【新羅海賊の入寇】(869年)

平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。
676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。 このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。 博多では869年に2隻の海賊船が来寇し、豊前の船を襲い年貢を略奪して逃げ去ります。 この事件により警固所(現在の警固。福岡城の東側付近)が設置されたといわれています。 この他に新羅海賊は対馬、壱岐、松浦、平戸や有明海に入って熊本まで姿を現しています。

その後、新羅には892年に後百済、901年に後高句麗が起こり、後三国時代となりますが、後高句麗の武将、王建が起こした高麗が935年に朝鮮統一を果たすことになります。



(2011.6.18)

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【菅原道真大宰府流配】(901年)

太宰府市朱雀の「榎社」
大宰府に流配された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600m程は離れた謫居(たっきょ)に入ります。 子供はまだ幼い隈麿と紅姫でした。謫居での生活は想像が及ばないほどの過酷なもので、 道真公は幼い二人を連れてきたことを後悔したものと想像されます。 流配の翌年には隈麿が亡くなり、京都からは妻の死の知らせが入ります。そして道真公自身も病を得、903年に病没します。 紅姫の消息は不明なようですが「紅姫の供養塔」と言われる板碑が残っているそうです。
西鉄大牟田線を通勤通学に使用している方は「都府楼駅」と「二日市駅」のほぼ中間地点の東側に鳥居のあるこんもりとした森を見ることができると思いますが、 その森が短い間三人が暮らした謫居跡「榎社(えのきしゃ)」になります。



(2011.6.12)

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【藤原純友の乱】(941年)

四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍が到着し反乱軍を撃破します。 純友は伊予国に逃げますが、6月には捕縛され獄中で没しました。


(2011.6.18)

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【「刀伊」(女真族)の入寇】(1019年)

1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。 そして糸島東部から早良郡、能古島を荒らし、次に箱崎を攻撃します。
大宰権帥(だざいごんのそつ-大宰府長官-)の藤原隆家は警固所に集まった兵を率い、箱崎に上陸した刀伊の軍を撃退したため、 博多の町への被害はなかったようですが、この半月ほどの間の被害は死者463名、 連れ去られた者1,280人(内、270人ほどは高麗軍に保護され、日本に送り返されます)といわれています。

この女真族とは満州地方の民族で、この頃は中国の大国「宋」を圧迫する「遼」の属国でした。 しかし「遼」の搾取に不満を持った女真族は1115年に「金」を起こし、1120年「宋」と同盟、その5年後には「遼」を滅ぼします。 次に1127年、約束を反故にした「宋」を攻撃、その北半分を手中にし「宋」を上回る巨大国にのし上ります。
しかし1211年北方に興った騎馬民族のモンゴル軍に攻め込まれ、1234年には首都を占領され滅亡します。
その後中国は「元」から「明」と移りますが、満州に残った女真族は1616年「後金」を建て「明」へ侵攻します。 「後金」は国号を「清」と改め、1644年「明」を倒した西涼の反乱軍を破って中国を制覇しました。
この「清」はそれから300年近く続きますが、西洋諸国や日本の割譲要求や内乱によって1912年に倒れ中国最後の王朝となります。 この頃の「清」の実質的な統治者がかの有名な西太后で皇帝がラストエンペラーと呼ばれる溥儀でした。



(2011.6.19)

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【平清盛「袖の湊」を築く】(1158年~1170年代)

正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力を握った清盛は、 巨額な利益を生み出す「日宋貿易」に目をつけ独占化を狙います。
おそらくこの1158年から弟の平頼盛が筑紫に派遣された1166年の辺りに「袖の湊」は築造されたもと想像されます。
ちなみに「博多どんたく」の前身「博多松囃子(はかたまつばやし)」は清盛の長男、平重盛の恩恵に感謝のため始められたものと「筑前国続風土記」に書かれている そうです。「袖の湊」との関わりは不明ですが、これが事実とすれば平家の人々が博多の町に深く関わっていたという事になります。

現在その「袖の湊」がどの辺りにあったか不明ですが、住吉神社の「博多古図」や「筑前国続風土記 巻之四 博多 袖湊」の内容、 菅原道真の筑紫上陸の地が網場町といった言い伝えより、 おそらく那珂川と御笠川の間にある網場町、古門戸町、奈良屋町、中呉服町(博多区)辺りにあったものと想像されます。



(2011.6.26)


「筑前国続風土記」に記載される「袖の湊」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」(pdf)のページへリンク

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【鎮西反乱-治承・寿永の乱-】(1180年~1185年)

源氏軍が上陸した芦屋町の芦屋海岸
1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。
以仁王自身は平家の追手に追い詰められ討たれますが令旨は各地に届けられ、12月には肥後の菊池隆直が反旗を翻し、平家の武将・原田種直と筑紫で戦い大宰府は兵火に焼かれます。
これに対し平家は鎮圧のため翌年8月に平貞能(たいらさだよし)を派遣します。貞能の父・家貞は平清盛の腹心として平家の九州統治に軍事面で活躍した人物で、そのような事情から平貞能は父親の影響力のある九州の平定に任命されたものと思われます。貞能は1182年4月に菊池隆直を降伏させ京に戻りますが、その時にはもう京に源義仲の軍勢が迫り、平家一門は大混乱に陥った状況でした。そのため貞能は平家一門と共に大宰府に落ち再起を図りますが、そこに以前まで平家と主従関係であった豊後の緒方惟義が「九州より退去せよ」と勧告の使者を送りつけてきます。平家一門は大宰府をも追われ四国屋島に向かうのですが、貞能は一門とは別れ九州に留まったといわれています。

その後、平家は一時勢力を盛り返すものの1184年2月には「一ノ谷の戦い」で大敗を喫し、1年後の1185年2月1日には緒方惟義より軍船の提供を受けた源氏の軍が九州上陸を開始します。これを平家方の原田種直が葦屋浦で食い止めようと必死で抵抗しますが敗れ(葦屋浦の戦い)、平家は九州の地を完全に失います。同月の19日には讃岐で「屋島の戦い」に敗れ、平家一門は海上に逃れ最後の拠点の長門・彦島に向かいます。四面楚歌となった平家は5日後の24日に壇ノ浦で最後の決戦を挑みますが遂に敗れ、平家の人々は海にのまれ、かろうじて生き残った兵士たちも各地へ四散します。ここに二十数年の栄華を誇った平家も滅び去ります。

鎮西反乱に関わった武将たちのその後は様々です。
平貞能は源氏に降り宇都宮氏の元で余生を送ったとされ、その貞能に降伏した肥後の菊池隆直は「壇ノ浦の戦い」まで平家方の武将として戦い、戦後に鎌倉方に斬られます。そして主従関係を絶って平家を追い落とした緒方惟義は源平合戦を勝ち抜くものの、頼朝と不仲となった義経の九州落ちに従い「大物浦の難破」に巻き込まれます。以後は豊後に戻り隠棲したとも病死したとも言われています。始終、平家のために戦った原田種直は捕らえられ鎌倉に送られるものの数年後に許され怡土の領地を再び与えられます。

そして「壇ノ浦の戦い」で生きながらえた平家の人々は九州の山深くに分け入り、「落人伝説」を残すことになるのです。

        -参考「源平合戦辞典」(福田豊彦氏、関幸彦氏/吉川博文館)-


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【筑後竹野の戦い】(1183年)

原田種直の屋敷があった安徳台
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。
そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動きを示し、平家に九州より出ていくよう勧告の使者を送ります。これに対し平家は源季忠と平盛澄を将に立て、兵3000を向わせます。平家と緒方の両軍は筑後の竹野(久留米の10㎞ほど東方)で戦端を開きますが、緒方の軍は3万の兵で雲霞の如く押し寄せたため、平家の軍はこれを支えきれず大宰府へ敗走します。
平家物語ではこの戦ののち「やんごとなき女房達、袴の裾を取り・・・水城の戸を出でて、かちはだしにて我先に先にと箱崎の津へこそ落ち給え。折節降る雨、車軸のごとし。吹く風、砂をあぐとかや。落つる涙、降る雨、分きていづれも見えざりけり。」という有名なくだりに入っていきます。


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【芦屋から壇ノ浦へ】(1183年~1185年)


芦屋町山鹿の城山。手前は遠賀川河口
豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらになります。
平家一門は原田種直に護衛され芦屋に入りますが、種直は山鹿の豪族・山鹿秀遠と不和であったため芦屋海岸(広大な砂浜の地帯)辺りで引き返します。平家の人々は芦屋の砂浜を眺め「都(京都)と福原(神戸)を通うときによく通った里の名前(芦屋)と同じですね」と懐かしむと共に数年前までのよき時代を想い、重い空気が流れたことを平家物語は描写しています。

この芦屋海岸を過ぎると遠賀川河口に突き当たり、この河口を渡ると山鹿の地に入ります。現在、遠賀川には「芦屋橋」という橋が架かっていて、この橋の東に城山と呼ばれる小高い山があるのですが、この山が山鹿氏の居城であったと言われており「山鹿秀遠之城址」の碑も建てられています。 安徳天皇と平家一門はこの城山から東へ500mほど離れた陵丘の別邸に入ったと言われ、現在その地は「大君」と呼ばれ近年「安徳天皇行在所跡」という碑が建てられています。


「安徳天皇行在所跡」の碑
その後、平家一門は柳が浦(現在の北九州市門司区大里)に移るものの九州に安住の地がない事を悟り、四国・屋島へ、次に長門・彦島へと逃れます。
一方、原田種直は奇しくも平家一門と別れた芦屋海岸に上陸して来た源範頼と戦うものの敗れ去り(芦屋浦の戦い)、虜囚の身となり戦後に鎌倉に送られます。山鹿秀遠は最後まで平家一門に付き従い、壇ノ浦では主力の大将として戦いますが時の勢いは変えられず敗北、壇ノ浦で平家一門と運命を共にしたのか、以後、歴史に登場することはない様です。 原田、山鹿の両将は敗北の将とは言え、四面楚歌となった平家のために最後まで戦った義将と呼ぶに相応しい人物に違いありません。




















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