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検索の結果 13件の記事が見つかりました


特別史跡水城西門跡(太宰府市吉松)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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小水城跡(大野城市旭ケ丘)【名所旧跡・大野城・宇美】
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水城東門跡(太宰府市国分)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
水城 東門礎石 .....

大宰府史跡 ロゴマーク募集 情報(2018年8月12日)【余談】
九州歴史資料館のページにロゴマークの募集が掲載されていましたのでリンクを貼りました。 大宰府史跡指定100年事業 ロゴマーク大募集 「平成32年度は、福岡県を代表する特別史跡大宰府跡と特別史跡水城跡が、わが国最初の史跡になって100周年に当たります。福岡県教育委員会ではこれを記念.....

筑後竹野の戦い(1183年)【福岡史伝・平安】
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。 そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動.....

なぬ~大宰府政庁跡でももクロがLIVE!?(2015年10月14日)【余談】
2015年10月31日(土)、ももいろクローバーZが大宰府政庁跡でLIVE!?。なんと素晴しいアンマッチ。後片付けさえ問題なければ、斬新な企画。発案者は現代の平賀源内に違いない。ももクロファンにも福岡の歴史に興味をもっていただけたら嬉しいです。そして来年は「ももクロ女祭り2016 in 太宰府」を期.....

水城(大野城、太宰府)【名所旧跡・大野城・宇美】
写真は岩屋城跡からの眺望で、中央よりやや左側に斜めに走る森が水城跡です。右手が福岡市街地や博多湾で、左手が筑紫平野北部になります。水城跡に関しては意外な話の「福岡にも長城があった!」にも説明を書いています。 YAHOO!地図で場所探し! GoogleMap よ.....

文永の役(1274年)【福岡史伝・鎌倉】
1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、松浦と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。 その数、兵3万、軍船900といわれています。 19日には糸島半島東部の今津に姿を現し、一部の軍を上陸させ陸路、博多方面へ侵攻させます。 翌20日には軍船を博多港北西.....

大宰府、水城、大野城を築く(663年~665年)【福岡史伝・飛鳥】
「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、 664年九州の行政機関「官家」(那津)の機能を造営中の「観世音寺」の西側に移し「大宰府」とします。 そして敵の侵攻を食い止めるため前面(博多湾側)に濠を掘った大堤「水城」を築き、 翌665年には大野山に.....

白村江の戦い(663年)【福岡史伝・飛鳥】
倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。 百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 これに応えた中大兄皇子は661年百済復興救援のため豊璋を帰国させると共に兵を送り.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
兵は国の大事、存亡の道なり。
六韜





福岡史伝・幕末・維新
 【最後の仇討】(1880年)

朝倉市秋月 古心禅寺
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。
両親の寝床の惨状が脳裏から離れない六郎は仇討を固く誓い、その想いは年を追うごとに募ります。そして苦節12年で旧秋月藩黒田家別邸にて出会った仇、元干城隊隊士・一瀬直久を父親遺愛の脇差で討ち果たし仇討を成し遂げます。これは明治13年(1880年)12月17日、東京銀座辺りでの出来事になります。
仇討を果たした六郎は黒田家別邸の管理者に邸を汚した事を詫び、人力車に乗り警察へ出頭します。
取調官は一通りの訊問が終わると次に、元福岡の志士・早川勇の記した書(一瀬直久を擁護し、臼井亘理暗殺を肯定視する内容)を提示し六郎に意見を求めますが、それに六郎は「早川氏が一瀬の事を擁護するのは、私が亡き父の仇を報いるのと同じことです。もし違ったとしても、死を決して為した事ですので弁解には及びません。早川氏の望むご処分を願います。」
この言葉に取調官はもう何も言うことができず、逆にその態度に同情と称賛の念を感じざる得なかったといいます。
翌年には、東京裁判所で終身刑の判決が言い渡され、六郎は石川島の監獄に収監されますが、それからしばらくして秋月では一瀬直久の父・亀右衛門が自決します。亀右衛門は臼井亘理の暗殺事件直後、手を下したのが我が子だと知ると驚愕し、直久を強く叱責したと言います。
また母・清子を刃に掛けた萩谷伝之進という人物は女を斬ったという罪の呵責と六郎の復讐に怯え狂死したと言われます。ただ、こちらは出所が不明なので地元に伝わる話なのかもしれません。

それから約十年の服役後、六郎は恩赦を得て釈放されます。六郎は後悔の念を抱くことはなかったものの、仇討とはいえ人を殺害したという思いが付きまとったのか、次の目標も定まらず十数年を気力なく生きたようです。 明治39年、九州鉄道・鳥栖駅周辺の開発に携わる叔父・八坂甚八は六郎の事を気にかけ、鳥栖駅そばに待合所を経営することを勧めます。六郎はこれを受け鳥栖に移り、以後そこで余生を過ごすことになります。そして大正6年に60歳で没し、故郷の秋月・古心禅寺に葬られます。墓碑は父・亘理、母・清子と共に並んで建てられています。


写真は両親とともに六郎が眠る古心禅寺になります。この記事は吉村昭氏の「最後の仇討」および、梅亭化作氏の「復讐奇談 倭魂故郷廼錦」(国立国会図書館デジタルコレクション)、早川勇氏の「一瀬直久履歴書」(早稲田大学リポジトリ)を参考に書いています。「一瀬直久履歴書」は書写文書で一瀬直久の死を悼み、家族に金壱百円を贈った事を記し、以降には臼井亘理の暗殺の経緯が説明されています。
(2021.4.18)









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スポットライト人物伝


【阿蘇惟直(あそこれなお)】
(?~1336年)


足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近で自害しました。 のちに妻女がその地を訪れ惟直の後を追ったという話が残っています。



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