【北部九州戦国史】(戦国時代)
 立花城のあった立花山 | 室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。
ところが、1551年にはその大内氏が配下の陶氏に謀反され滅び、筑前には大友氏が勢力を伸ばします。
そして中国地方では陶氏を倒した毛利氏が台頭、大内氏の所領を継承し、1557年には貿易港・博多を取り戻すべく、筑前の中小の豪族へ反大友の動きを煽ります。これに呼応したのが秋月、筑紫の両氏ですが、大友氏に鎮圧され筑前を追われます。
また翌年の肥前では龍造寺氏が少弐氏を滅ぼし戦国大名として名乗りを上げます。
1564年、毛利氏は一旦、大友氏と和睦し、東に兵を向け石見の尼子氏を破ると、再び筑前の攻略に引き返します。筑前では毛利氏の支援で帰還した秋月氏、筑紫氏の他、原田氏、宗像氏、肥前の龍造寺氏が連携し大友氏へ抵抗します。また大友氏の内部からも高橋氏、立花氏などが反旗を翻し筑前は大混乱に陥ります。大友氏はこれに対し大軍を送ると共に大内氏残党を周防に上陸させ、尼子氏の残党を支援し後方を攪乱、毛利氏を筑前より撤退させます。
後ろ盾をなくした筑前の反乱勢力は大友氏に降伏、和議を行い混乱は収束します。そして、立花氏、高橋氏の頭主には大友氏の重臣・戸次氏、吉弘氏が据えられます。
大友氏は筑前が収まると次に肥前を抑えるために、兵を佐賀に向け龍造寺氏を包囲しますが、龍造寺配下の鍋島氏の夜間奇襲作戦(今山の戦い)で大混乱に陥り撤退を余儀なくされます。龍造寺氏はその勢いで勢力を広げ九州は大友、島津、龍造寺の三氏鼎立となります。
しかし、1578年には「耳川の戦い」で大友氏が島津氏に大敗するとこの均衡が崩れ、筑前では秋月氏、筑紫氏等が三度(みたび)大友に反乱を起こします。この混乱の隙を突き、筑後には龍造寺氏が攻め入り筑後の勢力を次々に配下に取り込みます。
ところが破竹の勢いで勢力を拡大した龍造寺氏ですが、1584年に「沖田畷の戦い」で北上して来た島津氏にあっけなく破れ、島津の配下に入ります。
1586年、島津軍の侵攻に抗す手立てをなくした大友宗麟は豊臣秀吉に謁見し援軍の依頼を行います。一方で、肥後、肥前、筑後の勢力を配下に入れ大軍となった島津軍は筑前攻略に取り掛かります。
筑前では秋月氏、原田氏等も島津に組し、直前に大友方に組した筑紫氏も島津に降伏、豊後の兵の救援もなく立花、高橋両氏は孤立します。そして高橋氏が守る岩屋城は島津軍の猛攻に落城。高橋氏、筑紫氏の兵が共同で守る宝満城も筑紫の兵の勧めで降伏します。次に島津軍は立花氏の立花城へ向かい攻撃を開始しますが、豊臣秀吉の意を受けた毛利軍の九州上陸を察知した島津軍は南に向けて撤退します。そして1587年には島津氏は降伏し、九州は豊臣秀吉によって平定される事となりました。
【北部九州戦国年表】(1530年~1621年)
以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。
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筑前 |
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筑後 |
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肥前 |
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豊前・豊後 |
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中国地方 |
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その他の出来事 |
武将の名は時代で変わりますが、理解し易くするためにここでは一般的に認知されている名前で統一しています。
■戦国年表■
1530年
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少弐方の龍造寺家兼・鍋島清久らが肥前攻略を目指す大内氏を「田手畷(たでなわて・吉野ヶ里町田手)の戦い」で破り筑前に追う。
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1533年
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少弐氏と手を結んだ渋川義長(九州探題)が、大内氏に攻められ自害する。ここに九州探題は滅ぶ。
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1534年
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「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で龍造寺家兼が肥前攻略の大内氏を奇襲し筑前に追う。
少弐資元(しょうにすけもと)は龍造寺家兼の仲介で大内義隆と和睦する。
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1536年
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少弐資元が大内義隆に攻められ父・政資と同じく肥前多久にて自刃する。
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1544年
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少弐冬尚(資元の子)の家臣・馬場頼周(ばばよりちか)は1534年の大内氏との和睦に関して、龍造寺家兼の逆心を疑い策を巡らし龍造寺家を討つ。
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1545年
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龍造寺家の主だった人物が馬場頼周に斬られ、家兼は筑後の蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元に退去する。
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1546年
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龍造寺家兼は鍋島氏・千葉氏を後ろ盾に兵を挙げ、馬場頼周を討ち、少弐冬尚と敵対する。そして曾孫の龍造寺隆信を後継とし、この年に没する。
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1550年
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「二階崩れの変」で大友宗麟が大友家当主となる。
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1551年
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大内義隆が陶晴賢(すえはるかた)に謀反され自害する。
宗麟の弟・晴英、大内氏を継ぎ大内義長となる。
大内氏の後ろ盾を失った龍造寺隆信は、大友派の家臣に攻められ曾祖父・家兼と同じく蒲池鑑盛の元に退去。
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1554年
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大友宗麟が肥後の叔父・菊池義武を討ち菊池氏が滅ぶ。
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1555年
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「厳島の戦い」で毛利元就が陶晴賢を破り周防、長門を掌握する。
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1557年
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毛利元就に攻められ大内義長が自刃する。
秋月文種と筑紫惟門が毛利元就に呼応したため、大友勢より攻められる。秋月文種は自刃し筑紫惟門(ちくしこれかど)は毛利氏の元に落ちる。
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1558年
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門司城の戦い。毛利氏と大友氏が攻城戦を繰り広げる。
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1559年
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少弐冬尚が龍造寺家兼の曾孫・隆信に討たれ、少弐氏が滅びる。
高橋鑑種(たかはしあきたね)、宝満城の城主となる。
毛利氏の元に逃れていた秋月文種の次男・種実が秋月に戻り大友氏に抵抗する。
筑紫惟門が筑前に攻め込み博多が焼亡する。
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1560年
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「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を破る。
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1566年
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「月山富田(がっさんとだ)城の戦い」で毛利氏が尼子氏を敗り、再び九州攻略に乗り出す。
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1567年
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秋月種実が「休松の戦い」で立花道雪(たちばなどうせつ・戸次鑑連)に奇襲をかけ大混乱に落としいれる。
高橋鑑種が宝満城で主家・大友氏に反旗を翻す。
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1568年
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立花城主・立花鑑載(たちばなあきとし)が大友氏に反旗を翻すが立花道雪に立花城を落され、自刃する。
「多々良浜の戦い」毛利氏と大友氏が多々良川を挟み対陣する。
織田信長が足利義昭と伴に上洛する。
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1569年
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大友宗麟の支援を受けて大内一族の大内輝弘が周防より上陸し毛利氏を攻撃する。
尼子氏の家臣・山中鹿之助が出雲国で毛利氏に抵抗する。
後方を攪乱された毛利氏は筑前より撤退する。
後ろ盾をなくした秋月種実、筑紫広門は降伏。高橋鑑種は毛利氏の小倉城へ移される。
高橋紹運(たかはしじょううん)が高橋家を継ぎ、宝満、岩屋の二城を守る。
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1570年
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6月、毛利元就が没す。
大友軍は大軍で龍造寺を包囲するが「今山の戦い」で、鍋島信生の夜襲を受け敗走する。
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1575年
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「長篠の戦い」で織田信長が武田勝頼を破る。
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1578年
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11月、「耳川の戦い」で大友が島津に大敗を喫す。
秋月氏と筑紫氏が龍造寺氏と手を組み大友氏に三度目の反乱を起こす。
蒲池氏など筑後の武将も大友氏と一線を画し龍造寺に寄る。
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1579年
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10月、龍造寺と筑紫広門が大友の鷲岳城に兵を向ける。
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1580年
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蒲池鎮並(かまちしげなみ)が龍造寺隆信より離反する。
龍造寺氏が柳川城攻略を行うが落とせず撤退する。
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1581年
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5月27日、蒲池鎮並が龍造寺隆信に謀殺される。
5月28日、龍造寺勢に攻められ蒲池氏の柳川城落城。続き6月1日、塩塚城落城し五百余名が討たれる。翌々日には佐留垣落城が落城し百余名が討たれ蒲池氏が滅ぶ。
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1583年
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高良山座主麟圭(りんけい)は3年にわたって久留米城に籠り、大友氏と対立する。
「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉が柴田勝家を破る。
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1584年
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3月、龍造寺隆信、「沖田畷の戦い」で島津に敗れ討死する。
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1585年
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3月、秋月種実が立花城を攻めるが、立花統虎の夜襲に遭い撤退する。
5月、豊臣秀吉の四国攻め。
9月、立花道雪が北野の陣中で病没する。
筑紫広門が、高橋紹運の不在を突き宝満城を攻略する。
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1586年
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4月、大友宗麟が豊臣秀吉に謁見し救援を求める。
筑紫広門が高橋統増(紹運の次男)に娘を入れ同盟する。宝満城は高橋氏と筑紫氏で共同で守る。
五ヶ山城を島津勢に攻められ筑紫広門が降伏。
7月、「岩屋城の戦い」で、島津軍に攻められた高橋紹運が自刃する。
8月、豊臣軍が九州に上陸する。
8月、立花宗茂が岩屋城、宝満城を奪い返す。
10月、徳川家康が豊臣秀吉に臣従する。
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1587年
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5月、島津義久が秀吉に降伏する。
6月、大友宗麟が病没。
太閤博多町割りが行われる。
豊臣秀吉の九州国割により、筑前には小早川隆景、豊前の南部には黒田如水、久留米には毛利秀包(ひでかね)、柳川には立花宗茂が入る。
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1600年
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関ヶ原の戦いで東軍で勝利に貢献した黒田長政が筑前に入る。西軍に着いた立花宗茂は改易される。
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【名家衰退】(1533年~)
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。
少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏により肥前に退けられます。
九州に地盤の薄い渋川氏にとっては大内氏の支援は不可欠なものでしたが、時が経ち気付いて見れば筑前は大内氏の支配するところとなり、渋川氏は肥前東部の小勢力という立場になっていました。
1533年、渋川義長は一転しこれまでの宿敵、少弐資元と同盟し大内氏に抵抗しますが翌年には大内義隆の軍に攻められ敗死します。以後も探題・渋川氏は存続しますが大内氏の傀儡となり、実質的な探題はにここで終焉を迎えます。
一方、少弐資元は筑前奪回も儘ならず肥前で大内氏に防戦一方となりますが、配下の龍造寺氏の活躍で辛うじて面目を保ちます。そして1534年、資元は大内義隆と和議を結ぶものの2年後には義隆より攻められ多久に逃れそこで自刃します。その後、資元の子・少弐冬尚が後を次ぎますが、配下の内訌により龍造寺氏は少弐氏を見限り大内義隆へ従います。
しかし、豊前・筑前を得て七国の守護となり勢力を誇った大内義隆も1551年には重臣の陶晴賢(すえはるかた)の謀反で自刃しこの世を去ります。その後を陶晴賢の要請で大友宗麟の弟・晴英(義隆の甥)が継ぎ大内義長となるものの6年後には、陶晴賢を破った毛利元就に攻められ自刃し大内氏は滅ぶことになります。
この大内氏の終焉は、龍造寺隆信に攻められた冬尚が自刃し少弐氏が滅亡する2年前の事になります。
その後、肥前では少弐氏に取って代わった龍造寺隆信が戦国大名として頭角を現し、筑前を勢力下に収めていた大友宗麟と対立する事となります。
【毛利氏の筑前侵攻】(1557年~)
 門司城の碑(後方の橋は関門橋) | 厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖市北西の山間部)の筑紫惟門(これかど)ですが、これに対し大友宗麟は二万の大軍を送り、古処山城を攻めて文種を討ちます。文種の子・種実は落城に先立ち毛利氏の元へ逃れ、惟門も城に火を放ち山口に落ちます。
翌年、元就は関門海峡を渡り門司城を攻略。これに対し大友宗麟も兵を送りこの攻防戦は3年ほど続きますが最終的に元就が門司城を奪取し筑前攻略の足掛かりとします。
そしてこの間に秋月種実と筑紫惟門は旧領に戻り、再び反旗を掲げます。元就も着々と豊前の攻略を行いますが、1564年、石見の尼子氏と戦うために、大友氏と和睦し東に兵をとって返します。そのため筑前騒乱は収束に向かいますが、それも束の間、元就は1566年に尼子氏を下すと、再び九州に兵を向け筑前は慌しくなります。
1567年には秋月種実が再度挙兵し「休松の戦い」で大友の大軍を大混乱に陥れます。また宝満城で大友の重臣・高橋鑑種(あきたね)が反旗を翻し、また翌年には西の大友と呼ばれる立花城の立花鑑載(あきとし)までもが毛利氏に寝返ります。そして肥前の龍造寺隆信もこの混乱に乗じ東に触手を伸ばします。
この危機的状況に大友宗麟は先ず、戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)に命じ立花城の立花鑑載を猛攻、自刃させます。次に大軍を肥前に送り筑紫惟門を討ち、龍造寺隆信を攻めますが、毛利氏が筑前に侵攻して来たため、隆信と急きょ和睦し、毛利軍と戦うため兵を北へ向け、多々良川をはさみ対峙します(1569年「多々良浜の戦い」)。緒戦では優劣が付かず、お互いに睨み合いが半年ほど続きます。
その間に宗麟は以前に大内義興(よしおき、義隆の父)に謀反、失敗し豊後に逃れていた大内輝弘(義隆の従兄弟)に兵を付けを周防に上陸させ、また石見を追われた尼子氏の遺臣を支援し、敵の後方を攪乱します。このため毛利元就は本国守備のために筑前より撤退せざるおえなくなります。
毛利氏の支援を失くした秋月種実は降伏、高橋鑑種は開城を条件に豊前・小倉へ移ります。
以後、毛利氏は織田信長の命で中国へ侵攻して来た羽柴秀吉と戦うため東へ兵力を集中することとなり、筑前の騒乱は大友宗麟が「耳川の戦い」で大敗を喫する1578年までの約10年の間、一旦、鎮まります。
【休松の戦い】(1567年)
 休松の戦いが起こった一帯 | 毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。
1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。
大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)の有力武将へ2万の兵を与え鎮圧に当たらせますが、
8月14日の緒戦に秋月種実は古処山の麓で激しい戦いを仕掛けるものの、以後は古処山城に入り守りを固めます。
大友方の三将も天然の要害・古処山城を攻める手立てもなく膠着状態に入りますが、
そこに毛利勢の九州渡海の動きを知らせる情報が入ります。
この報に接した毛利に心を寄せる豊前、筑後の諸勢力は理由をつけて大友軍から離脱し各々の所領に帰える準備を始めます。
大友に遺恨のない武将たちもこの動きに動揺し自領を固める名目で戦線を離れる者が多くなります。
このような状況の中、大友宗麟の命で三将は一旦、筑後の高良山へ兵を引くことになりますが。
その9月3日の夜、撤退を開始した大友勢の背後に秋月勢4千が突如として襲い掛かります。
20日間もの間、城に籠もっていた兵が攻撃してくる事を予測していなかったのか、
大友勢は大混乱に陥り逃げ落ちて来る味方を敵勢と勘違いし同士討ちが起こります。
戸次鑑連はこの状態を収拾し秋月勢と戦いますが、豊後目指して逃げ帰る味方の大軍の動きは止められず、多くの戦死者を出し撤退することになりました。
10年前にこの地で父・秋月文種を大友の軍に討たれ、自らも命からがら毛利元就の元まで逃れた経験のある秋月種実はこの戦いで溜飲を下ろすことになります。
【耳川の戦い-筑前・筑後-】(1578年)
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高城川古戦場(後方の小高い山が高城) |
同族間で争いを繰り広げていた島津氏は貴久が頭主になると、周辺豪族を従え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後には日向を奪われ豊後大友氏の元へ逃れ救いを求めます。これに大友宗麟は島津氏との対決を決意し日向へ大軍を向けます。
1578年11月、戦いは現在の宮崎県木城町高城辺りで行われました。合戦前には大友の武将たちに意見の不一致があり、中途半端な状況で一部の武将が戦いを始め、これに他の軍も引きずられるように戦線に加わります。大友軍は緒戦で敵を蹴散らした勢いで島津軍本隊と戦うため高城川(小丸川)を渡りますが、そこへ四方から一斉に島津軍が突撃し、大友の軍勢は大混乱に陥り形勢は逆転、北へ向けて敗走します。島津軍はこれを追い20km以上離れた耳川に追い詰めます。混乱を極めた敗走の軍は川を渡る手立てもなく次々に討たれ、川を渡ろうとした者も底の深い流れに呑まれて行きます。こうして大友宗麟は頼りとした百戦錬磨の将兵たちの多くを耳川に失い、以後、急速に勢力を縮小して行く事になるのです。
大友方のこの大敗で、筑前、筑後も風雲急を告げます。
筑後の諸豪族は勢力を拡大する容赦のない龍造寺隆信になびき、筑前南東部では秋月種実が大友の筑前諸城と本拠地・豊後を分断、筑前西部では龍造寺とつながる原田信種が勢力を拡大し、肥前南東部からは筑紫広門が龍造寺と共に筑前南部の大友方の城を狙います。大友の重鎮・立花道雪は養子の立花統虎(宗茂・高橋紹運の長男)に立花城を守らせ、自らは軍勢を率い筑後勢力と対峙し、岩屋城の高橋紹運は東に秋月種実と西に筑紫広門の両面の敵を抱える情勢となります。
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大友方の多くの将兵が斃れた耳川 |
1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に救援を求める事になるのです。
写真の「高城川古戦場」は宮崎県児湯郡木城町高城。「耳川」は宮崎県日向市美々津町で撮影したものになります。
【鷲ケ岳城の攻防】(1579年)
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。
その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知った岩屋城城主・高橋紹運は自ら援軍を率い鷲ケ岳城の救援に向かいます。
大田兵衛は無駄な戦は無用とばかりに早々に兵を肥前に引き上げますが、筑紫広門はそのまま留まり、度々小競り合いを起こして高橋紹運を引き付け城に帰そうとしません。
この時、城主不在の岩屋城には広門と盟約を交わした秋月種実の兵が迫っていたのです。岩屋城からの早馬でこの危機を知った紹運は兵を引き城に戻ろうとしますが、背後から広門の軍が攻撃を仕掛けます。この敵軍をどうにか大利(おおり・JR大野城駅周辺)辺りで押し返し紹運はやっとの事で岩屋城に戻ります。
そして戻った兵と城内の兵は合流し高雄山の麓(西鉄五条駅の東方1km)で秋月の軍と戦いこれを追います。
その後も広門の軍は戦いを仕掛けますが、突然背後に筑後の戦線より駆け戻った立花道雪が現れたため古賀(筑紫野IC付近)長岡(永岡)を通って肥前へ撤退しました。
これで鷲ケ岳城は一旦危機を脱しますが、2年後には再び筑紫広門と龍造寺の軍が攻め寄せ、昼夜問わず猛攻を加えたため遂に開城する事となりました。
以上が「筑前国続風土記・鷲ケ嶽古城」の項に記載される内容の要約です。鷲ケ岳城は那珂川町の山間部・南面里から西方に入ったところにあった山城になります。
このように大友氏は次第に力を失い、筑後を龍造寺隆信に犯され、筑前南部は筑紫広門の抵抗に合い、本拠地・豊後と連携の要の朝倉は秋月種実に度々分断され、大友の武将・立花道雪、高橋紹運は勢力を保ちながらも筑前で徐々に孤立して行くことになります。
【蒲池氏の滅亡】(1581年)
 百八人塚 | 「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、触れなければならないのが佐賀の龍造寺氏の事になります。
1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて防戦する少弐資元は、「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で大内軍を撃退した配下の武将・龍造寺家兼の仲介で義隆と和議を行います。しかし、その2年後に義隆は和議を反故にし資元を多久で自害に追い込みます。この義隆の非情な行動に、少弐氏の家臣・馬場頼周(ばばよりちか)は龍造寺と大内氏のつながりを疑います。そして1544年、馬場頼周は策を巡らし家兼を筑後に追い、龍造寺家の主だった人物を討ち取ります。老齢の家兼は失意の中、筑後の蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元に身を寄せ、佐賀へ復帰の機会を窺います。一方、頼周は龍造寺氏を除くことには成功したものの、少弐配下の武将たちを従える力が不足したのか、その翌年に鍋島氏、千葉氏らの協力を得た家兼に攻められ討たれます。佐賀に復帰がかなった家兼は、出家の身であった曾孫の龍造寺隆信を還俗させ、頭主に据えた後に没します。
その後、龍造寺隆信は大内氏に従いますが、1551年、大内義隆が謀反に合い自刃すると豊後の大友氏が筑前に勢力を張り出し、隆信自身も大友派の家臣から筑後に追われ曽祖父と同じく蒲池鑑盛を頼ります。そして、隆信は2年後には佐賀に復帰を果たしますが、この事で鑑盛は龍造寺氏の危機を二度も救った大恩人となった訳です。
隆信は1559年には少弐氏を滅ぼし、以後は筑前に侵攻する毛利氏と結び徐々に勢力を拡大、1570年には「今山の戦い」で大友の大軍を破り、島津、大友に匹敵する巨大勢力にのし上がります。
そして1578年に大友氏が「耳川の戦い」で島津氏に大敗を喫すると、筑後に侵攻し大友派だった緒豪族を配下に置きます。この時、以前の恩人であった蒲池鑑盛は「耳川の戦い」で大友方の武将として戦死しており、その嫡男・蒲池鎮並(かまちしげなみ)が頭主となっていました。鎮並も筑後の他家と同じく隆信に組するものの、2年後には離反したため、主城の柳川城には龍造寺の大軍が押し寄せます。鎮並は城を守り抜き、隆信も一旦兵を引くものも、鎮並に以後も戦いを続ける余力がありませんでした。
1581年に隆信から和約を理由に佐賀に誘い出された鎮並は、5月27日、佐賀城西側の与賀で龍造寺の兵に囲まれ討たれます。そして翌日には龍造寺配下の鍋島、田尻の軍が柳川城へ押し寄せ容赦なく攻撃し城は落ち、6月1日には支城の塩塚城が落城。塩塚城より東の蒲原(かまはら)に逃れていた鎮並夫人で隆信の娘でもある玉鶴姫は蒲池氏の運命に従い自刃し、子息や侍女らも後を追い、または龍造寺の兵に斬られたといわれます。
疑いが策略を呼び、憎しみが謀略を産む、またその怨讐が在らぬところへ飛び火する非情の時代。しかし、そうとは言え哀れみを掛けた相手から滅ぼされた蒲池氏の人々の事を思うとただ虚しさだけが残ります。この戦いでは龍造寺軍の中にも龍造寺の前途を危ぶみ嘆息を漏らした武将がいたという事です。
【高橋と筑紫の和約】(1586年)
 山頂に宝満城址がある宝満山 | 大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑んでいます。
しかし1586年、大友宗麟の要請により豊臣秀吉が九州に派兵の動きをみせると、筑紫広門は一転、大友の将・高橋紹運と和解の道を選びます。紹運としては遺恨のある相手でしたが、破竹の勢いで北上する島津勢の面前に、味方の勢力が立ちはだかる事を考えると、他の選択はありえなかったのでしょう。
同年4月、両者は岩屋城で高橋家嫡男・統増と広門の娘の婚儀をとり行い、また重臣の子息をお互いに入れ替え、和んだ雰囲気の中、和議は整います。
これに驚いたのは秋月種実です。この厄介な同盟を島津へ知らせる使者を立て早期の侵攻を促します。
そして7月6日、島津の軍は筑後北部に現れ高良山(久留米市市街地の西部)に陣を敷き、8日には広門の城を激しく責めたため広門は降伏、囚われの身となり、島津軍の岩屋城攻めは時間の問題となります。
紹運は嫡男・統増と妻室、筑紫の家臣団、家中の足軽を要害の宝満城に籠もらせ、自らは居城を捨てるのを潔しとせず岩屋城で島津軍を迎え撃ち、壮絶な戦いを繰り広げた末に将兵たちと共に玉砕します。
その後、広門は秀吉の九州上陸で動揺する島津の兵の隙を突き、幽閉されていた筑後の大善寺を脱出し自領に帰り兵を挙げます。
高橋紹運と対照的な筑紫広門の一連の行動をどう受け止めるかは人それぞれでしょが、目前に迫る大きなリスクを背負いながらも、一世一代の大勝負に打って出て、自らの前途を切り開いた広門の生き様には紹運と違った意味で潔さを感ぜざるを得ません。
【岩屋城の戦い】(1586年)
 岩屋城の碑 | 1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められていきます。
8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めます。
秀吉はこれに応え、仲裁を試みますが、九州統一を目前にした島津義久はこれを拒否し、従弟の島津忠長を筑前に侵攻させます。
この島津の対応に秀吉が激怒したか、ほくそ笑んだかは想像するしかありませんが、
とにかくこの時点で秀吉は徳川家康という最大のライバルの懐柔中で、早急な対応ができない状態でした。
そして筑前では、大友宗麟の家臣、高橋紹運が大宰府の岩屋城で、将兵763名と共に島津軍5万を迎え撃ちました。
戦いは壮絶を極め、城攻めの島津軍は3千以上の犠牲者を出したといわれます。
そしてついに攻撃開始より14日目の7月27日、岩屋城は落ち、紹運と将兵は共に玉砕しました。
島津軍は続いて紹運の次男、統増が守る宝満城を開城させ、長男、立花宗茂の立花山城へ向いました。
しかし宗茂の守る立花山城は堅く、攻め切れずにいたところへ、「秀吉軍の九州上陸」の報を受け、島津軍は南へ向けて撤退を開始します。
この日が8月24日で岩屋城玉砕の約1ヶ月後のことでした。
紹運は岩屋城の戦いで、敵将より降伏を勧められますが、「もし貴殿が攻められる側であったならば、命を惜しみ忠義を捨てて降伏されるのか?」と一蹴にしたそうです。また九州平定後、秀吉は紹運の忠義を「戦国の華」と褒め称えたそうです。人を褒める事が好な人だったようですが、岩屋城の戦いの様子を聞き知った秀吉の心からの褒め言葉だったと想像したく思います。
【豊臣秀吉の筑前一夜城】(1587年)
 益富城跡のある嘉麻市中益の城山 | 島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は居城とした益富城(嘉麻市大隈町)を捨て本拠地の古処山城(秋月の北東の山頂)に籠もります。
夜になり古処山から益富城方面を臨むと、そこは見渡す限り秀吉軍のかがり火で満ち溢れ、翌日には城の建て替えも始まり時を置かずして完成します。また、秀吉の軍の馬には仮面が被せられておりその形相が龍蛇に見えたため兵士たちは「上方の軍馬は馬にあらず」と言い合ったといわれます。これらの事で秋月の将兵は戦意を消失し、種実は息女と天下の茶器「楢芝」を差出し降伏します。
この時の事を貝原益軒は「黒田家譜」に次のように記述しています。
「敵の気を奪はん為、暮に及てわざと嘉摩穂波の村々に、かがり火を多くたかせ給う。南は桑野より、北は飯塚の辺に及べり。秋月家人共、古処山の頂より東の方を見渡せば、秀吉公の軍兵両郡に充満して、諸軍の陣に燃す火は晴たる空の星のごとく、野も山も村里も皆軍兵とみえて夥(おびただ)し。夜明て古処の山上より大隈の城をみれば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来腰板を打たれば、見る者驚きて神しょう(神のなせる業)のおもひをなせり。是は敵の目を驚かし、勇気をくじかせんために、播磨杉原の紙を以、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨をぬり、腰板にさせ給けるなり。」
写真は益富城跡がある嘉麻市大隈町城山。大隈町では10月末から11月にかけて「一夜城祭り」が執り行なわれ、期間中、城山には益富城が出現しライトアップされています。
【豊臣秀吉の博多町割り】(1587年)
 櫛田神社の「博多塀」 | 1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り
「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、
荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。
博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資金を提供したものと思われ、
「博多町割り」後は、現在の大博通りの東側を宗室町、西側を宗湛町と呼んでいたそうです。
秀吉としては博多を南蛮や明との交易の一大拠点と考え、博多復興には力を入れたと思われます。
もちろん博多の商人たちの思惑もこれと一致し博多は大きく発展してゆくはずでした。しかし
秀吉が没すると徳川家康が1603年江戸幕府を開きます。江戸幕府が鎖国政策をとると、
海外貿易の役目は長崎に移り、博多商人の活力は失われていくことになるのです。
ところで、奈良屋町にあった神屋宗湛の屋敷跡は現在、豊臣秀吉を祭る「豊国神社」となっており、
また櫛田神社には嶋井宗室屋敷跡にあった「博多べい」が移築展示され、
当時の復興の様子を偲ぶことができます。
(2011.7.3)
【黒田氏筑前入り】(1600年)
 東区の名島城址の碑 | 福岡藩初代藩主、黒田長政の父、黒田如水は切れ者の野心家として知られ戦国の世に豊臣秀吉の参謀として歴史の表舞台に登場しますが、その秀吉自身も如水の智略、策謀には舌を巻いたといわれています。
九州平定後、秀吉は如水の功績に見合うとはいえない低い石高の豊前中津12万石を与えますが、これは如水の才能を警戒したためといわれています。
1598年その秀吉が没すると、如水は「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。・・・」と吉川広家に手紙を書いています。
予定通り、1600年「関ヶ原の戦い」が起こると中津にあった黒田如水は兵を挙げて西軍についた武将の城を次々と攻め落とし、再び乱世が戻ってきたことに胸を躍らせます。
しかし「関ヶ原の戦い」に東軍として参加していた息子の黒田長政は戦いが終わるとすぐに父如水へ「西軍を打ち破り、戦いは一日で終わりました。」といった喜びの戦勝報告を行います。この手紙を読んだ如水は「長政のうつけ者が、戦いは長引けば長引くほど、面白くなったものを・・・」と嘆息し、再び乱世で一旗揚げる夢が潰えたことを悟りました。
その後、父子は再会し長政は「家康公は私の手を握りしめ、『関ヶ原の勝利は長政殿のお陰じゃ』と何度も感謝されました。」と嬉しげに伝えます。これを聞いた如水は「家康はお前のどちらの手を握ったのか?」と問いかけます。
意味不明な父の質問に怪訝な面持ちで長政は「右手です」と答えます。それに如水は「その時お前の左手は何をしておったのか」と言い放ったといいます。
これらの話は逸話の域を出ないのでしょうが、如水の人間性をもっともよく伝える話しなのかもしれません。ちなみに吉川広家への手紙は実際に残っているという事です。
「関ヶ原の戦い」の戦功により筑前52万を与えられた黒田長政は筑前名島城に入り福岡藩初代藩主となります。その後、博多の西に福岡城を新しく築城し1607年にはこの城に移ります。
父、如水の晩年は政治に口をはさむ事もなく号の通り「水の如く」生き、京都の藩邸にて没します。「関ヶ原の戦い」より4年後のことでした。
(2011.7.8)
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