|
Fukuoka's history information |
|
|
|
|
新着情報
|
|
|
名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
| | 人にはすべて能不能あり 一概に人を棄てあるいは笑うべからず | 山岡鉄舟 | |
|
|
|
|
|
|
|
|
名所旧跡・筑後地区北部 【菊池武光銅像】-三井郡大刀洗町-
| |
【菊池武光銅像】
正平十四年(1359)八月七日、大原(小郡市)で少弐頼尚を撃破した菊池武光は敗走する敵を追って山隈原に進出した。
この方面で戦っていた少弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に崩れ去った。
武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。
しかし夜明け前からの激戦、死傷者 少弐方一万八千人、菊池方六千九百人
と伝えられるように味方も損害甚大かつ疲労困憊その極に達していたため、追撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝来の血刀を山隈原を貫流している小川で洗うと、刃は鋸のようにこばれており、川水はまっ赤に染まった。
「帰来、河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって紅雪をふく-頼山陽」
「そのかみの血潮の色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川-乃木大将」
古人は、このありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。
雄姿凛々たるこの銅像は、ゆかりの菊池渡りの地に昭和十二年十一月建立されたものである。
なお馬腹や台石の弾痕は昭和二十年三月の大刀洗飛行場爆撃の時の名残である。
| | |
|
菊池武光像の案内板より(1990年代後半頃のものです)
|
-
- 『魏志倭人伝』序 略文
- 倭人、帯方郡の南東の大海にあり
- 山島に依り国邑をなす
- 昔、百余国あり
- 漢の時代に朝見する者あり
- 今、使訳の通ずるところ三十国あり
- 帯方郡より倭に至るには
- 海岸に従い水行し韓国を経て
- 乍南乍東しその北岸、狗邪韓国に到る
- 七千余里
- 初めて一海を渡り千余里
- 対馬国に至る
- 居絶にして四百余里四方
- 土地山険しく深林多し
- 道はけもの道の如し
- 良田なく海物を食いて自活す
- 船に乗りて南北に交易する
- また一海を渡る事千余里
- その海を翰海という
- 一大国に至る
- 三百余里四方、竹木そう林多く
- 千ばかりの家あり
- 多少の田地あり、田を耕すも食足らず
- 南北に交易する
- また南に一海を渡りて千余里
- 末盧国に至る、四千余戸あり
- 山海の浜に居す
- 草木茂盛し、前を行く人見えず
- 魚鰒を捕るを好み
- 水深浅なく、皆沈没してこれを取る
- 東南陸行五百里、伊都国に到る
- 千余戸あり、代々続く王ありしが
- 皆、女王国に統属する
- 帯方郡使が往来し常駐する所なり
- 東南、奴国に至ること百里
- 二万戸あり
- 東行、不彌国に至ること百里
- 千戸あり
- 南、投馬国に至る
- 水行十日、陸行二十なり
- 五万余戸ばかりなり
- 南、邪馬壱国に至る
- 女王の都す所なり
- 水行十日、陸行一月なり
- 七万余戸ばかりなり
- 『三国志 巻三十 魏書三十 東夷伝 倭人』より
|
|
|
|
|
|
|
スポットライト人物伝 |
|
|
【武内宿禰(たけのうちすくね)】 (?~?)
日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。
|
|
|
| |
福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください https://www.2810w.com |
|
|
|
|
|
|