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検索の結果 2件の記事が見つかりました


太宰府天満宮-参道~本殿-(太宰府市宰府)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
一の鳥居 太鼓橋 麒麟像 「梅ヶ枝餅」を造る店や茶店、お土産店の立ち並ぶ石畳の参道を進むと「一の鳥居」が見えてきます。 ここを右に行くと「光明禅寺」、真っ直ぐ鳥居をくぐると幕末の志士たちが集った「延寿王院」に突き当たります。 「一の鳥居」の写真は.....

光明禅寺(太宰府市宰府)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
光明禅寺は1273年、鉄牛円心によって開山された臨済宗の禅寺です。枯山水の庭園があり秋になると美しい紅葉が広がり、多くの観光客の心を癒します。庭園にむした苔のため、別名「苔寺」とも呼ばれています。 鉄牛円心は円爾(えんに)の弟子で、ここ光明禅寺で円爾の言行を記す「聖一国師年.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
学ばざれば、便(すなわ)ち老いて衰う
近思録





意外な人物伝
 【明史・秀吉伝】(1592年)-中国から見た豊臣秀吉像-

神屋宗湛屋敷跡「豊国神社」
中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。

日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが、その時、木の下に寝転んでいた男が突然飛び起きて信長に猛進してきた。この男を捕らえて何事か問い詰めると、男が言うには「私は平秀吉という者で、薩摩人の奴隷である」と。体は丈夫ですばしっこく、その上に口先が達った。 信長はこれを面白がり、馬廻りの役に付け、「木下」と名を与えた。信長のためによく働き、後に二十余州を奪い大将となった。
信長は罪を犯した参謀の阿奇支(安芸・毛利氏と明智光秀を混同?)を秀吉に討たせるが、その信長自身が部下の明智に討たれてしまった。 変を聞いた秀吉は阿奇支を滅ぼした勢いで、取って返し明智を誅滅し、名を響かせた。そして1586年(1585年?)、信長の3人の子を廃し、自らが関白となった。
その後、秀吉は諸将の兵を引き連れ明を攻めようとしたが、その時、子供が死んで、兄弟もなかった(「自国を守らせる身内がいなかった」の意?)。 また、豊後の将(大友義統?)の妻を奪い妾とした。 諸将は秀吉の暴虐を怨み「この戦いの目的は明を攻めることではなく、我々の力を削ぐ事に違いない」と言った。 そして諸将の心もバラバラでまとまりがなかった。この様な事情で秀吉は自ら攻めて来ることはなかった。

以降にはその後の「朝鮮の役」の概要が載せられ、戦いの途中にして秀吉が死んだため倭の諸将は各々自国へ引き上げて行き、やっとゆっくり眠れる様になったと記されています。
ところで、この「明史」に記載される内容が、戦役の当時に日本から伝わった情報なのか、それとも江戸時代に書かれた創作を含む伝記が伝わったものなのか、興味深いところです。 もし前者であるならば、日本でも知られていない小さな真実がこの記事の中に埋もれているのかもしれません。

-参考・引用「倭国伝」(藤堂明保氏、竹田晃氏、影山輝國氏/講談社学術文庫)-









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スポットライト人物伝


【貝原東軒(かいばらとうけん)】
(1651年~1713年)


秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。



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