716年 |
2月10日 | 玄昉と下道真備が阿倍仲麻呂と共に唐に渡る。
玄宗皇帝は玄昉を尊んで紫の袈裟を着用させる。 |
729年 |
2月10日 | 長屋王の変が起こる。(藤原氏との政争が原因とされる) |
3月4日 | 葛城王(橘諸兄)が正四位下に任じられる。 |
735年 |
2月7日 | 唐の留学から帰国した玄昉は多くの経典や仏像を持ち帰る。同じく下道真備は天文書や天文測定器や楽器や兵器などを持ち帰る。 |
736年 |
2月7日 | 玄昉に百戸と童子8人を与えられる。 |
737年 |
4月17日 | 藤原不比人の次男・房前(ふささき、正三位)が死去する。 |
7月13日 | 不比人の四男・麻呂(まろ、従三位)が死去する。 |
7月25日 | 不比人の長男・武智麻呂(むちまろ・正一位)が死去する。 |
8月5日 | 不比人の三男・宇合(うまかい・正三位)が死去する。 |
8月26日 | 玄昉が僧正に任じられる。 |
8月28日 | 藤原宇合の長男・広嗣が従五位下に叙せられる。 |
12月27日 | 玄昉が聖武天皇の母の藤原宮子に謁見し病を癒す。
下道(吉備)真備が従五位上に叙せられる。 |
738年 |
1月13日 | 橘諸兄が正三位に叙せられ、右大臣に任じられる。 |
7月10日 | 大伴子虫(おおともこむし)が中臣東人(なかとみのあずまびと)と囲碁の最中に東人が長屋王を陥れた事を知り、その場で東人を斬り殺す。 |
12月4日 | 藤原広嗣が大宰少弐に任じられる。(左遷とされる) |
740年 |
1月13日 | 藤原仲麻呂が正五位下に叙せられる。 |
5月10日 | 橘奈良麻呂が従五位下に叙せられる。 |
8月29日 | 大宰少弐の藤原広嗣が僧正・玄昉と下道真備を弾劾し追放を求める。 |
9月3日 | 藤原広嗣が大宰府で兵を挙げたため、聖武天皇は討伐を命じる。(藤原広嗣の乱) |
9月4日 | 橘諸兄が討伐軍を出発させる。 |
10月9日 | 板櫃川の戦い。朝廷の勅使に大義がないことを指摘され藤原広嗣は兵を引く。 |
11月3日 | 藤原広嗣が捕縛され、二日後に斬刑に処される。 |
11月21日 | 橘諸兄が正二位に叙され、藤原仲麻呂が正五位下に叙される。 |
743年 |
5月5日 | 橘諸兄が従一位に、藤原仲麻呂が従四位上に、下道真備が従四位下に、橘奈良麻呂が五位上に叙せられる。 |
12月26日 | 筑紫に鎮西府が置かれる。 |
745年 |
1月7日 | 藤原仲麻呂が正四位上に叙せられる。 |
1月21日 | 行基法師が大僧正に任じられる。 |
6月5日 | 大宰府が復活する。 |
11月2日 | 玄昉法師が筑紫の観世音寺の造営を名目とし、左遷される。 |
11月17日 | 玄昉の財物が没収される。 |
746年 |
4月22日 | 藤原仲麻呂が従三位に叙せられる。 |
6月18日 | 玄昉が観世音寺にて死去。天皇に寵愛され、僧侶に反する行動が多かったために人々より憎まれたといわれ、世間では藤原広嗣の祟りと噂される。 |
10月19日 | 下道真備が吉備姓を賜る。 |
747年 |
1月20日 | 橘奈良麻呂が正五位下に叙せられる。 |
748年 |
3月22日 | 藤原仲麻呂が正三位に叙せられる。 |
749年 |
2月2日 | 大僧正・行基和尚が死去。 |
4月1日 | 橘奈良麻呂が従四位上に叙せられる。 |
4月14日 | 橘諸兄が正一位に叙せられる。 |
7月2日 | 孝謙天皇が即位する。 吉備真備が従四位上に叙せられる。 |
750年 |
1月10日 | 吉備真備が筑前守に左遷される。 |
1月16日 | 藤原仲麻呂が従二位に叙せられる。 |
751年 |
11月7日 | 吉備真備が遣唐使の副使に任命される。 |
754年 |
1月16日 | 橘奈良麻呂が正四位下に叙せられる。
大伴古麻呂が唐僧・鑑真を伴って帰国。吉備真備の船が紀伊国に漂着(日付は不明)。 |
4月7日 | 帰国した大伴古麻呂と吉備真備が正四位下に叙せられる。 |
755年 |
11月 | 橘諸兄の家人が、諸兄に太上天皇(聖武天皇)に対する無礼な発言があった事を訴え出る。 |
756年 |
2月2日 | 左大臣で正一位の橘諸兄が辞職。 |
5月2日 | 太上天皇(聖武天皇)が崩御。 |
6月22日 | 大宰大弐の吉備真備が怡土城の築城開始。 |
757年 |
1月6日 | 橘諸兄が死去。 |
6月28日 | 橘奈良麻呂の(藤原仲麻呂を退けるための)謀議が発覚する。 |
7月4日 | 橘奈良麻呂、大伴古麻呂らが捕縛、拷問を受け自白。首謀者は拷問で死亡する。(橘奈良麻呂の乱) |
758年 |
7月4日 | 藤原仲麻呂に恵美押勝の名が与えられる。 |
8月1日 | 淳仁天皇が即位する。 |
12月10日 | 吉備真備に外冦に備えるよう命が出される。(唐では案禄山の乱が起こっていたため) |
760年 |
7月4日 | 藤原仲麻呂が従一位に叙せられる。 |
11月10日 | 官吏6名を大宰府に遣わし、吉備真備より諸葛亮の「八陳」・孫子の「九地」などを学ばせる。 |
762年 |
5月23日 | 称徳天皇と淳仁天皇の仲に亀裂。 |
763年 |
5月6日 | 大和上(だいわじょう)の鑑真が死去。 |
9月8日 | 称徳天皇が興福寺・少僧都(しょうそうず)の慈訓法師の任を解き、道鏡法師を少僧都に就ける。 |
764年 |
1月21日 | 吉備真備が造東大寺長官に任命される。真備はこの頃に大宰府より中央に戻ったと思われる。 |
9月11日 | 藤原仲麻呂が道鏡法師を除くために乱を起こす。 称徳天皇が吉備真備に従三位を授ける。藤原仲麻呂は近江から越前に向かう。 |
9月18日 | 藤原仲麻呂は琵琶湖西岸で捕らえられ家族共々斬られる。 |
9月20日 | 称徳天皇が道鏡禅師を大臣禅師に任じる。 |
10月9日 | 淳仁天皇が淡路に流される。 |
765年 |
10月22日 | 淳仁天皇が配所より逃げるが、連れ戻され翌日に薨じる。 |
閏10月2日 | 道鏡を太政大臣禅師に任じる。 |
768年 |
2月28日 | 吉備真備が築城に着手した怡土城(糸島市高祖山)が完成する。 |
770年 |
8月4日 | 称徳天皇が崩御。 |
8月21日 | 皇太子の白壁王が道鏡を下野の薬師寺の左遷する。 |
10月1日 | 白壁王が光仁天皇として即位する。 |
772年 |
4月7日 | 下野国より「薬師寺別当の道鏡が死去」との言上。 |
775年 |
10月2日 | 正二位で前右大臣の吉備真備が83歳で死去。 |
■色の文字で書かれた部分は筑紫に関連する出来事
-参考 「続日本紀」(宇治谷孟氏/講談社学術文庫)-
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