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検索の結果 6件の記事が見つかりました


山鹿秀遠(?~1185年?)【福岡人物伝】
豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。ところで山鹿いえば熊本の山鹿市が有名ですが、山鹿氏は菊池氏.....

「刀伊」(女真族)の入寇(1019年)【福岡史伝・平安】
1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。 そして糸島東部から早良郡、能古島を荒らし、次に箱崎を攻撃します。 大宰権帥(だざいごんのそつ-大宰府長官-)の藤原隆家は警固所に集まった兵を率い、箱崎に上陸した刀伊の軍を撃退したため、 .....

平安時代(菅原道真左遷と藤原純友の乱)【一夜漬け福岡史】
901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。 遺体は大宰府東方の安楽寺に埋葬されますが、後にその地に社殿が建立されます。これが太宰府天満宮の起源になります。 そして菅原道真の左遷から.....

「刀伊の海賊」を撃退した男(暴れん坊中納言・藤原隆家)【意外な人物伝】
「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。 その人の名を藤原隆家といいます。父親は朝廷№1の実力者、姉は天皇の中宮(第一婦人)という名門ゆえに、十代半ばにはやりたい放題を繰り返します。たと.....

「御堂関白記」が世界記憶遺産に登録(2013年8月8日)【余談】
6月18日に藤原道長の「御堂関白記」がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。 日本の古典が世界に評価されるのは非常に喜ばしい事ですが、この人は結構傲慢な人間性の持ち主だったようです。 平安時代中期に兄・藤原道隆が大酒が原因で死去すると、その権力を継承し藤原氏の全盛期を築きます。 .....

藤原隆家(979年~1044年)【福岡人物伝】
平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性格と爽快な生き方から後世の人からもっと注目されてよい人物なの.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の微を究めて、しかる後、共に経世の要務を断ずることが出来るのだ。
氷川清話





福岡史伝・幕末・維新
 【二卿事件-久留米藩難-】(1871年)

明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」という出来事が、これより以前の明治4年に発生しています。
これは、幕府を倒したものの、攘夷を断行しない新政府を再度倒して、攘夷を敢行する事を目的とした計画でした。この計画は未遂に終わったため、歴史的に大きく取り扱われる事が少なく、あまり一般的には知られていませんが、秋田、東京、京都、久留米などで多くの捕縛者を出しました。主謀者は愛宕通旭(おたぎみちてる)、外山光輔(とやまみつすけ)の二人の公卿となっていますが、裏で攘夷派の志士が連絡を取り合って幾つかの不平勢力を繋ぎ、連携を広げていったようです。ただ活動はそれぞれの思惑で動き、また広範囲で活動したため、新政府の察知するところとなり決起の前に主要メンバーが捕縛される事になります。
勝海舟もこの計画を肥後の古荘嘉門から聞かされていた様で、後に「東北(連合の事)は、少なくとも二年位は持つと思っていたよ。」と回顧しています。

久留米は、尊王の士・高山彦九郎の終焉の地で、また早い時期から志士の真木和泉が出て尊王の地として名高いところでしたが、幕末の頃は佐幕派の不破美作(ふわみまさか)が参政となり、その下で今井栄が藩の開明化を進めます。
しかし、幕府が大政奉還を行うと、翌1968年(慶応4年)1月、尊攘派の小河真文(おごうまふみ)らによって不破が暗殺され、翌年には今井が切腹、佐幕派が粛清されます。そして、小河は奇兵隊脱隊騒動で長州より逃れてきた大楽源太郎(だいらくげんたろう)を匿いますが、この大楽を通して「二卿事件」に関わった様です。
1871年(明治4年)3月、事が露見すると小河は捕縛され、その三日後、大楽が久留米藩士によって斬られます。そしてその年の12月には二卿が切腹、その他の主謀者が斬首となっています。幕末に人斬りとして知られた河上彦斎もこの時に斬られており、二卿事件に関わった疑いがあったようです。
この事件で、攘夷思想は影を潜め、引き続き西洋文化が取り入れられ近代化が押し進められていくことになります。









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スポットライト人物伝


【菊池武時(きくちたけとき)】
(1292年~1333年)


鎮西探題・北条英時の呼びかけで博多に参陣した肥後の菊池武時はこれを好機と捉え鎮西探題打倒の旗を揚げ北条英時の探題へ討ち入ります。 しかし探題打倒の密約を交わしていた少弐、大友両氏は探題側につき菊池武時は討たれます。 武時は前夜に少弐貞経、大友貞宗に決起要請の使者を送っていたので、当然、鎮西探題側は武時の動きを察知していたことになります。 武時もこの事は承知の上で決死の討入りだったようで、鎮西探題へ.....[全文を表示]



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