Fukuoka's history information 
目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2021.5.5

人物伝・毛利勝永を追加しました

2021.5.1

旧跡臼井六郎の生誕地を追加しました

2021.4.30

「不落の柳川城炎上す」を追加しました

2021.4.29

「二卿事件」を追加しました

2021.4.27

「唐原・落人の里」を追加しました

2021.4.26

「今津元寇防塁」を追加しました

2021.4.25

「宮崎安貞書斎」を追加しました

2021.4.19

「原鶴温泉の歴史」を追加しました

2021.4.18

「最後の仇討」を追加しました

2021.4.15

「井上伝の胸像」を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
囲師(いし・囲まれた敵)には闕(けつ)を遺し、帰師(きし・逃げ帰る敵)は遏(とど)むなかれ
孫子

意外な人物伝
 【上杉鷹山の祖は筑前人?】(941年)-大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す-

秋月城の碑
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
(「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」)

と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山の祖は筑前に勢力を張った時期がありました。
話は800年ほど遡り平安時代の「藤原純友の乱」の時になります。 瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った純友は、朝廷より派遣された討伐軍に伊予の本拠地を攻略されると海路筑紫へ逃れ大宰府を奪います。 これに対し朝廷は討伐軍を差し向けますが、この時に討伐に向かったのが大蔵春実(おおくらはるざね)です。 乱はほどなく鎮圧され春実は博多湾で藤原純友の軍船を奪い取り武功を上げ、そのまま大宰大監(だざいだいかん)に就任します。
そして春実の子孫は大宰府の南の原田に居を構え原田氏を名乗り大宰府の官職を歴任しました。しかし、源平合戦の頃に平家方に味方し、鎌倉幕府が成立すると領地を没収されます。 後に許され原田氏は怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を得、秋月に移った分家の原田氏は秋月氏を名乗り戦国時代まで領地を守ります。 戦国時代の「休松の戦い」では寡兵で大友宗麟配下の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら。のちの立花道雪)が率いる大軍に一泡吹かせますが、戦国末期には豊臣秀吉と対立して九州制覇を目指す島津軍側に従ったため、秀吉の九州平定後に日向串間(後に高鍋へ移る)に転封されました。
それから200年後、この高鍋秋月藩の第6代藩主秋月種美(あきづきたねみ)の次男として生まれた松三郎が養子として米沢藩に入り第9代藩主上杉治憲(鷹山)となるのです。

余談ですがこの秋月氏、南北朝の時代には「多々良浜の戦い」で足利尊氏に敗れ、「筑後川の戦い」では少弐頼尚に従い不利な状況で戦いは終わります。 これだけ源平時代、南北朝時代、戦国時代と敗れた側につきながら、明治維新まで生き残った氏族は珍しいのかもしれません。しかし、この逆境に対する強さが鷹山にも遺伝し大改革の源となったのかもしれません。

ところで、改革者としての鷹山の実績は広く高く評価され現在、様々な書籍が出版されています。またケネディ米大統領がもっとも尊敬できる日本人に鷹山を挙げたという逸話があり。 その逸話の真偽の論争が下火にならないのも、鷹山に興味を持つ人があまりにも多いからではないでしょうか?


冒頭の「なせば成る」は武田信玄の「なせば成る なさねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」の言葉を引用修正したものらしいのですが、逆に海軍大将山本五十六の残した「やってみせ 言って聞かせて やらせみて ほめてやらねば 人は動かじ」の言葉は 鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」に言葉を加えたものといわれています。
現在の停滞した日本社会。もう一度、先人たちの考えや行動を見直してみる時期に来ているのかもしれません。




記事検索 


  •                                     
  • 『魏志倭人伝』序 略文      
  • 倭人、帯方郡の南東の大海にあり
  • 山島に依り国邑をなす
  • 昔、百余国あり
  • 漢の時代に朝見する者あり
  • 今、使訳の通ずるところ三十国あり
  • 帯方郡より倭に至るには
  • 海岸に従い水行し韓国を経て
  • 乍南乍東しその北岸、狗邪韓国に到る
  • 七千余里
  • 初めて一海を渡り千余里
  • 対馬国に至る
  • 居絶にして四百余里四方
  • 土地山険しく深林多し
  • 道はけもの道の如し
  • 良田なく海物を食いて自活す
  • 船に乗りて南北に交易する
  • また一海を渡る事千余里
  • その海を翰海という
  • 一大国に至る
  • 三百余里四方、竹木そう林多く
  • 千ばかりの家あり
  • 多少の田地あり、田を耕すも食足らず
  • 南北に交易する
  • また南に一海を渡りて千余里
  • 末盧国に至る、四千余戸あり
  • 山海の浜に居す
  • 草木茂盛し、前を行く人見えず
  • 魚鰒を捕るを好み
  • 水深浅なく、皆沈没してこれを取る
  • 東南陸行五百里、伊都国に到る
  • 千余戸あり、代々続く王ありしが
  • 皆、女王国に統属する
  • 帯方郡使が往来し常駐する所なり
  • 東南、奴国に至ること百里
  • 二万戸あり
  • 東行、不彌国に至ること百里
  • 千戸あり
  • 南、投馬国に至る
  • 水行十日、陸行二十なり
  • 五万余戸ばかりなり
  • 南、邪馬壱国に至る
  • 女王の都す所なり
  • 水行十日、陸行一月なり
  • 七万余戸ばかりなり
  •         『三国志 巻三十 魏書三十 東夷伝 倭人』より

スポットライト人物伝


【菊池武時(きくちたけとき)】
(1292年~1333年)


鎮西探題・北条英時の呼びかけで博多に参陣した肥後の菊池武時はこれを好機と捉え鎮西探題打倒の旗を揚げ北条英時の探題へ討ち入ります。 しかし探題打倒の密約を交わしていた少弐、大友両氏は探題側につき菊池武時は討たれます。 武時は前夜に少弐貞経、大友貞宗に決起要請の使者を送っていたので、当然、鎮西探題側は武時の動きを察知していたことになります。 武時もこの事は承知の上で決死の討入りだったようで、鎮西探題へ.....[全文を表示]



福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com
© 2011 福岡史伝