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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.4.19

「原鶴温泉の歴史」を追加しました

2021.4.18

「最後の仇討」を追加しました

2021.4.15

「井上伝の胸像」を追加しました

2021.4.11

「糸島の平家伝説」を追加しました

2021.4.4

「蜷城の由来」を追加しました

2021.3.30

羽白熊鷲の碑を追加しました

2021.3.29

臼井六郎の叔父・八坂甚八を追加

2021.3.28

吉塚の由来を追加しました

2021.3.11

【記想録】長生きの薬なし

2021.2.27

野上一閑と三奈木弥平次の写真を変更

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
かざりなく質朴にして、けがれなく、いさぎよかるべし。
養生訓

わかっていない事
 【「隋書」の秦王国はどこ?】-筑紫の東にあった中華風な国とは?-

隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。

百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て、そこから東(南東)に進み壱岐国に至り、次に筑紫国に至る。そこから東に向かうと秦王国に至る。ここに住む人々は華夏(中華)の風習を持ち、もしかしたらここが夷洲(いしゅう)なのかもしれないが、断定は出来ない。 また十余国を経て海岸に達す。

筑紫国から「秦王国」への道筋が、もし陸路ならば「海岸に達す。」という言葉より「秦王国」とその他の十余国は九州北部沿岸にあった小豪族の支配する各々の領地の事で、海岸というのは関門海峡に接する門司辺りのことだと思われます。この仮説を元にすると「秦王国」は恐らく那の津から東方のそう遠くない場所にあった地域だと想像できます。平安時代には博多湾内東方部の港町・箱崎に多くの宋商人が住んだ大唐街があり繁栄したといわれていますが、 宋の時代より500年程以前の隋の時代には、日本書紀にも登場する宗像氏が海外と頻繁に貿易を行ったと想像され、もしかしたらこの宗像氏の住んだ地域に近い津屋崎周辺に中国商人もしくは朝鮮商人の居住区があったのかもしれません。
ただ裴世清は返礼の贈物を運んで来ているので、畿内までの交通は最後まで海路だった可能性が高く、こうなると「海岸に達す。」の海岸は大阪辺りの港町の事で、「秦王国」は現在の山口県辺りにあった国になるのかもしれません。

上記の説では「秦王国」を中国または朝鮮商人の居住区としましたが、遣隋使が開始されたのが西暦600年の事で、その約20年前には中国南北朝の戦乱が終わり隋が興った時期であり、朝鮮では40年前に新羅が伽耶を併合しており、その時代背景よりこれらの戦乱で土地を追われた人々が日本に流れ着き住み着いたのがこの「秦王国」ではないかといった事も考えられます。

ところで両国の使者、小野妹子と裴世清の関係がどのようなものであったか「隋書」にも「日本書紀」にも記載されていないため推測するしかないですが、お互いに両国に差し障りのないように心を砕いた様子が二つの書物よりにじみ出ています。妹子も世清も国を代表する外交官という立場なので、互いに愚痴を言い合うような事はなかったでしょうが、「お互い、使者の役目はたいへんなことですなあ」と心は通っていたのかもしれません。 裴世清は1ヶ月ほど都に留められますが、「使者としての仕事はもう済んだので、早く返してもらえまいか」と早々に帰国したい旨を伝えています。そして妹子は裴世清の帰国に随行し再び隋に渡りますが、その後、両国の交流は絶えてしまったと「隋書・倭国」の項は締められています。




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  • 『魏志倭人伝』序 略文      
  • 倭人、帯方郡の南東の大海にあり
  • 山島に依り国邑をなす
  • 昔、百余国あり
  • 漢の時代に朝見する者あり
  • 今、使訳の通ずるところ三十国あり
  • 帯方郡より倭に至るには
  • 海岸に従い水行し韓国を経て
  • 乍南乍東しその北岸、狗邪韓国に到る
  • 七千余里
  • 初めて一海を渡り千余里
  • 対馬国に至る
  • 居絶にして四百余里四方
  • 土地山険しく深林多し
  • 道はけもの道の如し
  • 良田なく海物を食いて自活す
  • 船に乗りて南北に交易する
  • また一海を渡る事千余里
  • その海を翰海という
  • 一大国に至る
  • 三百余里四方、竹木そう林多く
  • 千ばかりの家あり
  • 多少の田地あり、田を耕すも食足らず
  • 南北に交易する
  • また南に一海を渡りて千余里
  • 末盧国に至る、四千余戸あり
  • 山海の浜に居す
  • 草木茂盛し、前を行く人見えず
  • 魚鰒を捕るを好み
  • 水深浅なく、皆沈没してこれを取る
  • 東南陸行五百里、伊都国に到る
  • 千余戸あり、代々続く王ありしが
  • 皆、女王国に統属する
  • 帯方郡使が往来し常駐する所なり
  • 東南、奴国に至ること百里
  • 二万戸あり
  • 東行、不彌国に至ること百里
  • 千戸あり
  • 南、投馬国に至る
  • 水行十日、陸行二十なり
  • 五万余戸ばかりなり
  • 南、邪馬壱国に至る
  • 女王の都す所なり
  • 水行十日、陸行一月なり
  • 七万余戸ばかりなり
  •         『三国志 巻三十 魏書三十 東夷伝 倭人』より

スポットライト人物伝


【少弐景資(しょうにかげすけ)】
(1246年~1285年)


少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。



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