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福岡史伝・戦国 【休松の戦い】(1567年) 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。 大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)の有力武将へ2万の兵を与え鎮圧に当たらせますが、 8月14日の緒戦に秋月種実は古処山の麓で激しい戦いを仕掛けるものの、以後は古処山城に入り守りを固めます。 大友方の三将も天然の要害・古処山城を攻める手立てもなく膠着状態に入りますが、 そこに毛利勢の九州渡海の動きを知らせる情報が入ります。 この報に接した毛利に心を寄せる豊前、筑後の諸勢力は理由をつけて大友軍から離脱し各々の所領に帰える準備を始めます。 大友に遺恨のない武将たちもこの動きに動揺し自領を固める名目で戦線を離れる者が多くなります。 このような状況の中、大友宗麟の命で三将は一旦、筑後の高良山へ兵を引くことになりますが。 その9月3日の夜、撤退を開始した大友勢の背後に秋月勢4千が突如として襲い掛かります。 20日間もの間、城に籠もっていた兵が攻撃してくる事を予測していなかったのか、 大友勢は大混乱に陥り逃げ落ちて来る味方を敵勢と勘違いし同士討ちが起こります。 戸次鑑連はこの状態を収拾し秋月勢と戦いますが、豊後目指して逃げ帰る味方の大軍の動きは止められず、多くの戦死者を出し撤退することになりました。 10年前にこの地で父・秋月文種を大友の軍に討たれ、自らも命からがら毛利元就の元まで逃れた経験のある秋月種実はこの戦いで溜飲を下ろすことになります。 関連記事:休松,秋月 |
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福岡史伝・飛鳥 【観世音寺建立】(661年)
斉明天皇は重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇で二代前に皇極天皇として在位しています。 この皇極天皇の時代に中大兄皇子はこの母の目の前で、蘇我入鹿を暗殺します。 その際、斬りつけられた入鹿は皇極天皇の前に倒れこみ「御前であるぞ!私に何の罪があるというのだ?」と叫びます。 この暗殺の件を知らなかった皇極天皇は驚き、息子の中大兄皇子になぜこのような振る舞いをするのか詰問しますが、 皇子は「入鹿が皇族を殺し、皇室を傾けるからです」と答えます。 この状況を止めることは無理と悟った皇極天皇は この場を後にし、蘇我入鹿は殺されます。これが645年の「乙巳の変」(いっしのへん)です。 この件で皇極天皇は退位し中大兄皇子に位を譲ろうとしますが、皇子は受けず天皇の弟の孝徳天皇が即位します。 654年には孝徳天皇が崩御し中大兄皇子が再び皇位に押されますが、皇子はここでも受けず、母が斉明天皇として即位します。 拘束を受けない自由な立場で行動したかった中大兄皇子としては、信用できる人が天皇の座にいて欲しかったはずで、 その人が天皇の経験がある母親だったと思われます。 斉明天皇は「乙巳の変」のこともあり即位には気が進まなかったと想像されますが、 天皇の実務はすべて中大兄皇子が行う事を条件に重祚したものではないでしょうか。 また百済救援のための九州入りも、67歳という老齢ながら「皇子のためなら」と思い中大兄皇子の依頼に従ったものでしょう。 このような経緯で、苦労をかけた母への償いの気持が「熟田津の石湯行宮」立寄りや 「朝倉橘広庭宮」滞在、「観世音寺」の建立へとつながって行ったのかもしれません。 (2011.6.18) |
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