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■福岡歴史年表■

時代西暦 出来事 天皇 中国 朝鮮
古墳57年 倭の奴国、光武帝より金印を受ける。「後漢書(ごかんじょ)」(范曄、398~445年) 後漢 原三国
239年 卑弥呼が魏に使者を遣わし「親魏倭王」の金印を受ける。この頃の奴国の戸数2万戸程。「三国志」(陳寿、233~297年) 卑弥呼?
247年 倭国と狗奴国との戦い。
200年代
中盤
~後半
崇神天皇が「四道将軍」を発し、倭国統一を目指す。 崇神天皇 魏or晋
200年代
後半
出雲の懐柔。国譲り? 垂仁天皇
200年代
後半~
300年代
中盤
熊襲(くまそ)の抵抗。
仲哀天皇が崩御し「新羅との戦」へ移行する。
景行天皇
(日本武尊)
成務天皇
仲哀天皇
(神功皇后?)
五胡
十六国
三国
391~
404年
新羅、高句麗との戦い?(新羅の建国は350年頃)「広開土王碑」 応神天皇?
413~
503年
倭の五王。東晋、宋、南斉、梁に朝献する。五王は讃、珍、済、興、武。讃と珍、興と武は兄弟と記載される。 仁徳天皇?
履中天皇?
反正天皇?
允恭天皇?
安康天皇?
雄略天皇?
南北朝
527~
528年
「磐井(いわい)の乱」が起こるが528年平定される。磐井は豊前に逃れ、朝廷軍は石人石馬を切る。 継体天皇
飛鳥600年 大阪を出航した第一回遣隋使が那の津に寄港したと思われる。 推古天皇
607年 第二回遣隋使で小野妹子が隋に渡る。
645年 「乙巳の変」(いっしのへん)で、中大兄皇子が蘇我氏を倒す。 皇極天皇 新羅
646年 「大化の改新」が始まる。 孝徳天皇
661年 斉明天皇が百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で崩御する。
中大兄皇子は母を弔うために観世音寺の建造に着工する。
斉明天皇
663年 「白村江の戦(はくそんこうのたたかい)」で日本軍、唐・新羅連合軍に敗れる。 不在
664年 中大兄皇子が唐・新羅連合軍の九州侵攻に備え、大宰府を移し、水城、大野城を築く。
奈良710年 藤原京より平城京へ遷都される。 元明天皇
737年 時の権力者、藤原四兄弟が疫病により次々と病没する。 聖武天皇
738年 橘諸兄が右大臣に任命され、唐留学生の吉備真備と玄昉を抜擢する。
740年 「藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)の乱」が起こる。
745年 玄昉が観世音寺に左遷され、翌年に没する。
750年 吉備真備が藤原仲麻呂により筑前守に左遷される。 孝謙天皇
753年 鑑真和尚、5度の渡航失敗を経て来日。
754年 吉備真備が大宰大弐に任じられる。
756年 橘諸兄が藤原仲麻呂の台頭により失脚し、翌年に没する。諸兄の息子の奈良麻呂も獄死する。
761年 鑑真が初の授戒を行った地に戒壇院が建立される。 淳仁天皇
764年 藤原仲麻呂が孝謙上皇に取り入った弓削道鏡を除くため兵を挙げるが失敗し、斬られる。 称徳天皇
770年 弓削道鏡が称徳天皇(孝謙上皇)の崩御に伴い「東戒壇」の下野薬師寺に左遷され、2年後に没する。
平安794年 平安京遷都 桓武天皇
869年 新羅の海賊、博多湾の貢錦船を襲う。 清和天皇
901年 菅原道真、藤原時平等により大宰府へ左遷される。 醍醐天皇 後三国
903年 菅原道真が謫居にて死去する。
919年 太宰府天満宮本殿建立
941年 「藤原純友の乱」。純友、博多より上陸し大宰府を攻め、観世音寺の財宝を奪う。 朱雀天皇 五代
十国
高麗
1019年 「刀伊」(女真族)の入寇あり。対馬、壱岐を攻め住民を連れ去る。博多近隣も被害を受ける。 後一条天皇
1152年 源八郎為朝、田川に城を築く。この頃、筑前香椎宮に訴えられる。 近衛天皇
1156年 「保元の乱」が起こる。平清盛、源義朝軍が乱を鎮圧し、源八郎為朝は伊豆大島へ流配される。 後白河天皇
1158年 平清盛、大宰大弐となる。この頃に博多人工港「袖の湊(そでのみなと)」が造られる。
1159年 「平治の乱」が起こる。平清盛が源義朝を破り権力を握る。 二条天皇
1183年 源義仲に京都を追われた安徳天皇と平家一門が大宰府に入る。 後鳥羽天皇
1185年 壇ノ浦にて平家滅亡する。
鎌倉1192年 源頼朝「鎌倉幕府」を開く。
1274年 「文永の役」、元軍は鎌倉武士団を圧倒し、西は侵略され、博多、箱崎は炎上する。 後宇多天皇
1281年 「弘安の役」、元の東路軍と江南軍の足並みそろわず上陸できず。そして神風が吹く。
1285年 鎌倉で起こった「霜月騒動」が波及し、筑前では「岩門合戦」が起きる。
1333年 「元弘の乱」。博多では菊池武時が立つが北条、少弐、大友の軍に討たれる。しかしその2ヵ月後、北条英時が少弐、大友、島津の軍に討たれ鎮西探題が滅亡する。 後醍醐天皇
鎌倉幕府が滅亡し、「建武の新政」が始まる。
南北朝1336年 足利尊氏「多々良浜の戦い」で菊池、阿蘇軍を破り、九州武士団を率いて再び京都へ攻め上る。 後醍醐天皇
光明天皇
1359年 「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並ぶ日本の三大合戦「筑後川の戦い」が起こる。南朝方の菊池武光が勝利し2年後に九州を制圧する。 後村上天皇
後光厳天皇
1372年 九州探題の今川了俊が菊池武光を肥後に追い、大宰府を奪還する。 長慶天皇
後円融天皇
1375年 「水島の変」で少弐冬資(少弐頼尚の次男)が今川了俊に謀殺される。
戦国1467年 「応仁の乱」が起こる。1477年まで11年間続く 後花園天皇
後土御門天皇
李氏
朝鮮
1567年 大友の有力武将、高橋鑑種(あきたね)が秋月種実、毛利元就と結び謀反を起こす。 正親町天皇
休松の戦い(やすみまつのたたかい)。秋月種実、大友軍と戦う。
1569年 戦国「多々良浜の戦」。大友宗麟と毛利元就が多々良川を挟み対峙する。
1586年 「岩屋城の戦い」大宰府岩屋城で高橋紹運軍、島津軍5万に徹底抗戦し玉砕する。 後陽成天皇
1587年 「博多町割り」。豊臣秀吉は島津降伏後、博多の復興を行う。
1592~
1593年
「文禄の役」豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。
1597~
1598年
「慶長の役」2度目の朝鮮出兵。
1600年 関ヶ原の功により、黒田長政が筑前に入る。
江戸1603年 徳川家康、江戸幕府を開く。
1607年 福岡城が完成し、黒田長政入城する。
1632年 「黒田騒動」。栗山大善が二代藩主、黒田忠之を幕府に訴える。 明正天皇
1703年 貝原益軒「筑前国続風土記」を著す。 東山天皇
1713年 貝原益軒「養生訓」を著す。 中御門天皇
1784年 志賀島で「漢委奴国王」印(金印)が発見される。 光格天皇
幕末1853年 黒船が浦賀へ来航。ペリー提督が開国を要求する。 孝明天皇
1858年 安政の大獄始まり野村望東尼が幕府に追われる僧・月照を平尾山荘に匿う。
1860年 桜田門外の変。大老、井伊直弼が暗殺される。
1862年 平野國臣が寺田屋事変に関連し、福岡で投獄。ここで「紙撚文書」を著す。同じく真木和泉も久留米藩に送還される。
生麦事件。島津久光の行列を横切った英国人が供の者に斬られる。
1863年 8月18日の政変が起こり、真木和泉は七卿の長州落ちに随行する。
平野國臣が生野で挙兵するが失敗、京都六角獄舎へ投獄される。
1864年 池田屋事変。新選組が尊皇攘夷の志士の会合の場に討ち入る。
禁門の変が起こり、真木和泉が天王山で自刃、平野國臣は六角獄舎で斬首される。
第一次長州征伐で長州藩は恭順の意を表す。そのため五卿は福岡藩預かりとなり翌年に太宰府延寿王院に移る。
野村望東尼が高杉晋作を平尾山荘に匿う。
1865年 「乙丑の獄」(いっちゅうのごく)が起こり、筑前勤皇党壊滅する。
1866年 第二次長州征伐で不参加や撤退する藩が出て、幕府は長州と停戦する。 明治天皇
1867年 大政奉還で江戸幕府が終わる。
明治1868~
1869年
戊辰戦争が始まり、黒田藩も出兵する。
1874年 江藤新平、島義勇を中心とし「佐賀の乱」が起こる。
1876年 熊本の「神風連(しんぷうれん)の乱」に呼応して「秋月の乱」が起こるが明治政府によって鎮圧される。
1877年 西南戦争が起こり、高場乱の私塾「興志塾」の多数の塾生が薩摩軍に参加する。

は福岡の歴史に直接関係のない出来事ですが、日本史全体と関連付けるため掲載しています。
は福岡に間接的に関係する出来事です。









■三国動乱の朝鮮へ■

年代 出来事 出典 天皇
300年代 熊襲の抵抗。
仲哀天皇が崩御し「熊襲との戦」から「新羅との戦」へ移行。
日本書紀 景行天皇
(日本武尊)
仲哀天皇
329年頃 日本書紀の記述ではこの頃に神功皇后が朝鮮半島に侵攻したと思われる? 日本書紀 不在
372年頃 百済の近肖古王と太子の貴須が倭国王「旨」に「七支刀(七枝刀)」を送る。 七支刀の銘文
日本書紀
応神天皇
389年頃 日本書紀の記述ではこの頃に神功皇后が崩御したと思われる。 日本書紀 応神天皇
391年 倭国が朝鮮半島に侵攻し、百済、新羅を破り臣従させる。 好太王碑 応神天皇
393年 倭国軍が新羅の都を包囲する。 三国史記 応神天皇
397年 百済が倭国へ人質として王子を送る。 三国史記 応神天皇
399年 倭国が百済と同盟し新羅に攻め込む。新羅は高句麗へ救援を求める。 好太王碑 応神天皇
400年 高句麗が5万の兵で新羅を救援に向かうと倭国は退却するが、 それを追うと隙を突いて安羅(伽耶の一国)軍が新羅の都を占領した。 好太王碑 応神天皇
402年 新羅が倭国へ人質として王子を送る。 三国史記 応神天皇
404年 倭が帯方郡に侵攻してきたが、高句麗軍はこれを攻めて撃破した。 好太王碑 応神天皇
413年 倭王讃が東晋に朝献。 晋書 仁徳天皇
421年 倭王讃が宋に朝献し、武帝から除綬を給う。 宋書 仁徳天皇
425年 倭王讃が宋の文帝に朝献。 宋書 仁徳天皇
430年 倭王、宋に朝献。 宋書 仁徳天皇?
432年頃 履中天皇即位。(在位5年で病のため崩御) 履中天皇
438年 倭王讃没し弟珍立つ。この年、宋に朝献し自ら「使持節都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓、六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し任命を求める。
宋の文帝は珍を安東将軍倭国王に任命する。
宋書 反正天皇
443年 倭王済、宋の文帝に朝献し、安東将軍倭国王を認められる。 宋書 允恭天皇
451年 倭王済、宋の文帝から「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、六国諸軍事」を加号される。
安東大将軍に進号する。
宋書 允恭天皇
460年 倭王、孝武帝へ朝献。 宋書 允恭天皇?
462年 宋の孝武帝は、済の息子の興を安東将軍倭国王とする。 宋書 安康天皇
477年 倭王興、宋に朝献。
先立って興は没し弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。
宋書 雄略天皇
478年 倭王武は、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。 宋書 雄略天皇
479年 南斉の高帝は倭王武を鎮東大将軍に進号。 南斉書 雄略天皇?
502年 梁の武帝は倭王武を征東大将軍に進号する。 梁書 雄略天皇?
512年 大伴金村が百済の要求に応じ、任那四県を割譲する。 日本書紀 継体天皇
527~
528年
磐井の乱が起こる。528年11月筑紫平野北部で戦うが磐井は破れ乱が平定される。 日本書紀 継体天皇
529年 近江毛野(おうみのけな)朝鮮に渡り、交渉のため新羅、百済の王の来訪を促すが、逆に攻められる。 日本書紀 継体天皇
531年 継体天皇が崩御する。   継体天皇
537年 新羅が任那へ侵攻したため、大伴金村の子、磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)の兵を任那へ派遣した。 日本書紀 宣化天皇
562年 伽耶が新羅に併合される。 欽明天皇
562年 任那が降伏したため新羅に紀男麻呂(きのおまろ)を派遣するが任那を復興できず。 欽明天皇
そ の 後
660年 新羅・唐の連合軍が百済を滅ぼす。 斉明天皇
663年 中大兄皇子は百済復興のため朝鮮に出兵するが、白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れる。 日本書記 (中大兄皇子)
668年 新羅・唐の連合軍が高句麗を滅ぼす。 天智天皇
672年 「壬申の乱」で大友皇子を破った天武天皇が即位し新羅とは和平路線をとる。 天武天皇
676年 新羅が唐を追い朝鮮半島を統一する。 天武天皇

は倭国に関する出来事。
は朝鮮に関する出来事。
は中国の史書。

「倭の五王」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年6月11日(土)23:22
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
「好太王碑」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年6月12日(日)21:05
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91










■奈良時代の権力闘争■


716年 2月10日玄昉と下道真備が阿倍仲麻呂と共に唐に渡る。 玄宗皇帝は玄昉を尊んで紫の袈裟を着用させる。

729年 2月10日長屋王の変が起こる。(藤原氏との政争が原因とされる)
3月4日葛城王(橘諸兄)が正四位下に任じられる。

735年 2月7日唐の留学から帰国した玄昉は多くの経典や仏像を持ち帰る。同じく下道真備は天文書や天文測定器や楽器や兵器などを持ち帰る。

736年 2月7日玄昉に百戸と童子8人を与えられる。

737年 4月17日藤原不比人の次男・房前(ふささき、正三位)が死去する。
7月13日不比人の四男・麻呂(まろ、従三位)が死去する。
7月25日不比人の長男・武智麻呂(むちまろ・正一位)が死去する。
8月5日不比人の三男・宇合(うまかい・正三位)が死去する。
8月26日玄昉が僧正に任じられる。
8月28日藤原宇合の長男・広嗣が従五位下に叙せられる。
12月27日玄昉が聖武天皇の母の藤原宮子に謁見し病を癒す。
下道(吉備)真備が従五位上に叙せられる。

738年 1月13日橘諸兄が正三位に叙せられ、右大臣に任じられる。
7月10日大伴子虫(おおともこむし)が中臣東人(なかとみのあずまびと)と囲碁の最中に東人が長屋王を陥れた事を知り、その場で東人を斬り殺す。
12月4日藤原広嗣が大宰少弐に任じられる。(左遷とされる)

740年 1月13日藤原仲麻呂が正五位下に叙せられる。
5月10日橘奈良麻呂が従五位下に叙せられる。
8月29日大宰少弐の藤原広嗣が僧正・玄昉と下道真備を弾劾し追放を求める。
9月3日藤原広嗣が大宰府で兵を挙げたため、聖武天皇は討伐を命じる。(藤原広嗣の乱)
9月4日橘諸兄が討伐軍を出発させる。
10月9日板櫃川の戦い。朝廷の勅使に大義がないことを指摘され藤原広嗣は兵を引く。
11月3日藤原広嗣が捕縛され、二日後に斬刑に処される。
11月21日橘諸兄が正二位に叙され、藤原仲麻呂が正五位下に叙される。

742年 1月5日大宰府が廃止される。

743年 5月5日橘諸兄が従一位に、藤原仲麻呂が従四位上に、下道真備が従四位下に、橘奈良麻呂が五位上に叙せられる。
12月26日筑紫に鎮西府が置かれる。

745年 1月7日藤原仲麻呂が正四位上に叙せられる。
1月21日行基法師が大僧正に任じられる。
6月5日大宰府が復活する。
11月2日玄昉法師が筑紫の観世音寺の造営を名目とし、左遷される。
11月17日玄昉の財物が没収される。

746年 4月22日藤原仲麻呂が従三位に叙せられる。
6月18日玄昉が観世音寺にて死去。天皇に寵愛され、僧侶に反する行動が多かったために人々より憎まれたといわれ、世間では藤原広嗣の祟りと噂される。
10月19日下道真備が吉備姓を賜る。

747年 1月20日橘奈良麻呂が正五位下に叙せられる。

748年 3月22日藤原仲麻呂が正三位に叙せられる。

749年 2月2日大僧正・行基和尚が死去。
4月1日橘奈良麻呂が従四位上に叙せられる。
4月14日橘諸兄が正一位に叙せられる。
7月2日孝謙天皇が即位する。
吉備真備が従四位上に叙せられる。

750年 1月10日吉備真備が筑前守に左遷される。
1月16日藤原仲麻呂が従二位に叙せられる。

751年 11月7日吉備真備が遣唐使の副使に任命される。

753年 12月7日吉備真備の船が屋久島に着く。

754年 1月16日橘奈良麻呂が正四位下に叙せられる。
大伴古麻呂が唐僧・鑑真を伴って帰国。吉備真備の船が紀伊国に漂着(日付は不明)。
4月7日帰国した大伴古麻呂と吉備真備が正四位下に叙せられる。

755年 11月橘諸兄の家人が、諸兄に太上天皇(聖武天皇)に対する無礼な発言があった事を訴え出る。

756年 2月2日左大臣で正一位の橘諸兄が辞職。
5月2日太上天皇(聖武天皇)が崩御。
6月22日大宰大弐の吉備真備が怡土城の築城開始。

757年 1月6日橘諸兄が死去。
6月28日橘奈良麻呂の(藤原仲麻呂を退けるための)謀議が発覚する。
7月4日橘奈良麻呂、大伴古麻呂らが捕縛、拷問を受け自白。首謀者は拷問で死亡する。(橘奈良麻呂の乱)

758年 7月4日藤原仲麻呂に恵美押勝の名が与えられる。
8月1日淳仁天皇が即位する。
12月10日吉備真備に外冦に備えるよう命が出される。(唐では案禄山の乱が起こっていたため)

760年 7月4日藤原仲麻呂が従一位に叙せられる。
11月10日官吏6名を大宰府に遣わし、吉備真備より諸葛亮の「八陳」・孫子の「九地」などを学ばせる。

762年 5月23日称徳天皇と淳仁天皇の仲に亀裂。

763年 5月6日大和上(だいわじょう)の鑑真が死去。
9月8日称徳天皇が興福寺・少僧都(しょうそうず)の慈訓法師の任を解き、道鏡法師を少僧都に就ける。

764年 1月21日吉備真備が造東大寺長官に任命される。真備はこの頃に大宰府より中央に戻ったと思われる。
9月11日藤原仲麻呂が道鏡法師を除くために乱を起こす。
称徳天皇が吉備真備に従三位を授ける。藤原仲麻呂は近江から越前に向かう。
9月18日藤原仲麻呂は琵琶湖西岸で捕らえられ家族共々斬られる。
9月20日称徳天皇が道鏡禅師を大臣禅師に任じる。
10月9日淳仁天皇が淡路に流される。

765年 10月22日淳仁天皇が配所より逃げるが、連れ戻され翌日に薨じる。
閏10月2日道鏡を太政大臣禅師に任じる。

766年 10月20日道鏡が法王に位に就く。

768年 2月28日吉備真備が築城に着手した怡土城(糸島市高祖山)が完成する。

770年 8月4日称徳天皇が崩御。
8月21日皇太子の白壁王が道鏡を下野の薬師寺の左遷する。
10月1日白壁王が光仁天皇として即位する。

772年 4月7日下野国より「薬師寺別当の道鏡が死去」との言上。

775年 10月2日正二位で前右大臣の吉備真備が83歳で死去。

色の文字で書かれた部分は筑紫に関連する出来事

-参考 「続日本紀」(宇治谷孟氏/講談社学術文庫)-











■九州南北朝年表■


1336年 少弐頼尚に迎えられた足利尊氏が「多々良浜の戦い」で菊池、阿蘇軍を破り、九州武士団を率いて再び京都へ攻め上る。 尊氏は九州を去るにあたって、天皇方の押さえとして一色範氏と仁木義長を残す。

1346年 一色範氏の嫡男・直氏が九州探題に任命される。

1348年 懐良親王が肥後の隈府に入り、征西府を起こす。

1349年 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こる。足利尊氏、直義兄弟の関係に亀裂。尊氏の庶子・足利直冬が肥後川尻に上陸する。

1351年 月隈金隈の戦い。足利直冬を擁する少弐氏が菊池氏と協力した一色氏を敗る。

1352年 2月26日、鎌倉にて足利直義が没し、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が終わる。
同年に足利直冬は九州を退去。

1353年 1月22日、旗頭を失くした少弐頼尚が浦ノ城を一色範氏に攻められ窮地に陥るが、仇敵の菊池武光が援軍に現われ助けられる。
2月2日、針磨原の戦いで菊池武光と少弐頼尚の連合軍が一色範氏を破る。

1354年 姪浜、飯盛の戦い。一色氏は長門に追われる。

1358年 4月30日、京都にて足利尊氏死去。

1359年 9月29日、「大保原の戦い(筑後川の戦い)」が起こる。足利尊氏死去で勢いづいた南朝方の菊池武光が有利に戦いを進め、少弐頼尚は大宰府に撤退する。 菊池方の被害も多大だったため肥後に引き上げる。

1361年 8月、油山青柳の戦い。菊池氏が少弐氏と戦い勝利する。少弐頼尚は豊後に逃れる。
懐良親王が大宰府に入り征西府を移す。

1362年 九州探題に任命された斯波氏経が、豊後に入り大友氏と共に菊池氏と戦う。
長者原の戦い。少弐、宗像、松浦の軍が探題・斯波氏経の嫡男・松王丸を大将として菊池勢と戦うが敗れる。 翌年に氏経は九州から撤退する。

1365年 渋川義行が九州探題に任命される。義行は九州に上陸できず。

1370年 今川了俊が九州探題に任命される。

1372年 九州探題の今川了俊が菊池武光を追い、大宰府を奪還。武光は高良山に入る。

1373年 菊池武光が没し、武政が継ぐ。

1374年 菊池武政が戦の傷が元で没し、弱冠12歳の菊池武朝が継ぐ。
隈府では懐良親王より良成親王が征西将軍職を引き継ぐ。

1375年 8月、福童原の戦い。武光の甥・菊池武安が武朝と共に高良山より筑後川を越え、武家方と戦う。 武安は了俊の軍に敗れ肥後に退却する。
菊池氏を隈府追い詰めた今川了俊は水島で少弐冬資(少弐頼尚の次男)を謀殺する(水島の変)。 この暴挙で了俊と冬資の仲を取持った島津氏久は離反し、大友親世も兵を引き上げる。 少弐家は弟の頼澄が継ぐ。

1383年 八代にて懐良親王死去。

1392年 南北朝が統一される。

1395年 今川了俊が失脚し京都に戻る。

1396年 渋川満頼(渋川義行の子)が九州探題に任命される。

1423年 九州探題の渋川義俊(満頼の子)が少弐満貞(頼澄の孫)に筑前より追われ肥前に逃れる。

1425年 渋川義俊が再起を図るが、少弐満貞に再び敗れる。義俊は従兄弟の満直に家督を譲る。
九州探題を攻撃した少弐氏の行動に対し、幕府は大内盛見を下向させ満貞を破る。

1429年 少弐満貞が菊池氏と共に兵を挙げ、大内盛見と戦う。

1431年 筑前西部まで深入りした大内盛見が怡土郡で少弐満貞と大友持直の軍に討たれる。

1433年 大内盛見の甥、持世が筑前に侵攻し少弐満貞を秋月に討つ。

1434年 渋川満直が肥前にて少弐氏の一族に討たれる。

1467年 「応仁の乱」が起こる。1477年まで11年間続く。

1469年 少弐政資(満貞の孫)が「応仁の乱」で手薄になった大内勢を筑前、豊前から追う。

1478年 「応仁の乱」が終わったため大内政弘(盛見の孫)が九州へ兵力を向け少弐政資を攻める。政弘は豊前、筑前を奪い、政資は肥前に逃れる。

1496年 少弐政資が「筑紫の戦い」で大内義興(政弘の子)の軍に敗れ、肥前にて自害する。

1533年 渋川義長(満直の曾孫)が少弐氏と手を組んだため、大内氏に攻められ自害する。ここに九州探題は滅ぶ。

1530年 少弐資元(政資の子)は「田手畷の戦い」で大内軍を撃退した龍造寺家兼の仲介で大内義隆と和睦する。

1536年 少弐資元が大内義隆に攻められ父・政資と同じく肥前多久にて自刃する。

1544年 少弐冬尚(資元の子)の家臣・馬場頼周は1530年の大内氏との和睦に関して、龍造寺家兼の逆心を疑い策を巡らし龍造寺家を討つ。 家兼は柳川の蒲池氏の元に逃れる。

1546年 龍造寺家兼は鍋島氏・千葉氏を後ろ盾に兵を挙げ、馬場頼周を討ち、少弐冬尚と敵対する。

1559年 少弐冬尚が龍造寺家兼の曾孫・隆信に討たれ、少弐氏が滅びる。


-参考 「戦国九州軍記」(歴史群像シリーズ⑫/学習研究社)-










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スポットライト人物伝


【豊臣秀吉(とよとみひでよし)】
(1537年~1598年)


織田信長の部下として頭角を現した秀吉は、信長の死後その領地をほぼ継承し、四国を手中に収めると次に九州平定に着手します。 そして1587年に島津義久を降すと筑前へ戻り、「博多町割」と呼ばれる復興を行います。 権力掌握後の秀吉に対しては様々な評価がありますが、海外貿易を重視する秀吉に対する博多商人たちの期待と信頼の気持ちは大きなものだったと思われます。



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