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■訂正履歴■


2021.12.18【二卿事件-久留米藩難-】
関係者の方から「二卿事件-久留米藩難-」の記事にある小河真文(おがわまさふみ)の読み違いのある事をご指摘をいただきました。そのため読みを「おがわまさふみ」から「おごうまふみ」に訂正させていただきました。
間違いのお詫びをさせていただきますと共に、ご指摘をいただきましてありがとうございました。


2020.1.29【福岡史伝 熊襲の抵抗】
崇神天皇が四道将軍を発した理由を「共和国であった倭国を中央集権化するため」と書いていましたが、共和国という表現は正しくないため、「中央集権化するため」と変更しました。 日本書紀には「中央集権」を意図する表現はありませんが、記事の流れから地方の豪族を従えるための行動だったと思われます。

2019.10.22【福岡人物伝 小野好古】
小野好古の記事を修正しました。小野家は文人の家系で祖父は伝説の詩人小野篁(たかむら)で曽祖父は続命院を創設した小野岑守になります。

2019.10.22【福岡人物伝 吉備真備】
吉備真備の大宰府左遷に、藤原仲麻呂の画策があったような記述をしていましたが、「続日本紀」に真備の左遷に仲麻呂が関わったという記述はなかったため記事を訂正しました。

2019.10.20【「日本号」ってなに?】
意外な話の「『日本号』ってなに?」で日本号が母里太兵衛から後藤又兵衛へ送られたと記述していましたが、事実と異なる逸話のようですので訂正しました。
この逸話は又兵衛の息女が嫁いだ太兵衛の甥の邸宅に「日本号」が保管されていたことから創作された話のようです。


2019.10.19【戊辰戦争に福岡藩出兵】
福岡史伝の記事「戊辰戦争に福岡藩出兵」に「『五卿に対する冷遇』や『筑前勤皇党の粛清』の過去を挙げ、福岡藩を強く非難し圧力を掛けます」と記載していましたが、五卿への冷遇はなかったようなので、「五卿に対する冷遇」を「以前からの幕府よりの姿勢」に書き換えました。

2019.10.19【源平合戦後の九州】
福岡史伝・鎌倉時代の記事「源平合戦後の九州」で「島津氏が九州南部(現在の鹿児島、宮崎)の守護を務めます」と記載していましたが、日向には伊東氏が下向していますので「島津氏が九州南部(現在の鹿児島)の守護を務めます」と書換え、伊東氏の下向も追記しました。

2017.9.2【芦屋から壇ノ浦へ】
福岡史伝「芦屋から壇ノ浦へ」で平家の人々が山鹿の次に逃れた地を「豊後・柳が浦」と記載していましたが、北九州市門司(和布刈)にある源平合戦絵巻の傍らにある案内板には、柳が浦は豊前の柳が浦(現在の門司区大里辺り)と記載されていたので訂正しました。

2017.5.6【福岡人物伝 早川養敬】
宗像市吉留にある銅像の碑文には早川勇という名になっているため、福岡人物伝の早川養敬を早川勇と変更しました。

2016.4.10【熊襲の抵抗】
古墳時代の「熊襲の抵抗」の記事に「しかし肥後に進むと熊襲が徹底的な抵抗を示します。」と記載していましたが、日本書紀では日向で熊襲と戦ったと記載されていたので「肥後」を「日向」と変更しました。

2016.2.23【新羅海賊の入寇】
警固所が設置された場所を現在の「警固公園付近」としていましたが、実際は現在の警固神社より西へ800mほど離れた福岡城の東側の警固の辺りにあったようですので、「現在の警固。福岡城の東側付近」と訂正しました。

2016.2.18【寛政異学の禁】
「貝原益軒に朱子学を学んだ竹田定良・・・」と記述していましたが、貝原益軒と竹田定良の生年には100年以上の差がありました。修猷館高等学校のページには貝原益軒に学んだのは定良の祖父・竹田定直という事が記載されていましたので、「貝原益軒系統の朱子学を学んだ・・・」と文章を訂正しました。

2015.6.27【月隈・金隈の戦い】
「月隈・金隈の戦い」について福岡史伝の「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」では足利直冬と少弐氏が勝利し、 福岡人物伝「菊池武光」では菊池武光と一色範氏との連合軍が勝利した、と記述し矛盾がありましたので訂正しました。 「武藤少弐興亡史」(海鳥社、渡辺文吉氏)には「月隈・金隈の戦い」について少弐の軍が一色氏の月隈城を攻め、 城は落ちなかったものその後、少弐氏が戦いを有利に進めたとの戦況が説明されています。

2015.2.11【戒壇院建立】
聖武天皇の命で戒壇院が建立されたと記載していましたが、聖武天皇の崩御が756年で戒壇院の建立が761年で年代的に合わないため訂正しました。

2015.2.11【戒壇院】
聖武天皇の命で戒壇院が建立されたと記載していましたが、聖武天皇の崩御が756年で戒壇院の建立が761年で年代的に合わないため訂正しました。

2014.10.12【邪馬台国はどこ?】
「また南に向かって1000里程海を渡ると末盧国(松浦)に至る。」の末盧国を唐津としました。

2014.10.8【卑弥呼は誰?】
倭迹迹日百襲媛命が武埴安彦命と吾田姫の進攻ルートを予知したと記載していましたが、 「日本書紀」にはその様な事は記載されていなかっため訂正しました。

2014.10.5【三国志に奴国の戸数記載】
次の通り注釈を入れました。‥‥‥「ここでは末盧国を長崎県松浦市としましたが、松浦川や虹ノ松原が現存することや松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説が残ることから佐賀県唐津市の可能性が高いと思われます。」










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スポットライト人物伝


【大伴金村(おおともかなむら)】
(?~?)


西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦します。 のちに任那四県割譲問題で責められ大和政権の表舞台より去ることになります。 ちなみにこの人物は九州に来た記述はないようですが、息子の磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)を任那支援に向かわせ、 磐は筑紫で後方支援を担当したと日本.....[全文を表示]



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