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浦ノ城跡(太宰府市連歌屋)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
現在「浦ノ城跡」は住宅地となっており、この案内板はその児童公園内に立っています。 足利尊氏が「九州落ち」で九州に上陸した直後、菊池武敏が少弐氏の「有智山城(うちやまじょう)」を攻め落します。 その数日後の「多々良浜の戦い」で足利尊氏、少弐頼尚の軍が菊池武敏軍を撃ち破り筑前.....

多々良浜の戦い(1336年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、.....

元弘の乱-博多-(1331年)【福岡史伝・鎌倉】
後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、 この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集め.....

南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし.....

阿蘇惟直(?~1336年)【福岡人物伝】
足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近で自害しました。 のちに妻女がその地を訪れ惟直の後を追ったという話が残っています。.....

菊池武敏(?~1341年)【福岡人物伝】
菊池武時の九男。京都より落ちてきた足利尊氏が九州に上陸した情報を掴むと、阿蘇惟直と共に肥後より攻め上ります。 そして少弐氏の有智山城を攻め落とし父・武時の仇、少弐貞経を自害させます。 しかし貞経の嫡子・少弐頼尚や尊氏の軍と多々良浜で戦い敗れると南に撤退します。.....

足利尊氏(1305年~1358年)【福岡人物伝】
後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 これを知った菊池武敏・阿蘇惟直は肥後より北上し尊氏打倒を目指しますが、尊氏はこの軍を「多々良浜の戦い」で打ち破り大宰府の原八坊・一坊に 入り京都奪還を目指します。.....

少弐頼尚(1294年~1372年)【福岡人物伝】
少弐貞経の嫡男。九州に落ちた足利尊氏を下関で出迎え京の戦で敗れた尊氏を励ましたといわれます。 そして父・少弐貞経を討った菊池武敏を尊氏と共に「多々良浜の戦い」で破り、肥後に追います。 しかし二十数年後日本三大合戦に挙げられる「筑後川の戦い」で菊池武光に破れ2年後に大宰府を奪われることになります。.....

少弐貞経(1272年~1336年)【福岡人物伝】
「元弘の乱」では菊池武時の決起要請の使者を切り捨て、翌日には北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させます。 そして、その2ヵ月後には大友貞宗と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。 しかし、3年後に大宰府へ攻め込んで来た菊池武敏(菊池武時の九男)に有智山城を攻めら.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人にはすべて能不能あり 一概に人を棄てあるいは笑うべからず
山岡鉄舟





意外な人物伝
 【自由の気風の「亀井塾」】(1762年)-昭陽先生と生徒たち-

「亀井南冥昭陽両先生墓所」の碑 中央区地行・「浄満寺」門前
「漢委奴国王」の金印を鑑定した父・亀井南冥(なんめい)の後を継ぎ、私塾「亀井塾」を起した昭陽先生はある日、近隣・若者組の神事用・幟(のぼり)の揮毫(きごう)を快く引き受けますが、数日後、そのお礼にと塾へは酒が届けられます。 先生はその日の授業が終わると、さっそく生徒たち(元服済み)と「一杯やるか」と酒宴を開きます。陽はまだ高く、時は梅雨の上がった夏の入り、渇いた咽に清酒がしみる。「一杯、一杯、また一杯」詩仙の心がよくわかる。 ほろ酔い気分になってきた生徒たちは、いつもお世話になっている昭陽先生へ次から次に酒を勧めます。 その酌は「長篠の戦い」の鉄砲三段撃ちの如し、先生もかわいい生徒の杯を拒めずにゴックゴク、お開きの頃には悪酔い状態になってしまいます。 調子に乗った生徒たち、今度は先生を置いて近くの浜辺に海水浴へと繰り出します。 赤裸で戯れたその後は、各々、着物も着ず褌(ふんどし)はたたんで頭に載せて村道を堂々と帰宅の途につきました。
翌日、この醜態を聞き知った昭陽先生。「亀井塾は自由の気風と言えども、やり過ぎはよろしからず」と生徒の代表五名を呼び出し誓約書を書かせます。
その一節、「日頃からお世話になっているからと先生に呑ませ過ぎ、嘔吐させるまでに至り誠に申し訳なく思っております。私たち生徒一同は先生の健康を一途に願っております。どうかご察しください」
昭陽先生その誓約書(詫び状?)を朱墨で添削し「君らの気持ちはよく解った」と一件落着となりましたが、その後、生徒たちの酒癖が改まったかどうかは記録に残っていないようです。

-参考・引用「福岡歴史探検①近世福岡」(福岡地方史研究会/海鳥社)-



亀井昭陽は江戸中期の高名な儒学者で「日本外史」の頼山陽と交流を持っています。 また藩校「甘棠館」の廃校後は、私塾「亀井塾」を開き、そこでは日田に「咸宜園」を開いた広瀬淡窓が学んでいます。
ここで取り上げたのは福岡地方研究会の「福岡歴史探検」という本に記載されている話です。 話の中に出てきた「誓約書」は昭陽の息女の嫁ぎ先に代々伝えられ現存しているということですが、おそらく昭陽先生は生徒の代表五名の内の一人に娘を嫁がせたものと想像されます。 また生徒たちが海水浴を楽しんだのは現在のヤフオク(福岡)ドームの南側辺りにあった浜辺だと思われます。









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スポットライト人物伝


【早川勇(はやかわいさむ)】
(1832年~1899年)


月形洗蔵と共に五卿の太宰府入りを実現し、薩摩と長州の仲を取持つため奔走します。 そして同じ大庄屋の出の中岡慎太郎とは強いつながりを持ち、西郷隆盛との会談を取持っています。 このような勇らの地道な努力が後の薩長同盟へつながってゆくのです。 勤皇党弾圧の「乙丑の獄」では幽閉されますが、中心的な人物の中で唯一死罪を免れのち明治政府へ出仕しています。



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