばで九州を遊歴し王政復古を説き、幕府を批判しますが幕府の圧力があったのか久留米に滞在中に自刃し最期を迎えます。しかしその思想は70年後の尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。長州で維新の原動力となった志士たちを育てた吉田松陰の号.....

山田堰の建造(江戸時代中期)【福岡史伝・江戸】
左側が「堀川用水」へ流れる水路中央が「山田堰」、右手が筑後川本流 朝倉市山田にある山田堰は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。 山田という土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊富な.....

ただいま禁煙中・・・(2016年6月19日)【余談】
禁煙するのは簡単ですが、タバコを止めるのは難しい・・・。 禁煙すること数十回、最高2年間やめましたが、ストレスでここ1年間喫煙中でした。 ところで江戸時代の儒学者・貝原益軒はタバコについて名著・養生訓で次の通り触れています。 「・・・習慣になると癖づき、むさぼって、ついにやめられなくなる。.....

巌流島の決闘(1612年)【福岡史伝・江戸】
小倉碑文 伊織は1624年に武蔵の養子となり2年後には明石・小笠原家に出仕し、1632年には冒頭に記載した小笠原家の九州入りに従い豊前小倉に入ります。「巌流島の決闘」から20年後の事になります。詳しいことは判りませんが武蔵もこの頃、豊前に移ったのかもしれません。そして1640年には肥後.....

巌流島は豊前領だった!(現在の島の住人は?)【意外な話】
巌流島の住人? 宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島は山口県の観光名所として有名ですが、江戸時代は豊前小倉藩の領地だったということです。これは「関ヶ原の戦い」で敗れ徳川家より本州の西の片隅に押し込められて不満を持つ毛利家を牽制するため方策だと想像されるのですが、実際のところはどう.....

金印はなぜ志賀島で…?その弐(大夫の思惑は?)【わかっていない事】
「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述しま.....

金印はなぜ志賀島で発見された?(奴国王の思惑は?)【わかっていない事】
江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません.....

日吉神社(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
案内板に記載されている「江戸時代の地誌」とは貝原益軒の「筑前国続風土記」のことで、この神社は「山王社」の名で紹介されています。 その中には「豊臣秀吉は島津を降伏させ筑前に戻ると、安楽寺(太宰府天満宮?)に詣でるが、 その時この神社に陣をとった。」といったことが書かれています。 とこ.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
改めて益なしことは改めぬをよしとするなり。
吉田兼好





名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【観世音寺】-太宰府市観世音寺-




【観世音寺】
百済救援のため九州に下り、661年、朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなった斉明天皇の菩提をとむらうため、天智天皇の発願によって建てられた寺。天平18年(746)完成、盛時、九州の寺院の中心であり、方三町の寺域に七堂伽藍がそびえ、府の大寺とよばれた。日本最古の国宝梵鐘は有名である。

太宰府市

「観世音寺」の案内板より


661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。
その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺に西側に隣接する土地でした。 これよりこの一帯は、「九州を管理する政治庁舎」と「大規模寺院」の建設が同時に進み、それに付随する民家や商家などが増え始め、大都市への基盤が出来上がっていったと思われます。
奈良時代には唐の高僧の鑑真が来日しこの観世音寺で初の授戒を行い、その地には十数年後「戒壇院」が建立されます。 現在の観世音寺には、鐘楼に国宝の「梵鐘」が下がり、多数の重要文化財指定の観音像、菩薩像、阿弥陀如来像など安置されています。



観世音寺 鐘楼

【国宝「梵鐘」】
「この梵鐘は京都妙心寺の鐘と兄弟と云われその古さに於いても亦優秀さに於いても正に日本一と称せられ糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています。

   菅公の詩に
      都府楼纔看瓦色 観音寺唯聴鐘聲
           とあるのはこの鐘であります。」

観世音寺 国宝「梵鐘」の立札より
「菅公の詩」とは菅原道真の漢詩「不出門」の一部の句で、謹慎状態の謫居(たっきょ)で、今の境遇と心境を詠ったものです。

     「都府楼の屋根がわずかに見え、観世音寺の鐘の響がただ聴こえる」

全文を知りたい方は「不出門」でネット検索してみてください。 わかり易く和訳してあるページが多数、見つかると思います。



藤原広嗣と玄昉
737年京都では天然痘が流行し、当時実力者だった藤原四兄弟(藤原不比等の息子たち)が次々と倒れます。 藤原氏の有力者不在で反藤原氏の橘諸兄(たちばなもろえ)が台頭し、唐への留学僧、僧正玄昉(げんぼう)を抜擢します。 当然として改革が断行されたと想像されます。
逆に藤原四兄弟のひとり藤原宇合(ふじわらうまかい)の長男、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は738年に大宰少弐へ左遷されることになります。 大宰府に入った藤原広嗣は、現在の悪政を批判をした上、玄昉などの処分を要求する上表文を朝廷に送りますが、朝廷ではこれを却下し、逆に藤原広嗣に出頭を命じます。藤原広嗣はこの朝廷の対応に憤り740年に大宰府で乱を起こしますが、2ヶ月程で鎮められ唐津で斬られました。
しかし玄昉もその5年後、この観世音寺に左遷され翌年の746年に当地で死去しました。死に関する噂が色々と広まったようですが真相は不明のようです。現在、玄昉の墓は戒壇院の北側に置かれています。











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スポットライト人物伝


【斉明天皇(さいめいてんのう)】
(594年~661年)


中大兄皇子の母親で重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇です。 二代前の皇極天皇の時に皇子の蘇我入鹿暗殺を目の当りにし退位を決意しますが、 再び斉明天皇として皇位に就き、百済復興のため入った筑紫で崩御します。 観世音寺はこの斉明天皇を弔うために中大兄皇子が建立した寺といわれています。



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