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二卿事件-久留米藩難-(1871年)【福岡史伝・幕末・維新】
明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」という出来事が、これより以前の明治4年に発生しています。 これは、幕府を倒したものの、攘夷を断行しない新政府を再度倒して、攘夷を敢行す.....

高山彦九郎(1747年~1793年)【福岡人物伝】
江戸中期から後期にかけての草莽の勤皇家で「寛政の三奇人」のひとり。40代半ばで九州を遊歴し王政復古を説き、幕府を批判しますが幕府の圧力があったのか久留米に滞在中に自刃し最期を迎えます。しかしその思想は70年後の尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。長州で維新の原動力となった志士たちを育てた吉田松陰の号.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以って潰ゆ
韓非子





名所旧跡・中央区城南区
 【平尾山荘】-平尾山荘公園-





野村望東尼像

 【野村望東尼】

歌人野村望東尼(俗名モト)が、夫と一緒に世間から離れ、ひっそりと暮らした山荘。 安政6年(1859年)、54歳のときに夫を亡くしたモトは尼となり、この頃から大政奉還や討幕運動に沸く幕末の状況に心を痛めつつ、天皇への忠義を誓う「勤皇の志」を燃やすようになります。当時、山荘には高杉晋作、平野國臣ら藩内外の志士がひそかに集まるようになり、望東尼は彼らを必死にかくまい、励ましたといいます。

「平尾山荘」の案内板より

野村望東尼が勤皇の志士たちとつながりを持ったのは同じ歌人であった平野國臣を通してだと思われます。
1858年の「安政の大獄」で幕府から追われる月照を匿いますがこれは平野國臣を介してのものと思われ、その後、國臣は薩摩まで月照の警護を勤めます。
この辺りから、この山荘は勤皇の志士たちが集う策動の地になっていったと思われます。 そして、1964年の長州征討で恭順を示した長州藩では保守派が台頭し、討幕派の高杉晋作は福岡へ逃れこの山荘に匿われます。 これは福岡藩脱藩の志士・中村円太や早川養敬、月形洗蔵等の筑前勤皇党が手配したものといわれています。
そして1865年に望東尼が乙丑の獄(いっちゅうのごく)で流配された後の山荘は一時廃屋となり草木に埋もれますが、明治の末に再整備されたとのことです。 現在この地は「山荘公園」、公園前の通りは「山荘通り」と呼ばれ、長く歴史に伝えられていくことでしょう。











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スポットライト人物伝


【黒田忠之(くろだただゆき)】
(1602年~1654年)


行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗山大善と不仲になります。 二人の関係が泥沼化すると忠之はついに大善から幕府へ訴えられます。 改易が相次いでいた時期でもあったため黒田藩も取り潰しの憂き目に合いますが、 幕閣の配慮により大善は南部藩預かりとなりことは収められました。



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