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検索の結果 36件の記事が見つかりました


毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

高橋と筑紫の和約(1586年)【福岡史伝・戦国】
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑ん.....

耳川の戦い-筑前・筑後-(1578年)【福岡史伝・戦国】
大友方の多くの将兵が斃れた耳川 1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に.....

鷲ケ岳城の攻防(1579年)【福岡史伝・戦国】
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知.....

休松の戦い(1567年)【福岡史伝・戦国】
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。 大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきす.....

北部九州戦国史(戦国時代)【福岡史伝・戦国】
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。 ところが、1551年にはそ.....

もう一つの都(豊津とその周辺の史跡)【意外な話】
豊前国府中門跡 福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・豊津とその周辺の地域になります。ここには豊前国分寺や豊前国府跡、船迫窯跡(築上町)、御所ケ谷神籠石(行橋市)などの史跡があり、この施設が大宰.....

秋月城跡(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
秋月氏について 秋月氏の祖は「藤原純友の乱」で小野好古と共に乱を平定した大蔵春実といわれ、乱平定後は大宰府より南に6㎞ほど離れた原田(はるだ)に居を構え原田氏を名乗ります。 その後、原田氏は「源平の戦い」で平氏につき敗北、源氏より所領を没収されます。 しかし将軍が頼.....

福岡の変(1877年)【福岡史伝・幕末・維新】
熊本、秋月、萩の乱が醒め遣らぬ1877年2月、薩摩の私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起すると、 福岡でも薩軍に呼応するため元福岡藩士の武部小四郎や越智彦四郎が準備を始めます。 そして薩軍の決起より約2ヵ月後の3月27日、200名余りで兵を挙げますがこの頃、 薩軍は田.....

秋月の乱(1876年)【福岡史伝・幕末・維新】
1874年に江藤新平を中心として起こった「佐賀の乱」から2年後、1876年3月28日に廃刀令が発せられると、西日本各地の士族が募る不満を爆発させます。 10月24日には熊本で太田黒伴雄が率いる170名の士族(神風連)が乱を起こし、 そして3日後の10月27日、福岡秋月では宮崎車之助等が熊.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

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福岡史伝・戦国
 【北部九州戦国年表】(1530年~1621年)


以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。

筑前
筑後
肥前
豊前・豊後
中国地方
その他の出来事
武将の名は時代で変わりますが、理解し易くするためにここでは一般的に認知されている名前で統一しています。

■戦国年表■



1530年 少弐方の龍造寺家兼・鍋島清久らが肥前攻略を目指す大内氏を「田手畷(たでなわて・吉野ヶ里町田手)の戦い」で破り筑前に追う。

1533年 少弐氏と手を結んだ渋川義長(九州探題)が、大内氏に攻められ自害する。ここに九州探題は滅ぶ。

1534年 「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で龍造寺家兼が肥前攻略の大内氏を奇襲し筑前に追う。 少弐資元(しょうにすけもと)は龍造寺家兼の仲介で大内義隆と和睦する。

1536年 少弐資元が大内義隆に攻められ父・政資と同じく肥前多久にて自刃する。

1544年 少弐冬尚(資元の子)の家臣・馬場頼周(ばばよりちか)は1534年の大内氏との和睦に関して、龍造寺家兼の逆心を疑い策を巡らし龍造寺家を討つ。

1545年 龍造寺家の主だった人物が馬場頼周に斬られ、家兼は筑後の蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元に退去する。

1546年 龍造寺家兼は鍋島氏・千葉氏を後ろ盾に兵を挙げ、馬場頼周を討ち、少弐冬尚と敵対する。そして曾孫の龍造寺隆信を後継とし、この年に没する。

1550年 「二階崩れの変」で大友宗麟が大友家当主となる。

1551年 大内義隆が陶晴賢(すえはるかた)に謀反され自害する。
宗麟の弟・晴英、大内氏を継ぎ大内義長となる。
大内氏の後ろ盾を失った龍造寺隆信は、大友派の家臣に攻められ曾祖父・家兼と同じく蒲池鑑盛の元に退去。

1554年 大友宗麟が肥後の叔父・菊池義武を討ち菊池氏が滅ぶ。

1555年 「厳島の戦い」で毛利元就が陶晴賢を破り周防、長門を掌握する。

1557年 毛利元就に攻められ大内義長が自刃する。
秋月文種と筑紫惟門が毛利元就に呼応したため、大友勢より攻められる。秋月文種は自刃し筑紫惟門(ちくしこれかど)は毛利氏の元に落ちる。

1558年 門司城の戦い。毛利氏と大友氏が攻城戦を繰り広げる。

1559年 少弐冬尚が龍造寺家兼の曾孫・隆信に討たれ、少弐氏が滅びる。
高橋鑑種(たかはしあきたね)、宝満城の城主となる。
毛利氏の元に逃れていた秋月文種の次男・種実が秋月に戻り大友氏に抵抗する。 筑紫惟門が筑前に攻め込み博多が焼亡する。

1560年 「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を破る。

1564年 7月、大友、毛利が和議を行う。

1566年 「月山富田(がっさんとだ)城の戦い」で毛利氏が尼子氏を敗り、再び九州攻略に乗り出す。

1567年 秋月種実が「休松の戦い」で立花道雪(たちばなどうせつ・戸次鑑連)に奇襲をかけ大混乱に落としいれる。
高橋鑑種が宝満城で主家・大友氏に反旗を翻す。

1568年 立花城主・立花鑑載(たちばなあきとし)が大友氏に反旗を翻すが立花道雪に立花城を落され、自刃する。
「多々良浜の戦い」毛利氏と大友氏が多々良川を挟み対陣する。
織田信長が足利義昭と伴に上洛する。

1569年 大友宗麟の支援を受けて大内一族の大内輝弘が周防より上陸し毛利氏を攻撃する。
尼子氏の家臣・山中鹿之助が出雲国で毛利氏に抵抗する。
後方を攪乱された毛利氏は筑前より撤退する。
後ろ盾をなくした秋月種実、筑紫広門は降伏。高橋鑑種は毛利氏の小倉城へ移される。
高橋紹運(たかはしじょううん)が高橋家を継ぎ、宝満、岩屋の二城を守る。

1570年 6月、毛利元就が没す。
大友軍は大軍で龍造寺を包囲するが「今山の戦い」で、鍋島信生の夜襲を受け敗走する。

1575年 「長篠の戦い」で織田信長が武田勝頼を破る。

1578年 11月、「耳川の戦い」で大友が島津に大敗を喫す。
秋月氏と筑紫氏が龍造寺氏と手を組み大友氏に三度目の反乱を起こす。
蒲池氏など筑後の武将も大友氏と一線を画し龍造寺に寄る。

1579年 10月、龍造寺と筑紫広門が大友の鷲岳城に兵を向ける。

1580年 蒲池鎮並(かまちしげなみ)が龍造寺隆信より離反する。
龍造寺氏が柳川城攻略を行うが落とせず撤退する。

1581年 5月27日、蒲池鎮並が龍造寺隆信に謀殺される。
5月28日、龍造寺勢に攻められ蒲池氏の柳川城落城。続き6月1日、塩塚城落城し五百余名が討たれる。翌々日には佐留垣落城が落城し百余名が討たれ蒲池氏が滅ぶ。

1582年 6月2日、本能寺の変。

1583年 高良山座主麟圭(りんけい)は3年にわたって久留米城に籠り、大友氏と対立する。
「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉が柴田勝家を破る。

1584年 3月、龍造寺隆信、「沖田畷の戦い」で島津に敗れ討死する。

1585年 3月、秋月種実が立花城を攻めるが、立花統虎の夜襲に遭い撤退する。
5月、豊臣秀吉の四国攻め。
9月、立花道雪が北野の陣中で病没する。
筑紫広門が、高橋紹運の不在を突き宝満城を攻略する。

1586年 4月、大友宗麟が豊臣秀吉に謁見し救援を求める。
筑紫広門が高橋統増(紹運の次男)に娘を入れ同盟する。宝満城は高橋氏と筑紫氏で共同で守る。
五ヶ山城を島津勢に攻められ筑紫広門が降伏。
7月、「岩屋城の戦い」で、島津軍に攻められた高橋紹運が自刃する。
8月、豊臣軍が九州に上陸する。
8月、立花宗茂が岩屋城、宝満城を奪い返す。
10月、徳川家康が豊臣秀吉に臣従する。

1587年 5月、島津義久が秀吉に降伏する。
6月、大友宗麟が病没。
太閤博多町割りが行われる。
豊臣秀吉の九州国割により、筑前には小早川隆景、豊前の南部には黒田如水、久留米には毛利秀包(ひでかね)、柳川には立花宗茂が入る。

1598年 豊臣秀吉が没する。

1600年 関ヶ原の戦いで東軍で勝利に貢献した黒田長政が筑前に入る。西軍に着いた立花宗茂は改易される。

1615年 「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅ぶ。

1621年 立花宗茂が再び柳川城主となる。










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スポットライト人物伝


【古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)】
(1833年~1869年)


筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官軍の艦砲射撃に合い被弾、37歳で幕府に殉じます。
語学堪能で神奈川奉行所で通訳していた頃に.....[全文を表示]




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