【巌流島の決闘】(1612年)

巌流島・武蔵と小次郎像
関ヶ原の戦いで天下の大勢が決すると西軍だった豊前小倉の主・毛利勝信は改易され、豊前には細川忠興が入ります。そして細川家はその約20年後に加藤清正の子・忠広が改易された肥後に移ります。それに代わり豊前小倉には徳川家譜代大名の小笠原家が九州の監視役を担い送り込まれ、江戸時代を通して豊前を治めることになります。

「巌流島の決闘」は1612年、細川家時代の小倉藩領・舟島での出来事です。この決闘は宮本武蔵と佐々木小次郎の二人の剣豪が戦ったされるのですが、実際の詳しい話は伝わっていないようです。当事者の宮本武蔵自身は何も語らず、養子の宮本伊織が小倉手向山に立てた碑に刻まれている「小倉碑文」の僅か数行がこの決闘の概要を伝えています。

「ここに兵術の達人・岩流と言う者がおり、武蔵に雌雄を決する事を求めた。岩流は真剣勝負を求めたが、武蔵はこれに対し『あなたは白刃を揮(ふる)って妙技を尽くせばよい。私は木刀を以て秘術を顕わそう』と硬い約束を交わした。長門と豊前の間の海中に舟嶋という嶋があり、両雄はここに相会す。岩流は三尺の白刃を手に命を顧みず術を尽くす。武蔵は木刀を以て電光よりも早い一撃でこれを倒した。故に舟嶋は俗に岩流嶋と言われる様になった。」   -小倉碑文抜粋訳文-

武蔵が戦った相手に佐々木小次郎の名は見えず、ただ岩流と記載されるのみです。 その後、武蔵は有力者に請われたのか山陽を中心に各地を訪れているようです。

小倉碑文
伊織は1624年に武蔵の養子となり2年後には明石・小笠原家に出仕し、1632年には冒頭に記載した小笠原家の九州入りに従い豊前小倉に入ります。「巌流島の決闘」から20年後の事になります。詳しいことは判りませんが武蔵もこの頃、豊前に移ったのかもしれません。そして1640年には肥後に移っていた細川家の食客となり、その後 霊巌洞(れいがんどう)に籠り「五輪書」を記述することになります。






【黒田騒動】(1632年)

初代藩主黒田長政は「後継者には三男の長興(ながおき)を・・・」と考えますが、 家臣の栗山大善(だいぜん)等の反対に押され長男の忠之(ただゆき)を後継者とします。 しかし、この長男が福岡藩を継ぐことに不安を払拭できない長政は長興を秋月藩の初代藩主とし分藩させる事にしました。 そして1623年に長政は京都にて病没しますが、それから9年後の1632年、この長政の不安は現実となり黒田家のお家騒動「黒田騒動」が起こります。 二代藩主・黒田忠之と忠之を藩主に押した栗山大善とが不仲となり抜き差しならぬ事態に発展します。 身の危険を感じた大善は藩主・黒田忠之を「謀反の意思あり」と幕府に訴えます。 これにより黒田藩は取り潰しの憂き目にあいますが、 関ヶ原以来の幕府と黒田家の関係を配慮した幕閣により、栗山大善は南部藩預かり、 忠之の側近・倉八十太夫は高野山への追放で事は収められ、黒田藩の取り潰しは回避されました。
しかしこの幕府と黒田藩との密接な関係は後の明治維新の混乱期には逆に藩の足かせとなっていく事になります。



(2013.3.24)

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【山田堰の建造】(江戸時代中期)

左側が「堀川用水」へ流れる水路、中央が「山田堰」、右手が筑後川本流
朝倉市山田にある山田堰は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。
山田という土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊富な水を利用する事が難しかったのかもしれません。この水不足を打開するために建造されたのが「山田堰」で、用水を田地に送った水路を「堀川用水」と呼びます。

山田堰は川をせき止め水の流れを変えるのではなく、川の底に巨石で石畳を敷き川底を僅かに盛り上げて一部の水を堀川用水へ導く方法が採られています。このため水かさが少ない時は堰は姿を現し、降雨で水量が増すと水没してしまいます。
「三連水車の里あさくら」にある実物大のレプリカ三連水車
これは昔から氾濫を繰り返す筑後川に幾度となく堰を押し流された当時の地元民たちが考案した「自然の力に逆らわない究極の堰」の形なのかもしれません。
「堀川用水」は現在も農業用水として利用され、この「山田堰」より1500mほど下ったところに朝倉市の観光名所「朝倉三連水車」が置かれています。


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【貝原益軒「筑前国続風土記」】(1703年)

福岡市博物館の「筑前続風土記」
1630年貝原益軒は福岡藩の藩医の子として生まれ、京都、長崎、江戸で見聞を広めます。 益軒は自分の目で見て考え納得したことを文章にする実証主義の人だったようで、 「筑前国続風土記」を著すにあたって筑前各地へ自ら足を運び、史跡を確認し、地元民の言い伝えを聞き集めています。
益軒はこの他に「大和本草」「養生訓」「黒田記略」「女大学」「益軒十訓」などの著作に励みますが、 この中の「女大学」は夫人の東軒によって書かれたもではないかといわれています。
また「養生訓」「筑前国続風土記」「大和本草」などの著作が学校法人中村学園のホームページで参照することができます。



(2011.7.23)

「筑前国続風土記」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」のページへリンク





【金印発見】(1784年)

金印イメージ
福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。
1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます。 金印は甘棠館(かんとうかん、福岡藩藩校)の館長、亀井南冥の元に届けられ、 後漢の光武帝より送られた「漢委奴国王」印と判明しました。判定の元となった文献は432年、 中国の南北朝時代の范曄という政治家によって書かれた「後漢書(ごかんじょ)」という書物で次の通り書かれています。

「建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」

光武とは後漢の初代皇帝、光武帝のことで、「項羽と劉邦」で有名な前漢の創始者、劉邦の子孫にあたります。 前漢と後漢は同一の劉家が統治したので同時代と考えてもよいと思うのですが、王莽という臣下に15年ほど簒奪され 「新」という国を建てられたため、前漢、後漢に歴史上分けられています。
この光武帝は人徳も厚く、無駄な血を流さずに混乱した中国を統一したということで、歴史を知る後世の人々からも好感を 持たれています。この皇帝の金印が出土したのですから、これは世紀の大発見となりました。
しかし、この大発見に疑問を投げかける人々も出てきました。 この「金印偽物説」についての詳細はここでは省きますが、詳しい事を知りたい方はネットでググッてみて下さい。



(2011.4.29)





【寛政異学の禁】(1790年)

西学問所(甘棠館)跡の碑
各地で藩校が開設された田沼意次の開放政策時代を経て松平定信は1787年より「寛政の改革」を行います。 質素倹約、文武奨励を柱とする政策は学派統一の方針にも向かい、儒学の講義を朱子学に絞り陽明学や古学などの儒学を禁じます。これを「寛政異学の禁」(1790年)と言います。これは元々幕府内だけの方針でしたが、各藩もこれに倣い朱子学に重き置くようになります。
この頃、福岡藩では貝原益軒系統の朱子学を学んだ竹田定良が館長を務める修猷館と前身を私塾とし徂徠学派・亀井南冥が館長に就く甘棠館の二つの藩校があり、学閥間でしのぎを削る状況でした。しかし、この「寛政異学の禁」で甘棠館館長の南冥はその座を追われ(1792年)、主導権は修猷館が握ることとなり、その6年後には火災で校舎を失った甘棠館は廃校となり生徒は修猷館へ編入されます。館長だった亀井昭陽(南冥の長男)は解任され一般藩士として狼煙台の警備の仕事に就いたと言われます。しかし、その後に昭陽は私塾「亀井塾」を開き多くの人材を育てます。幕末維新期には亀井学派から国事に奔走した気骨のある人物が輩出し、甘棠館時代からの広瀬淡窓は日田に戻り私塾「咸宜園(かんぎえん)」を興し後の著名な学者や技術者を育ています。

ところで儒学の正統派とされる朱子学の修猷館に対し、亀井南冥の徂徠学派(古学)とは、「儒学を学ぶためには体系化された参考書は不要で四書五経などの原典を直接読めばよいではないか」といった考え方が基本となっています。古学というと文字からして非常に頑固で取っ付き難そうなイメージを受けるのですが、実は「原点を知り、自分なりの発想をしよう」という考え方の様です。

東学問所(修猷館)跡の碑
この時代の学閥問題も今となってはもう200有余年昔の事となるのですが、官僚を育てる修猷館。起業家を育てる甘棠館。当時の二つの藩校の校風はこんな違いだったのかもしれません。 余談になりますが、現在の福岡市博物館には「修猷館」と「甘棠館」の扁額の写真が並べて展示してあります。そして修猷館は福岡の名門県立高校として今もその名を残しています。


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