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■如水伝■


黒田官兵衛(如水)は豊臣秀吉の軍師として知られ、官兵衛がいなければ秀吉が天下を取れたかわからないと言われる程の人物です。 鳥取城、高松城の攻略、山崎合戦、賤ヶ岳の戦い、四国攻め、九州攻め、小田原攻めと幾多の戦の場で秀吉に従い献策します。 しかしその貢献と裏腹に秀吉は官兵衛に多大な恩賞を与えようとはしませんでした。これは官兵衛の野心を疑ったためと言われています。 官兵衛自身は下克上の時代に人を裏切るような事をほとんどした事がないのですが、この疑いの目は秀吉だけでなく小早川隆景など 極親しい人々も大なり小なり感じ取っていたようで、竹中半兵衛も「毒も薬となることもあろう」批評したといわれます。 このような事からも野心家の面が僅かにでもなかったとはいえないでしょう。 ただその反面、配下の将兵や領民を、大きな意味ではすべての人を誠意を持って大切に扱おうする官兵衛の人間性も数々の逸話から強く感じられるのです。 この様に油断はならない策謀家の面と共に人間的な温かみを兼ね備えた男を歴史上に見出すのはそうは容易い事ではないでしょう。





「福岡藩の藩祖 黒田兵衛」(福岡県)
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■官兵衛年表

1546年( 1才) 姫路に黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれる。

1567年(22才) 黒田職隆より家督を譲られ姫路城代となる。主君の小寺政職(こでらまさとも)の姪・光(みつ)を妻とする。

1568年(23才) 嫡男・長政(松寿丸)生まれる。

1569年(24才) 「青山・土器山の戦い」で赤松政秀と戦う。

1575年(30才) 岐阜城にて織田信長に謁見し、以後 秀吉の播磨攻略を助ける。
主君・小寺政職、龍野城主・赤松広秀、三木城主・別所長治等の播州の国衆が織田信長に謁見する。

1577年(32才) 「英賀合戦」で毛利軍を撃退する。信長に嫡男・松寿丸を人質として送る。竹中半兵衛と共に佐用城攻略する。

1578年(33才) 別所長治や主君・小寺政職が毛利氏に付き、荒木村重も信長に叛旗を翻す。村重を翻意させようと訪れた有岡城で捕らえられる。官兵衛の謀反を疑った信長が嫡男・松寿丸の殺害を命じるが、松寿丸は竹中半兵衛によって匿われる。

1579年(34才) 竹中半兵衛が結核のため没する。
有岡城が信長の軍勢により落ち、配下の栗山利安に救い出される。(この時に信長は松寿丸が生きている事を知り喜んだと言われる)

1580年(35才) 別所長治の三木城が落ちる。主君・小寺政職も御着城を追われ、以後、官兵衛は秀吉の配下となる。

1581年(36才) 鳥取城攻略。淡路攻略。

1582年(37才) 高松城水攻め。「本能寺の変」が起こり信長が討たれ秀吉は「中国大返し」を行う。 官兵衛は小早川隆景と調停を行うと共に殿軍を勤める。「山崎の戦い」で秀吉が明智光秀を破る。

1583年(38才) 「賤ヶ岳の戦い」で秀吉が柴田勝家を破る。

1584年(39才) 高山右近の勧めでキリスト教に入信する。

1585年(40才) 四国攻め。父・黒田職隆、没。

1586年(41才) 九州攻め。小西行長等と共に博多復興事業の「博多町割り」を行う。秀吉より豊前12万石を与えられ中津城を築く。

1587年(42才) 「肥後国人一揆」が起こり、鎮圧へ向かう。

1588年(43才) 「肥後国人一揆」に呼応し城井谷城で抵抗した城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で謀殺する。

1589年(44才) 官兵衛は家督を長政に譲り、如水と名乗り隠居しようとするが秀吉の許しを得られず。

1590年(45才) 小田原攻め。北条氏政、氏直と会談し小田原城開城させる。

1592年(47才) 文禄の役。浅野長政と囲碁をしているところに面会に来た石田三成を待たせたため不仲となる。如水は秀吉の勘気に触れ剃髪し出家する。

1597年(52才) 小早川隆景没する。(如水は「この国から賢人が去った」とつぶやいたといわれる)
慶長の役。

1598年(53才) 秀吉没する。

1599年(54才) 子息・黒田長政が加藤清正、福島正則等と石田三成を襲撃する。徳川家康が仲裁に入る。

1600年(55才) 関ヶ原の戦い。如水は豊後中津で兵を起こし西軍についた武将の城を次々と攻略する。黒田長政は家康より52万を与えられ筑前に入る。

1601年(56才) 太宰府にて隠居生活に入る。

1604年(59才) 京都藩邸で死去。



■官兵衛の事


【半兵衛と官兵衛】

竹中半兵衛との接点は官兵衛が信長に謁見した1575年頃から1578年に有岡城で荒木村重に拘束されるまでの約2~3年の僅かな期間です。 この二人は秀吉の元で同じ参謀として働くのですが、性格はまったく対照的なものだったようです。 半兵衛は「知らぬ顔の半兵衛」という言葉が残るように感情を表に出さず、自分の才能を顕示するところもなかったようです。 これに対し弁舌の利く官兵衛は才気走り「能ある鷹は爪を隠さず」といった面があったのではないかと思われます。 始め秀吉配下の武将たちはこの能弁の士の人間性に疑いを持ちますが、 その時 竹中半兵衛は「毒も良薬となる事もあろう」と官兵衛を弁護したといわれます。 またある時、官兵衛は約束の証文の内容を履行しない秀吉に不満を抱きますが、 その証文を見せるように所望し受け取った半兵衛は、官兵衛の目の前でその証文を破り捨て、火鉢に投じます。 唖然とする官兵衛に「このような紙切れ一枚で、貴殿が大道を見失なうのはもったいない事じゃ」といった事をつぶやきます。 物事を悟るのに聡い官兵衛はすぐこの言葉の裏側に、不満たらたらの我が部下に逆ギレ寸前の秀吉の存在があるのを知ったのかもしれません。
そして官兵衛が有岡城に幽閉されているい間に、嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の命を救った半兵衛は1579年36歳の若さで病没します。 それから4ヵ月後の有岡城の落城で開放された官兵衛は幽閉の間の事情を知り、この二歳年上のもう会う事のない先輩軍師に深く感謝したといわれてます。





【官兵衛の兜】

如水が一番大事にした兜 -銀白壇塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)- は何故か現在、 岩手県盛岡市に存在していますが、その経緯は次の通りです。 兜は正室・光の実家の櫛橋家より光との婚儀の前年に送られたものですが、 晩年に死期を悟った如水はこの兜を一番信頼の厚い重臣・栗山利安に託し、息子・長政には「この兜を父と思え」と遺言します。 その後、利安の子・栗山利章(としあきら・大善)に引き継がれますが、 利章は長政の子の二代藩主・忠之と不仲となり徳川幕府の命令で盛岡南部藩預けとなります(1632年・黒田騒動)。 その際に利章はこの兜を盛岡に持参し南部藩へ献上し現在に至っています。
ところで「合子(ごうす)」とは蓋付きの器のことで、この兜はその名の通り器を逆さまにした形で見た目に非常にシンプルな形状をしています。 官兵衛(如水)の着用でなければ、とても戦場で敵に武威を張る様にも見えず、味方にも主将本隊の位置を知らせ威光を響かせる様にも見えないのですが、 この辺りの事情は「(最前線で刀槍をふるい敵将を討つよりも、帷幕にあり)采配を振りて、一度に敵を千も二千も討ち取ることは得手者に候。」 という如水の言葉から察せられるような気がします。 また敵兵の槍や木の枝などに引っ掛かかる様なこともなく機動性、実用性に富み、 華美を好むところがなかった如水の性格にピタリと合ったのかもしれません。





【官兵衛と立花宗茂】

官兵衛と立花宗茂の二人には大きな接点が三度あります。 先ずは1586年に「岩屋城の戦い」で父・高橋紹運を討たれた宗茂が立花城に籠城し、九州制覇目前の島津軍を迎え撃った時の事です。 秀吉に九州の島津攻略を命じられた官兵衛は毛利軍の軍監として九州に上陸し、島津軍を追い宗茂の窮地を救います。 次に翌年の「肥後国人一揆」では宗茂は鎮圧軍として奮戦し、官兵衛もこの戦いに援軍として出陣しています。 三度目は「関ヶ原の戦い」で敗れ柳川に戻り籠城した宗茂を官兵衛は攻める側としてあいまみえます。 この時 宗茂は親交の厚い加藤清正の説得により開城降伏しますが、 官兵衛自身も息子・長政と同年代の宗茂の無駄死にを避け、 どうにかして配下に取り込む事はできないかと思案したのではと想像されます。





【官兵衛の気配り】

天才肌の人は気配りをしないといったイメージが個人的には強いのですが、官兵衛は気配りにおいても一流の人だったようです。 部下がなにか失敗をしでかすとしこたま叱りつけはするものの、その場で簡単な用事を言いつけ主従関係が壊れていないことを暗に伝えたといいます。 また「得手、不得手」や「想口、不想口(あいくち・相性の事)」といった言葉を口にし、 部下ひとりびとりの人間性をよく把握して「適材適所」や「部下同士の相性」に細かく気を配ったといわれています。 しかし隠居後は部下たちにひどく冷ややか態度で臨みます。 この態度を不審に思った長政が諌めようとすると「それはお前の為じゃ!乱心などではないわ」と言ったと伝えられています。





【隠居生活】

1589年、官兵衛は如水と名乗り長政に家督を譲り隠居しようとしますが秀吉に許されず、 実際に隠居生活に入るのは12年後の「関ヶ原の戦い」の翌年でした。 隠居した如水は太宰府に庵を結び和歌・連歌を楽しんだと言われます。 如水は14才の頃に母を亡くしたのをきっかけに和歌にのめり込むもの戦国の時代背景がそれを許さず、その世界から遠ざかるしかありませんでした。 隠居後に和歌に没頭したのはこの時の想いが心の底に残っていたからかも知れません。 如水にとって和歌・連歌に通じる人が多い太宰府は格好の隠棲の地だったのでしょう。
また如水は近隣の子供たちを自邸に招き思う存分に遊ばせたと言われますが、城内に子供たちを招くという事は考え難いため、 この話は太宰府の草庵での事ではないかと思われます。
秀吉に付き従い休む間もなく戦場を行き来した頃に比べると、 なんともゆったりとした時間を過ごす如水の姿が想い浮かびます。





【殉死の禁止】

「人を殺すと言ふは容易ならざることなり」
如水は戦場以外では敵でも配下の者でも、その命を奪うことをたいへん嫌ったと言われます。 「配下の者を手打ちにするなどは短慮の至り」と言い切り、部下を手に掛けることは生涯一度もなかった様です。

1604年、死期を悟った如水は京都藩邸の病床に長政を呼び殉死の禁止を徹底するように命じます。 人の命の重さ知り、また無駄な事を好まなかった如水の性格が良く理解できる話です。 ちなみに日本で始めて殉死を禁止したのは記録上では垂仁天皇のようです。 天皇は「古(いにしえ)の風であるといっても、良くないことには従わなくてよい」 と言って、部下に諮(はか)って皇后の葬には殉葬を止めさせ、代わりに埴輪を埋めたと日本書紀で伝えられています。
如水も「忠義であるといっても、無駄な事には付き合わなくてもよい」と思っていたことでしょう。





【光雲神社】

光雲神社(てるもじんじゃ)には藩祖・黒田如水公と初代藩主・黒田長政公が祀られてます。 この地には以前、徳川家康を祀る東照宮がありましたが、維新で幕府が倒れた後は新政府への配慮からか廃れたようです。 そして1909年に天神にあった光雲神社をここに遷座し現在に至っています。 この神社には「黒田節」で有名な「母里太兵衛」の像や長政公の「大水牛脇立兜」の像などの見所があります。 また所在地の西公園は春になると桜が咲き乱れ沢山の花見客が訪れる行楽地となっています。





【正室・光の読みは?】

官兵衛は生涯を通して側室を置かなかったようですが、これは一時信仰したカトリック教の影響を受けたからなのか、それとも正室・光との 心の繋がりが強かったからなのかよく分かっていません。
ところで正室・光は最近まで「てる」と呼ぶのが通説だったようですが、 つい最近 福岡市の圓應寺(開基・光姫)から「光」に「みつ」とルビが振られた過去帳附録の略伝が見つかり、 こちらの読み方が有力視されているようです。 「軍師黒田官兵衛その戦略と生涯」(別冊宝島)にはこのルビに関して 「法要の際に読み間違えがないようにと17世紀ごろの住職が書き置いたもの・・・」と説明されています。





【号・如水の意味】

豊前で抵抗をする武将・城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で謀殺した翌年、官兵衛は家督を長政に譲り如水を名乗ります。 不本意な方法で事を終結させた官兵衛はこの辺りが自分の引き際と考え隠居を望んだのかもしれません。
号「如水」の意味を今さら掘り返すのも野暮な話なのかもしれませんが、その語源となったと思われる言葉を中国古典より取り上げてみました。



1964年、奥平家が中心となり中津市民の寄付などを得、再築城された中津城天守
上善(じょうぜん)は水の如し -老子-
水には柔軟性があり、自己主張がなくそれでいて強い力を秘めている。そんな生き方が最善である。
知者は水を楽しむ -論語-
知者の生き方は流れる水のように澱みがない。
兵の形は水に象(かたど)る -孫子-
水は相手によって形を変える。軍もそれと同じように柔軟な行動が必要である。


如水は事件の三年後、長政に社を建立させ鎮房の霊を祀らせます。それが中津城内にある城井神社の起源となっています。













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■人物伝

黒田如水(1546~1604年)

【関連武将】
小早川隆景(1533~1597年)
豊臣秀吉(1537~1598年)
立花宗茂(1567~1643年)
小早川秀秋(1582~1602年)

【息子・孫】
黒田長政(1568~1623年)
黒田忠之(1602~1654年)
黒田長興(1610~1665年)

【黒田家家臣】
栗山利安(1551~1631年)
母里太兵衛(1556~1615年)
後藤又兵衛(1560~1615年)
栗山大善(1591~1652年)

【「黒田家譜」を書いた学者】
貝原益軒(1630~1714年)




■官兵衛に想う
黒田氏筑前入り  ‥‥‥ 如水 最後の野望について
官兵衛的な人たち  ‥‥‥ 個人的な思い出
棟上げの菓子袋の思い出  ‥‥‥ 如水の支度金の話




■孫子の兵法の事
「孫子」は中国の春秋時代末(今から2500年ほど前)に孫武によって書かれたと言われる兵法書ですが、 日本でも古くから軍事を学ぶテキストとして多くの人が通読していたようです。 当然、黒田官兵衛や竹中半兵衛も若き頃にこの兵法書を繰り返し読んだものと想像されます。 ちょっとこじつけの感もありますが、その中から彼等の言葉や行動に影響を与えたと思われる孫子の言葉を取り上げてみようと思います。

兵とは詭道なり

戦は騙し合いで事前に展開を想定できない。そこで状況に合った柔軟な行動が必要となる。


半兵衛から「毒も良薬となる事もあろう」と評された官兵衛は秀吉の他、小早川隆景、蜂須賀小六など親しい人々からも 才能を認められる反面、大なり小なりの疑いを持たれていたようです。
「人生とは詭道なり」官兵衛は心の片隅でそう考えていたのかもしれません。


算多きは勝ち算少なきは勝たず

戦では計算高い者が勝ち、計算の足らない者は敗れる。


官兵衛も半兵衛も平常時より情勢分析と戦争状態に入った場合のシミュレーションを怠りなく行っていたのではと想像されます。


知将は努めて敵に食む

知将は兵糧を自国だけに頼らず、敵地で調達するものだ。


秀吉は鳥取城攻めに先立ち鳥取城周辺の米を相場の2倍の価格で買占めます。 このため鳥取城では籠城時に兵糧を手配できず、城内には1ヶ月分の兵糧しか用意できませんでした。 そして4ヶ月の籠城の末、鳥取城は開城しますが、 この時に城内に入った秀吉軍の兵士たちは飢えに苦しむ人々の凄惨な状況を直視できなかったといわれます。


百戦百勝は善の善なる者にあら非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり

全戦全勝は最善の方法ではない。戦わずに敵を従わすのが最善のやり方である。


官兵衛は無駄な戦を避けるため、敵対する武将の城へ乗り込むような行動を幾度かとっていますが 有岡城ではこの行動が裏目に出て1年間も幽閉される憂き目に遭っています。 しかしこの出来事に懲りず、その後の北条征伐では小田原城に単身で乗り込み会談、無血開城のきっかけを作っています。 「戦わずして人の兵を屈する」これは官兵衛の一番大切にした言葉だと想像されます。


彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず

敵を知り自分を知れば何度戦おうとも危ないことはない。


孫子には「用間篇」という部分がありますが、これは間者(スパイ)に関する心得を語ったものです。 官兵衛も半兵衛も当然として間者や独自の通信網を利用し、敵情や各国の情勢を収集していたはずです。 また自軍と敵軍との経済力、軍事力の比較シミュレーションは当時の武将たちにとっては必要不可欠なことだったに違いありません。


善く戦う者は勝ち易きに勝つ者なり

戦(いくさ)上手とは勝利への筋道を立てて簡単に勝ってしまう者のことである。


極論を言えば勝算のない戦はしない事。官兵衛も半兵衛もそう考えていたことでしょう。


善く戦う者はこれを勢いに求めて人に責(もと)めず

戦上手の者は勢いを重視し兵士の力に頼らない。


戦いに勢いというものは大切で、勢いに乗った軍勢は止めることができない。
采配ひとつで軍を動かす者として秀吉も半兵衛も官兵衛も「勢い」の恐ろしさを身をもって知っていたのではないでしょうか。 時代は変りますが幕末の幕臣・勝海舟は「気合(勢い)が人にあると見たらすらりとかわし、 自分にあれば油断なくずんずん押して行くのだ」といった事を語っています。


善く戦う者は人を致して人に致されず

戦上手の者は常に自分ペースで進め、人のペースに乗せられる事はない。


官兵衛は播磨時代、中国攻め、中津時代と常に能動的な行動をとっています。 他の武将たちが日和見や主君からの指示を待っている間に、官兵衛は自分の進む道を現実化させるため先手先手で活発な動きをしていたのです。


鼓金、旌旗なる者は、民の耳目を壱にする所以(ゆえん)なり

戦いで太鼓や鉦、旗を利用するのは兵士の心を一つにするためである。


官兵衛が戦に旗を有効利用したことは有名な話です。 英賀合戦では百姓たちに沢山の自軍旗を持たせ毛利の大軍を翻弄抑制します。 また中国大返しで毛利家や宇喜多家から借り受けた家紋入りの旗を山崎合戦で掲げ明智軍の士気をくじいたといわれています。 また味方の軍にも旗を借り受けた事は伏せ「毛利、宇喜多が我等に援軍したり」と吹聴して廻ったのかもしれません。


囲師(いし)には闕(けつ)を遺し、帰師(きし)は遏(とど)むなかれ

囲まれた敵には逃げ道を残し、自国に逃げ帰る敵には立ちはだかってはいけない。


山崎の戦いに敗れた明智軍は勝竜寺城に逃げ込みますが、これに秀吉の軍は北側に逃げ道を開けて包囲します。 明智軍の各部隊はこの逃げ道から北方にある本拠地の坂本城を目指し続々と落ちて行きますが、 秀吉の軍はこの敗走する部隊を背後から攻撃し容易く破りました。 この策は城攻めで自軍に大きな犠牲がでる事を危惧した官兵衛が提案したものといわれています。


主は戦う無かれと曰うも、必ず戦いて可なり

君主や民の利益のためならば君主の命に従わず自分で判断し行動すべき場合がある。


これは「利があれば君主から戦わないよう指示があっても戦ってよく、利がなければ君主より戦うよう指示があっても戦ってはいけない」 といった言葉です。そして「君主の命に従わなかったことに関してはその責任から逃れようとしてはいけない」という言葉が続いています。
1578年、荒木村重の謀反で官兵衛の裏切りを疑った信長は松寿丸(官兵衛の嫡男)を殺害するよう命じます。 しかし竹中半兵衛は信長の命令を実行せず松寿丸を匿います。のちに官兵衛の疑いは晴れ、 信長は松寿丸が生きていることを知り喜んだといわれます。





■その他関連する事
福岡の戦国時代  ‥‥‥ 少弐氏から黒田氏へ 
岩屋城の戦い  ‥‥‥ 立花宗茂の父・高橋紹運の戦い 
日吉神社  ‥‥‥ 秀吉と観世音寺
岩屋城跡  ‥‥‥ 高橋紹運の居城
太閤博多町割り  ‥‥‥ 官兵衛も関わった博多復興事業
博多塀  ‥‥‥ 島井宗室邸の塀
「博多べい」ってどんな塀?‥‥‥ 戦乱で出た瓦礫の処分方法は?
黒田節像  ‥‥‥ JR博多駅の黒田節像の由来
母里太兵衛像  ‥‥‥ 光雲神社の母里太兵衛像
「日本号」ってなに?  ‥‥‥ 戦国史を背負う名槍
明史・秀吉伝  ‥‥‥ 中国から見た豊臣秀吉像
福岡城跡  ‥‥‥ 黒田長政の居城
久留米城跡  ‥‥‥ 小早川秀包の居城
柳川城跡  ‥‥‥ 立花宗茂の居城
太宰府天満宮  ‥‥‥ 如水の隠居の地
秋月城跡  ‥‥‥ 如水の孫・黒田長興の居城
福岡城に天守はあったか?  ‥‥‥ 福岡の歴史に登場しない幻の天守閣
黒田騒動  ‥‥‥ 三大お家騒動











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スポットライト人物伝


【鑑真和尚(がんじんわじょう)】
(688年~763年)


5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。



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