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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
| | 勝つことばかりを知り、負くることを知らざれば害その身に至る | 徳川家康 | |
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福岡史伝・南北朝・室町 【応仁の乱-筑前-】(1467~1478年)
少弐氏と九州探題に命じられた渋川氏との反目に乗じて筑前に勢力を伸ばしていた大内氏は、1467年に「応仁の乱」が起こると兵を京都に向けます。
対馬に逃れていた少弐政資(この時点では頼忠)は対馬代官の宗氏の支援を受け筑前に上陸し、手薄となった大内勢を筑前より追うことに成功します。
しかし、十年後の1477年に「応仁の乱」が収束すると大内政弘は京都より周防に戻り筑前攻略を開始、翌年の9月に大宰府で少弐政資を破り、
政資を肥前に追います。
その後も政資は筑前の奪還を図りますが、大内氏の勢いが強く果たせず、1497年に大内政弘の子、義興との「筑紫の戦い」で大敗を喫し、
肥前小城に落ちそこで自害する事になります。以後、少弐氏は肥前で大内氏の攻撃に防戦一方となり、
配下の龍造寺氏にも離反されます。そして1559年、政資の孫・冬尚が龍造寺隆信に討たれ少弐氏は滅びますが、
これに取って代った龍造寺氏は肥前の戦国大名として急成長して行く事になります。
(2014.11.24)
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- 『魏志倭人伝』序 略文
- 倭人、帯方郡の南東の大海にあり
- 山島に依り国邑をなす
- 昔、百余国あり
- 漢の時代に朝見する者あり
- 今、使訳の通ずるところ三十国あり
- 帯方郡より倭に至るには
- 海岸に従い水行し韓国を経て
- 乍南乍東しその北岸、狗邪韓国に到る
- 七千余里
- 初めて一海を渡り千余里
- 対馬国に至る
- 居絶にして四百余里四方
- 土地山険しく深林多し
- 道はけもの道の如し
- 良田なく海物を食いて自活す
- 船に乗りて南北に交易する
- また一海を渡る事千余里
- その海を翰海という
- 一大国に至る
- 三百余里四方、竹木そう林多く
- 千ばかりの家あり
- 多少の田地あり、田を耕すも食足らず
- 南北に交易する
- また南に一海を渡りて千余里
- 末盧国に至る、四千余戸あり
- 山海の浜に居す
- 草木茂盛し、前を行く人見えず
- 魚鰒を捕るを好み
- 水深浅なく、皆沈没してこれを取る
- 東南陸行五百里、伊都国に到る
- 千余戸あり、代々続く王ありしが
- 皆、女王国に統属する
- 帯方郡使が往来し常駐する所なり
- 東南、奴国に至ること百里
- 二万戸あり
- 東行、不彌国に至ること百里
- 千戸あり
- 南、投馬国に至る
- 水行十日、陸行二十なり
- 五万余戸ばかりなり
- 南、邪馬壱国に至る
- 女王の都す所なり
- 水行十日、陸行一月なり
- 七万余戸ばかりなり
- 『三国志 巻三十 魏書三十 東夷伝 倭人』より
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スポットライト人物伝 |
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【栗山利安(くりやまとしやす)】 (1551年~1631年)
黒田官兵衛が若い時より付き従った人物で黒田家家臣団の中心武将です。 有岡城に官兵衛が幽閉されると出入りの商人に紛れ潜入し囚われの主君に面会を果たし、 有岡城落城の際は一番に土牢に駆けつけ官兵衛を救い出します。 また関ヶ原の戦いが起こると人質にされそうになった官兵衛、長政の両夫人を母里太兵衛と共に大坂の黒田邸より救い出し中津城まで送り届けています。
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