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【記想録】知に処するは則ち難し 投稿日2024年4月20日
知は難(かた)きに非ず、知に処するは則ち難し。 知識を得るのは難しいことではない。しかし、その知識をもって物事に対処する事が難しいのだ。 韓非子[...本文へ] [...]

【記想録】足るこれ足るを知るなり 投稿日2024年3月23日
天下に道あれば走馬を却(しりぞ)け以って糞(つちか)う。天下に道なければ戎馬(じゅうば)、郊に生ず。罪は欲すべきよりも大はなく、禍は足るを知らざるよりも大なるはなく、咎(とが)は欲得より大なるはなし。 [...]

【記想録】大器晩成 投稿日2024年3月21日
大方は角なし。大器は晩成す。大音は希音なり。大象は無形なり。 広大な四角の角は見えない。大きな器は完成するのに時間がかかる。大きな音は微かな音にしか聞こえない。巨大な物体は全体の形を把握する事ができな [...]

【記想録】柔よく剛を制す 投稿日2024年3月20日
軍讖曰く、柔よく剛を制し、弱よく強を制す。柔は徳なり、剛は賊なり、弱は人の助くるところ、強は怨みの攻むるところなり。柔も設くるところあり、剛も施すところあり、弱も用うるところあり、強も加うるところあり [...]

【記想録】和光同塵 投稿日2024年3月16日
その鋭きを挫(くじ)き、その紛を解き、その光を和げ、その塵を同じうす。 鋭く尖ったものを挫き、争い事を収め、強い陽射しを和らげ、その上で塵の様に存在がどこにあるのかわからない。 『老子』 [...本文 [...]

【記想録】上善は水の如し 投稿日2024年3月12日
上善は水の如し、水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に居る。故に道に幾し。最善の生き方は水のようである。水は万物に利を与え争うことがない。そして人々の好まない低い所へ流れる。故に『道』に近 [...]

【記想録】黒田家譜・四国攻め 投稿日2024年3月11日
四国の覇者・長宗我部元親が服さないため、秀吉は四国攻めの命を発します。羽柴秀長と秀次は6万の兵を率い淡路に入り、小早川隆景は伊予に3万の兵で上陸します。孝高は検使として宇喜多、仙石等の軍2万と行動を共 [...]

【記想録】要は須らく志を責むべし 投稿日2023年12月24日
人を教うる者、要は須(すべか)らく其の志を責むべし。聒聒(かつかつ)として口に騰(のぼ)すとも、無益なり。 佐藤一斎/『言志録』 [...本文へ] [...]

【記想録】女大学の記事を5件追加しました 投稿日2023年12月23日
『女大学』に関する記事を数件書いてみたのですが、この書は『和俗童子訓 巻之五 教女子法』を再編したものようで、おおまか貝原先生の思うところに違いないようです。諭吉先生のいう通り現代では的外れな部分も多 [...]

【記想録】公論を借りて私情を・・・ 投稿日2023年12月3日
群疑に因(よ)りて独見を阻むことなかれ。己の意に任せて人の言を廃することなかれ。小恵を私して大体を傷(やぶ)ることなかれ。公論を借りて私情を快くするなかれ 洪自誠/菜根譚 [...本文へ] [...]

【記想録】金銀も土石のごとく思うなり 投稿日2023年11月12日
我今の生涯は、一身の安楽より外、何の望もこれなし。金銀も用なければ、土石のごとくおもふなり。又人に用られ、誉を得んと思ふ心もなし。奇麗なる家作、衣服等も無用なり。朝夕の食美味を用ゆべからず。只飢ゑず寒 [...]

【記想録】天下また乱世となるべし 投稿日2023年11月11日
家康公関ケ原の一戦に若(もし)打負たまはば、天下又乱世となるべし。然らば我先九州を打したがへ、其勢を以(もち)、中国を平げて、上方へ攻上り、家康公秀忠公を助け、逆徒をほろぼし、天下を一統して、忠義を盡 [...]

【記想録】誰か過ちなからん 投稿日2023年11月4日
古語に、人聖人にあらず、誰か過ちなからん。過ってよく改む。善、これより大なるはなしといへり。程子も、学問の道他(ほか)なし。其不善を知れば、速(すみやか)に改めて善に順(したがう)ふのみといへり。不善 [...]

【記想録】秀吉の手紙 投稿日2023年10月22日
信長より中国攻めの命を受けた秀吉は姫路に入りますが、これを出迎えた孝高は士卒を町家に、秀吉は一旦、私宅の二の丸へ迎え、本丸の掃除が終わると秀吉をこちらへ案内します。また城下の屋敷を目録にし、秀吉の家人 [...]

【記想録】善の善なる者也 投稿日2023年10月14日
知略を好み、人を殺す事を好まず。毎毎和議を以、敵を降参せしめ、人の軍を全うして、人の命を助くる事、毎度其数をしらず。百度勝は、善の善なる者にあらず、戦はずして人の兵を屈するは、善の善なる者也といへるご [...]

【記想録】人に功あれば念うべからず 投稿日2023年10月8日
我、人に於いて功あれば念(おも)うべからず。しかして過ちは則ち念わざるべからず。人、我に恩あれば忘るべからず。しかして怨みは則ち忘るざるべからず。 洪自誠/菜根譚 [...本文へ] [...]

【記想録】適材適所を把握する秘訣 投稿日2023年9月24日
常に温和にして、小身なる者を近づけ、その者の気質をよく見つけて、相應(そうおう)の役を務めさすべし。 「貝原益軒『黒田家譜(巻の十五)』」 [...本文へ] [...]

【記想録】相口と不相口 投稿日2023年9月23日
人には『相口』と『不相口』いう相性があり、これは家臣を使うのに大事なことである。家臣には主君と相性がよいものがあり、これを『相口』という。この者が善人であれば国の重宝となり、悪人ならば国家の妨げとなる [...]

【記想録】吾れ書を読むに方り 投稿日2023年9月17日
吾れ書を読むに方り、一たび古昔聖賢、豪傑の体魄皆死せるを想えば、則ち頭を俯して感愴す。一たび聖賢・豪傑の精神、尚お存するを想えば、則ち眼を開きて憤興す。 『言志録』 [...本文へ] [...]

【記想録】相去ること霄壤なり 投稿日2023年9月16日
己を返みる者は、事に触れみな薬石と成る。人を尤(とが)むる者、念を動かせばすなわちこれ戈矛(かぼう)。一は以って衆善の道を闢(ひら)き、一は以って諸悪の源を濬(さら)う。相去ること霄壤(しょうじょう) [...]

宮本武蔵(みやもとむさし) 投稿日2023年9月10日
【1584年~1645年】 戦国末の動乱期に美作に生れ、13歳より壮年に至るまで六十数回の剣術勝負を行い負けた事がなかったといわれます。その中でも「巌流島の戦い」はよく知られていますが、この戦いは豊 [...]

フルモデルチェンジしました。 投稿日2023年9月3日
これまで12年間、記事の管理はhtmlとデータベースで行って参りましたが、2023年9月よりワードプレスのサイトに移行しました。html手打ち最後の牙城となっていた『福岡史伝』ですが、メンテナンス性と [...]

【記想録】一物を多くすれば・・・ 投稿日2023年9月3日
一物を多くすれば斯に一事を多くし、一事を多くすれば斯に一累を多くす 『言志録』 [...本文へ] [...]

懐良親王終焉之地 投稿日2023年7月28日
-八女市星野村-     南北朝の折 征西の宮 星野の地にありて勤皇の志気を鼓舞せられたが弘和三年二十七日土穴にての伝えあり 今尚 大円寺に於て法要を営む 伝 [...]

蒲船津城跡 投稿日2023年7月28日
-三橋町蒲船津-     蒲船津城跡 蒲船津城は、戦国時代、この一帯を治めていた蒲池氏の本拠地である柳川城を守るために設けられた、支城のひとつだったと言われていま [...]

塩塚城跡と蒲池氏百八人塚 投稿日2023年7月28日
-大和町塩塚-     大和町文化財 塩塚城跡 指定 昭和五三年一一月一四日 所在 大和町大字塩塚下塩塚地区 「百八人塚」の北東約二〇〇メートルの所とおもわれる [...]

柳川城跡 投稿日2023年7月27日
-柳川市本城町-     柳川市大字本城町八八の二番地 柳川市史跡指定 昭和五十三年五月一日 柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって本格的な城と [...]

【記想録】海舟の読書の勧め 投稿日2023年7月26日
海舟曰く「若い時は本が嫌いで手紙でも書きはしなかった。もと剣術遣いの方だからネ。四年ほど押し込められてる時に、隙(ひま)でしょうがないから読書したのサ。朝は西洋サ。昼は漢書。夜は日本の雑書でたいてい読 [...]

水田天満宮 投稿日2023年7月26日
-筑後市水田-   筑後市にある水田天満宮は鎌倉時代に菅原道真公を祀り創建された神社になります。幕末の志士・清川八郎は「九州第二天満宮なり」と自著に記述していることが水田天満宮のページに記 [...]

岩戸山古墳 投稿日2023年7月26日
-八女市吉田-     八女丘陵は東西10数㎞におよぶ丘陵である。この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。八女 [...]

筑後国府跡 投稿日2023年7月25日
-久留米市合川町-     史跡 筑後国府跡 平成 8年 3月26日(国史跡)  平成19年 2月 6日(追加指定) 平成15年 8月27日(追加指定) 平成24 [...]

将軍梅 投稿日2023年7月25日
-久留米市宮ノ陣-     正平十四年(一三五九年)の夏、征西将軍宮懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は、念持仏である阿弥陀像をここに安置し、手 [...]

高良大社 投稿日2023年7月24日
-高良山-     御由緒 御祭神 左殿 八幡大神 正殿 高良玉垂命 右殿 住吉大神 御神徳 延命長寿・開運厄除 家内安全・商売繁盛など生活万般 御 [...]

首名塚 投稿日2023年7月24日
-久留米市大善寺町夜明神社内-     首名塚 道君首名は奈良時代はじめの貴族で、筑後国の初代の国司です。首名は国司として人々に農業の指導や灌漑の便を図るなど、 [...]

久留米城跡 投稿日2023年7月24日
-久留米市篠山町-    【久留米城趾】 戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、元和七年(1621)有馬豊氏丹波福知山より転封 [...]

真木神社 投稿日2023年7月23日
-水天宮境内-    【御祭神】 主神 贈正四位 真木和泉守保臣命 当水天宮第二十二代の大宮司にして藩政の改革子弟の教育、尊王、討幕明治維新の中心的指導 [...]

真木和泉史跡 投稿日2023年7月23日
-水天宮境内-    真木和泉守保臣(一八一三~一八六四)は明治維新の中心的指導者である。水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に [...]

水天宮 投稿日2023年7月23日
-久留米市京町-     水天宮の起源は高倉平中宮(徳子-平清盛の娘-)に仕えた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が「壇ノ浦の戦い」後、筑後川の辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて [...]

西鯵坂城跡 投稿日2023年7月23日
-小郡市下西鯵坂-     【西鯵坂城跡】 ここから東南二百米ばかりの所、大楠の下に小さい石の堂が建っている。ここが城の中心地で、筑後志には「筑紫上野介家宗が據り [...]

三原城跡 投稿日2023年7月23日
-大刀洗町本郷-     【三原城跡】 三原城は本郷城ともよばれています。東西約一一〇メートル、南北約百五十メートルの範囲に外堀・内堀を構え、角矢倉、物見櫓等を [...]

菊池武光銅像 投稿日2023年7月23日
-大刀洗町山隈-     【菊池武光銅像】 正平十四年(1359)八月七日、大原(小郡市)で少弐頼尚を撃破した菊池武光は敗走する敵を追って山隈原に進出した。こ [...]

池月の塚 投稿日2023年7月23日
-小郡市八坂-      名馬池月塚 寿永二年(1183)、源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した。源平 [...]

彼岸土居古戦場 投稿日2023年7月23日
-小郡市乙隈-     彼岸土居古戦場 明治十年(1877)四月一日、明治新政府に不満の旧福岡藩士の一部百五十名は、轟警察署(鳥栖市)を襲ったが失敗し、秋月の党 [...]

高橋城跡 投稿日2023年7月23日
-大刀洗町下高橋-     高橋城跡 所在地 三井郡大刀洗町大字下高橋 中世の豪族「高橋氏」の居城跡で、現在の竃門神社境内を中心とした一帯が城跡のようで、「木戸 [...]

朝倉の三連水車 投稿日2023年7月23日
-朝倉市山田-   「三連水車の里あさくら」にある三連水車のレプリカ   朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰 朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地 [...]

山田堰 投稿日2023年7月23日
-朝倉市山田-   中央が「山田堰」で左手が「堀川用水」へ流れる水路、右手が筑後川本流になります。   日本疏水百選堀川用水 山田堰は、大石堰、恵利堰と並ぶ筑後川三 [...]

若宮八幡宮狛犬 投稿日2023年7月23日
-うきは市吉井町-     うきは市指定文化財(第一号) 若宮八幡宮狛犬(一対) 弘化二年(一八四五年)の記年銘が残る青銅製の狛犬・江戸時代、吉井の豪商で室屋と [...]

浮羽島 投稿日2023年7月23日
-うきは市浮羽町-     【浮羽島の由来】 日本の一番古い正史、日本書紀や八世紀に出来た風土記に次の説話が記されています。 景行天皇の十八年八月(おおよそ190 [...]

天子の森 投稿日2023年7月23日
-朝倉町須川-     【天子の森】 所在地 福岡県朝倉町大字須川字乗馬2928-1 斉明天皇6年(660年)7月、昔から我が国と親交の深かった朝鮮半島の [...]

臼井六郎の生誕地 投稿日2023年7月23日
-朝倉市秋月野鳥-     日本最後の仇討  臼井六郎の生誕地 父臼井亘理・清子夫妻 干城隊により斬殺される。一子六郎 苦節13年江戸旧黒田家別邸にて犯人を父遺 [...]

秋月城跡 投稿日2023年7月22日
-朝倉市秋月野鳥-        【秋月の由来】 秋月という地名は正暦三年(紀元九九二年)九月二十日に筑前国府宛に太宰府が出した官符によると、九四〇年代にこの地が [...]

般若寺跡の石造七重塔 投稿日2023年7月22日
-太宰府市朱雀-     般若寺跡の石造七重塔 般若寺は大化五年(六四九)筑紫大宰帥に任ぜられた蘇我日向が孝徳天皇の病気平癒のために建立したと伝えられるが、出 [...]

針摺石 投稿日2023年7月22日
-筑紫野市針摺-     針摺石 この針摺石には次のような伝説があり、地名の由来になっています。 その昔、太宰権帥として左遷されていた菅公(菅原道真)が、天拝 [...]

柴田城址 投稿日2023年7月22日
-筑紫野市天山-     鎌倉時代末期~南北朝時代 応安5年(1372年)菊池武光らの砦か? 菊池武光 元応元年(1319年)?~応安6年(1373年12月2 [...]

月形洗蔵幽閉の地 投稿日2023年7月22日
-筑紫野市古賀-      【月形洗蔵幽閉の地の碑】 月形洗蔵は禄高百石の福岡藩士で天下にその名を知られて平野国臣らと共に明治維新の勤皇の志士である。 祖父質 [...]

岩屋城跡 投稿日2023年7月21日
-太宰府市観世音寺-     【岩屋城跡(本丸跡)】 岩屋城は永禄2年(1559)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた 同12年彼は主家大 [...]

浦ノ城跡 投稿日2023年7月21日
-太宰府市連歌屋-       【浦ノ城跡】 筑前国の守護、少弐氏の居城と伝えられる。城の構えの詳細はわからないが、昭和44年、開発に伴う発掘調査で、 [...]

原八坊跡 投稿日2023年7月20日
-太宰府市連歌屋-       【原八坊跡】 原八坊は、正式には原山無量寺という寺で、平安時代に天台宗の智証大師円珍と8人の弟子たちが開いたと伝えら [...]

光明禅寺 投稿日2023年7月20日
-太宰府市宰府-     光明禅寺は1273年、鉄牛円心によって開山された臨済宗の禅寺です。枯山水の庭園があり秋になると美しい紅葉が広がり、多くの観光客の心を癒します。庭園にむ [...]

如水の井戸 投稿日2023年7月19日
-太宰府天満宮内-       如水の井戸 福岡藩主黒田長政の父孝高(如水法号)は、天満宮を深く崇敬して、此処に草庵を建て、二年間隠棲の際使用した井 [...]

延寿王院 投稿日2023年7月18日
-太宰府市宰府-     西鉄太宰府駅から天満宮の参道を進み突き当たるとそこに延寿王院があります。ここには幕末の「七卿落ち」の内、五卿が長州より移り3年ほど滞在しました。五卿滞在 [...]

太宰府天満宮 投稿日2023年7月18日
-太宰府市宰府-     901年、菅原道真は政敵の藤原時平などの勢力よって大宰府に流され、その二年後に謫居(たっきょ)で亡くなります。遺骸は大宰府政庁東方の安楽寺に葬られ、91 [...]

榎社 投稿日2023年7月17日
-太宰府市朱雀-     【榎社】   菅原道真公は、太宰府に左遷されてから逝去されるまでこの地で謫居された。 毎年九月、菅公の御神霊はここに神幸され [...]

大宰府政庁跡 投稿日2023年7月17日
-太宰府市観世音寺-       【特別史跡 大宰府跡】 古くから都府楼の名で知られてきたこの地域は、日本書紀によれば、天智天皇二年(663年)、唐、 [...]

学校院跡 投稿日2023年7月17日
-太宰府市観世音寺-       【学校院跡】 学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの地区は、小字名を「学業」ということ [...]

日吉神社 投稿日2023年7月17日
-太宰府市観世音寺-       【日吉神社】 観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれる。比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので、平安時代 [...]

戒壇院 投稿日2023年7月17日
-太宰府市観世音寺-       【戒壇院】 戒壇院は『天下の三戒壇』の一つとして天平宝字5年(761)、筑紫観世音寺境内の西南角に設置された。唐僧 [...]

観世音寺 投稿日2023年7月16日
-太宰府市観世音寺-       【観世音寺】 百済救援のため九州に下り、661年、朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなった斉明天皇の菩提をとむらう [...]

国分瓦窯跡 投稿日2023年7月16日
-太宰府市国分寺-       【史跡 国分瓦窯跡】   大正十一年十月十二日指定 窯跡は、池の南斜面に三基以上があったことが知られる。大正十年に [...]

国分尼寺跡 投稿日2023年7月16日
-太宰府市国分寺-   【国分尼寺跡】 天平13年(741)聖武天皇は鎮護国家、五穀豊穣を祈るため、諸国に国分寺、国分尼寺建立を命じた。尼寺は正式名称を「法華滅罪之寺」とい [...]

筑前国分寺 投稿日2023年7月16日
-太宰府市国分寺-       【史跡 筑前国分寺】 現在になお法灯を伝える筑前国分寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅願により、全国六十余国に造ら [...]

特別史跡水城西門跡 投稿日2023年7月16日
-太宰府市吉松-       特別史跡水城跡の調査成果 ここは特別史跡水城跡の西門の跡です。水城は西暦六六四年に博多湾側から攻め入ることが予想され [...]

水城東門跡 投稿日2023年7月16日
-太宰府市国分-       水城の東西端には門が設けられました。ここはその東門跡で、都から大宰府への玄関口でした。 大宰府に赴任する官人たちは、水 [...]

【記想録】己に在るものを恃むべし 投稿日2023年7月15日
士は当(まさ)に己に在るものを恃(たの)むべし。動天驚地、極(きわ)めて大事の事業も、亦(また)都(す)べて一己より締造す 『言志録』 [...] [...]

御笠の森 投稿日2023年7月12日
-大野城市山田-   以前はこの森に神功皇后を祀る社があったようですが、現在は小さな祠(ほこら)と万葉の歌碑が置かれています。この万葉歌については貝原益軒の「筑前国続風土記」に面白い話が記 [...]

小水城跡 投稿日2023年7月12日
-大野城市旭ケ丘-       上大利小水城跡その風景 水城跡は、鎌倉時代には防衛施設としての機能を失いますが、天智朝に造られたことが地元に伝わって [...]

水城 投稿日2023年7月12日
-大野城、太宰府-   写真は岩屋城跡からの眺望で、中央よりやや左側に斜めに走る森が水城跡です。右手が福岡市街地や博多湾で、左手が筑紫平野北部になります。水城跡に関しては意外な話の「福岡に [...]

大野城 投稿日2023年7月12日
-宇美町、大野城市、大宰府-       【特別史跡 大野城跡】 「今から約1300年前天智天皇二年(663年)百済救済のため朝鮮半島に出兵した日 [...]

須玖岡本遺跡 投稿日2023年7月12日
-春日市岡本-       国指定史跡 須玖岡本遺跡 ~岡本山地区~ 1986(昭和61)年6月24日指定 須玖岡本遺跡は弥生時代の代表的な遺跡で、中 [...]

少弐景資の墓 投稿日2023年7月12日
-那珂川町山田-       少弐景資の墓 少弐景資は、文永十一年(一二七四)と弘安四年(一ニハー)の二回に渡る蒙古襲来に際し、第一線の指揮官として活 [...]

裂田の溝 投稿日2023年7月10日
-那珂川町山田~安徳-       裂田の溝 さくたのうなで (築造年代 不明) この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくた [...]

唐原・落人の里 投稿日2023年7月9日
-糸島市二丈満吉-       平安時代の末、栄華をきわめた平家の勢いにも陰りが見えはじめ、源氏によって都を追われた人々は西国の各地に隠れ住んだ。この [...]

今津元寇防塁 投稿日2023年7月9日
-西区今津-       国指定史跡 今津元寇防塁 13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨ-ロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫 [...]

県指定史跡 宮崎安貞書斎 投稿日2023年7月9日
-西区女原-       宮崎安貞は、元和9年(1623年)芸州広島で生まれ、25歳の時、福岡藩主黒田忠之につかえました。まもなくその職をやめ、九州・ [...]

麁原元寇古戦場跡 投稿日2023年7月9日
-早良区昭代-       麁原元寇古戦場跡 鎌倉時代の中頃、1274(文永11)年10月、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)とそれに服属した高 [...]

貝原益軒 屋敷跡 投稿日2023年7月9日
-中央区荒戸-       【貝原益軒 屋敷跡】 貝原益軒は、藩医貝原寛斎の五男として城内で生まれ、幼い時から神童といわれ、19歳で福岡藩2代藩主黒田 [...]

東学問所(修猷館)跡 投稿日2023年7月9日
-中央区赤坂-       【東学問所跡】 福岡藩が天明4年(1784)藩の子弟教育のため設けた二つの藩校東学問所(修猷館)及び西学問所(甘棠館)のう [...]

西学問所(甘棠館)跡 投稿日2023年7月9日
-中央区唐人町-       【西学問所(甘棠館)跡】 天明4年(1784年)に福岡藩が藩士教育のため設けた藩校西学問所、別称甘棠館の跡です。徂徠古学 [...]

平尾山荘 投稿日2023年7月9日
-平尾山荘公園-        【野村望東尼】 歌人野村望東尼(俗名モト)が、夫と一緒に世間から離れ、ひっそりと暮らした山荘。安政6年(1859年)、 [...]

加藤司書 歌碑 投稿日2023年7月9日
-中央区西公園内-      【加藤司書 歌碑】                (1828年~1865年) 福岡藩の家老職で勤王派。ロシア船が開国を求め長崎 [...]

平野国臣像 投稿日2023年7月9日
-中央区西公園内-       【平野二郎國臣の銅像】 (1828年~1864年) (幕末期に討幕・国家統一を主唱) 現在の今川一丁目生まれ。26歳 [...]

母里太兵衛像 投稿日2023年7月9日
-光雲神社内-        【母里但馬守太兵衛友信像】 黒田二十五騎の一人で智勇兼備の武将で、主君長政公の命を受けて、福島正則公に使いした時禁酒の太 [...]

鴻臚館跡 投稿日2023年7月9日
-中央区城内-      【鴻臚館跡】 鴻臚館はわが国の古代の外交施設で、平安京(京都)、難波(大阪)、筑紫(福岡)の3ヵ所に置かれていましたが、現在その場所が確 [...]

福岡城跡 投稿日2023年7月9日
-城内・舞鶴公園-        【三の丸(松ノ木坂)】 福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しました。ほぼ現 [...]

筑前国一の宮 住吉神社 投稿日2023年7月9日
-博多区住吉-       【住吉神社と文化財】 住吉神社は『延喜式(えんぎしき)』(延長5(927)年に完成)の神名帳(じんみょうちょう)に明神(み [...]

「黒田節」像 投稿日2023年7月9日
-JR博多駅博多口-       【黒田節の由来】 文禄五年(1596年)正月、黒田長政の家臣、母里太兵衛は主命により福島正則の邸に使いした。宴酣とな [...]

博多総鎮守 櫛田神社 投稿日2023年7月9日
-博多区上川端町-       【博多総鎮守 櫛田神社】 御祭神 左殿 天照皇大神 (大神宮)     中殿 大幡主大神 (櫛田宮)     右殿 素 [...]

平信盛公墓 投稿日2023年7月9日
-宗像市-       【平信盛公墓】 宗像市 文化財第一号 史蹟 (昭和四十九年三月三十日) 名称 平信盛笠塔婆 一基 説明 この墓碑は平信盛(清盛の [...]

維新之志士 早川勇顕彰碑 投稿日2023年7月9日
-宗像市吉留-       【明治維新の志士 早川 勇】 早川勇は幕末から明治へ 高杉晋作、西郷隆盛、中岡慎太郎、平野国臣、野村望東尼、等と結び歴史を [...]

長者原の戦い復興の碑 投稿日2023年7月9日
-粕屋町長者原-       復旧の碑 征西将軍宮懐良親王、正平十七年1362(貞治元年(607年前)十月御所の陣に陣し肥後守菊池武光公に随い一万四千 [...]

筥崎八幡宮 投稿日2023年7月9日
-福岡市東区箱崎-       【大社 筥崎宮】 祭神/応神天皇(八幡大神) 神功皇后、玉依姫命 例大祭/九月十五日 筥崎宮は醍醐天皇の延長元年(九 [...]

大分廃寺塔跡 投稿日2023年7月8日
-飯塚市大分-       国指定史跡 大分廃寺塔跡 (だいぶはいじとうあと) 所 在 地 指定年月日 昭和十六年十二月十三日 大分廃寺塔跡は、当地 [...]

貝原益軒先生学習地の碑 投稿日2023年7月8日
-飯塚市八木山-       【貝原益軒学習の碑】 この約40坪の宅地は貝原益軒か8才から11才(1638~1641年)までの幼年時代を過ごした住所 [...]

鎮西八郎為朝屋敷跡 投稿日2023年7月8日
-香春町中津原-       【鎮西八郎為朝屋敷跡の碑】  県立田川農林高等学校の校歌に『鎮西原に為朝の居城の跡を偲びつつ』とありますが、「応永戦乱記 [...]

おこしかけ  投稿日2023年7月8日
-豊前市四郎丸-   「おこしかけ」の由来 JR日豊線豊前松江駅の東南方に細長い台地があり、そこは「おこしかけ」の名で呼ばれている。 往古、神功皇后(じんぐうこうごう)が豊 [...]

船迫窯跡 投稿日2023年7月8日
-築上郡築上町船迫-       国指定史跡 船迫窯跡 (平成11年1月28日指定) 平成7年、船迫地区の農業基盤整備に伴う発掘調査で、水田下より大規 [...]

豊前国府政庁跡 投稿日2023年7月8日
-京都郡みやこ町-       豊前国府政庁跡   豊前国府は、ここ福岡県京都郡みやこ町国作(こくさく)・惣社(そうしゃ)地区に広がる奈良~平 [...]

御所ヶ谷神籠石 投稿日2023年6月27日
-行橋市津積-       御所ヶ谷神籠石と周辺の史跡 御所ヶ谷神龍石(ごしょがだにこうごいし)は7世紀に国外からの侵攻に備えて築かれた古代の山城跡で [...]

馬ヶ岳城跡 投稿日2023年6月27日
-行橋市大谷-       ●馬ヶ岳城の歴史● 馬ヶ岳城は、行橋市とみやこ町の境に聳える標高216mの馬ヶ岳と、その山麓に築かれた中世の山城です。室町 [...]

宮本武蔵の碑 投稿日2023年6月26日
-北九州市小倉北区赤坂-       宮本武蔵の碑 この碑は宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。伊織が播州(兵庫県)明石の藩主であった小笠原忠真 [...]

小倉城 投稿日2023年6月26日
-北九州市小倉北区城内-       小倉城  細川忠興は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地高三 [...]

伊能忠敬測量記念碑と常盤橋 投稿日2023年6月25日
-北九州市小倉北区京町-   伊能忠敬測量200年記念碑 江戸時代の測量家伊能忠敬は、50歳で商家の家業を長男に譲り第二の人生を志し、天文・暦学を学ぶ。寛政12(1800) [...]

門司城跡 投稿日2023年6月23日
北九州市門司       門司城(門司関山城・亀城) 門司城は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させた といい伝えられてい [...]

荒生田神社の由緒 投稿日2023年6月23日
-北九州市八幡東区-     当荒生田神社は二つの社が合併して出来た神社である。 明神社は字川ノ上(現在八王子橋付近の山にあり、天平十二年(西暦740) 板櫃川の [...]

不落の柳川城炎上す (1872年) 投稿日2023年6月21日
1873年(明治5年)、不落の城と呼ばれた柳川城から出火し城郭は焼け落ちます。 出火の原因は公式には不明とされていますが、地元民の間では、この炎上が放火によるものらしいという話が伝わっている様です。 [...]

二卿事件-久留米藩難- (1871年) 投稿日2023年6月21日
明治初期の反政府騒乱は、1874年、明治7年の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」という出来事が、これより以前の明治4年 [...]

真木和泉-禁門の変- (1864年) 投稿日2023年6月20日
1863年、8月18日の政変で会津・薩摩の両藩に追われた長州藩は京都を去りますが、長州藩士と共に攘夷活動を行っていた真木和泉も七卿の護衛をし長州へ落ち延びます(七卿落ち)。翌年7月に長州藩は兵を挙げ再 [...]

平野國臣の倒幕活動 (1858~1864年) 投稿日2023年6月19日
平野國臣が歴史の表舞台に登場するのは、1858年の「安政の大獄」で幕府に追われる僧・月照の警護役で薩摩藩まで付き添った時だと思われます。結局、薩摩藩は月照を受け入れず、西郷隆盛は月照と共に錦江湾へ入水 [...]

寛政異学の禁 (1790年) 投稿日2023年6月19日
各地で藩校が開設された田沼意次の開放政策時代を経て松平定信は1787年より「寛政の改革」を行います。 質素倹約、文武奨励を柱とする政策は学派統一の方針にも向かい、儒学の講義を朱子学に絞り陽明学や古学な [...]

山田堰の建造 (江戸時代中期) 投稿日2023年6月18日
朝倉市山田にある山田堰は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。 山田という土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低 [...]

巌流島の決闘 (1612年) 投稿日2023年6月18日
関ヶ原の戦いで天下の大勢が決すると西軍だった豊前小倉の主・毛利勝信は改易され、豊前には細川忠興が入ります。そして細川家はその約20年後に加藤清正の子・忠広が改易された肥後に移ります。それに代わり豊前小 [...]

豊臣秀吉の筑前一夜城 (1567年) 投稿日2023年6月18日
-戦わずして人の兵を屈す-   島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略 [...]

岩屋城の戦い (1586年) 投稿日2023年6月18日
1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められます。8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めること [...]

高橋と筑紫の和約 (1586年) 投稿日2023年6月18日
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥 [...]

蒲池氏の滅亡 (1581年) 投稿日2023年6月18日
「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、触れなければならないのが佐賀の龍造寺氏の事になります。 1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて [...]

鷲ケ岳城の攻防 (1579年) 投稿日2023年6月18日
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひ [...]

耳川の戦い-筑前・筑後- (1578年) 投稿日2023年6月18日
同族間で争いを繰り広げていた島津氏は貴久が頭主になると、周辺豪族を従え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後には日向を奪われ豊後大友氏の元へ逃 [...]

休松の戦い (1567年) 投稿日2023年6月18日
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。これに対し、大友宗麟は戸次 [...]

毛利氏の筑前侵攻 (1557年~) 投稿日2023年6月18日
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り [...]

名家衰退 (1533年~) 投稿日2023年6月18日
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。し [...]

北部九州戦国年表 (1530年~1621年) 投稿日2023年6月18日
以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。   ■戦国年表■ 1530年 少弐方の龍造寺家兼・鍋島清久らが肥前攻略を目指す大内氏を「田手畷(たでなわて・吉野ヶ里町 [...]

北部九州戦国史 (戦国時代) 投稿日2023年6月17日
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面 [...]

九州南北朝年表 (1336年~) 投稿日2023年6月13日
九州での南北朝の混乱は60年近く続きます。1392年に両朝が統一し、この戦乱は一旦収まるかに見えました。しかし、今川氏が九州を去った後には豊前、筑前へ大内氏が触手を伸ばします。このため騒乱は応仁の乱を [...]

芦屋から壇ノ浦へ (1183年~1185年) 投稿日2023年6月12日
豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地 [...]

筑後竹野の戦い (1183年) 投稿日2023年6月12日
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然 [...]

鎮西反乱 (1180年~1185年) 投稿日2023年6月12日
-治承・寿永の乱- 1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源 [...]

怡土城の築城 (756年) 投稿日2023年6月11日
怡土城(いとじょう)は奈良時代に、高祖山(たかすやま)に築かれた山城になります。高祖山は福岡市西区と糸島市を隔てる位置にあり、鎌倉時代には筑前の古豪、原田氏の居城となっています。 続日本紀には「756 [...]

梅花の宴 (730年) 投稿日2023年6月11日
元号「令和」の元となった「梅花の宴」は730年の大宰帥・大伴旅人の邸宅で行われました。 「梅花の宴」といえばなんか貴族のほのぼのとした詩会が想像されるのですが、原文でも宴会となっているようで実際は新年 [...]

奈良時代の権力闘争 (716年~775年) 投稿日2023年6月11日
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 7 [...]

中山鹿之介の陣鐘? (明治時代) 投稿日2023年6月4日
-国宝・西光寺の梵鐘- 明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に [...]

「漢委奴国王」印は本物? (1784年) 投稿日2023年6月4日
-なぬ~金印には贋物説があった?- 江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴国王」印には、意外にも当時より贋物説があったという事です。1700年を経て無傷で発見された奇跡に、疑問の声を上げる人々があっ [...]

「平野國臣紙撚文書」とは? (1862年) 投稿日2023年6月4日
-筆がなけば紙で書く- 平野國臣は西郷隆盛、真木和泉の他、「池田屋事変」に斃れた宮部鼎蔵、新選組の元をつくった策謀の士、清川八郎、当代随一の開明家・佐久間象山を暗殺した過激攘夷の志士、川上彦斎などと [...]

太宰府天満宮の「麒麟像」 (1852年) 投稿日2023年6月4日
-トーマス・グラバーと麒麟像- 太宰府天満宮の境内には、「麒麟像」があります。私も子供の頃からその像を知っていましたが、単なる写実性の高い動物像だと思っていました。 学生の頃にこれが中国の空想上の動 [...]

小倉碑文とは? (江戸時代) 投稿日2023年6月3日
-宮本武蔵の碑- 小倉碑文は小倉藩家老の宮本伊織が養父・武蔵の事蹟を残すために小倉・手向山(たむけやま)に建立した石碑になります。ここには六十数回に及ぶ武蔵の決闘の中から六つの決闘の事が記載されてい [...]

茶器「楢柴」の事 (戦国時代) 投稿日2023年6月3日
-博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器- 豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実 [...]

「日本号」ってなに? (1596年) 投稿日2023年6月1日
-戦国史を背負う名槍- 「日本号」とは、大杯になみなみと注がれた酒を飲み干した母里太兵衛に福島正則が贈った名槍の名前です。 この槍は、元々は天皇家の所蔵で足利義昭へ下賜され、織田信長、豊臣秀吉、福島 [...]

「博多べい」ってどんな塀? (1587年) 投稿日2023年6月1日
-戦乱で出た瓦礫の処分方法は?- 九州を平定した豊臣秀吉は戦災で荒廃した博多を復興するため「博多町割り」を行います。 しかし新しい町並みを造るにあたって頭を悩ましたのが、戦災後の街中に残る大量の瓦礫 [...]

博多が初の「透頂香」とは!? (1369年) 投稿日2023年6月1日
-「ういろう」とはブランド名?- 「陳員外郎という者が1369年、元代末の乱をさけ博多に移住し、その後上京して将軍義満に種々の薬を献上した。義満はとりわけ透頂香(とうちんこう)を気に入り陳員外郎に京 [...]

筑紫に置かれた「漏刻」とは? (飛鳥時代) 投稿日2023年5月31日
-中大兄皇子の水時計研究- 漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母 [...]

夜に光を放つ石「魚眼精」 (飛鳥時代) 投稿日2023年5月31日
-願いを叶える如意宝珠- 中国の正史「隋書」の倭国の項には次のように書かれています。 「阿蘇山有り。故なく火起こりその石は天に接す。俗をもって異と為し、因って祷祭を行う。如意宝珠有り、その色青く、 [...]

「帆柱石」伝説とは? (古墳時代) 投稿日2023年5月31日
-大木が石化した珪化木- 東区名島の海岸には「帆柱石」と呼ばれる。円柱形の化石があり国の天然記念物に指定されています。この石のネーミングは「神功皇后が三韓出兵の際に使用した軍船の帆柱が化石になった」 [...]

飴買い幽霊の話 (1679年) 投稿日2023年5月30日
-安国寺に伝わる伝説- 福岡の歓楽街・親不孝通りの真ん中辺りを博多湾に向かって右手に入ると、安国寺というお寺があります。このお寺には「飴買い幽霊」の伝説が残り、その墓も置かれています。伝説の内容は次 [...]

お綱門の事 (江戸時代) 投稿日2023年5月30日
-福岡城内での悲劇- 福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になり [...]

おしどり伝説 (戦国時代) 投稿日2023年5月30日
-三原貞吉の話- 貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。 戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけ [...]

針目城落城の原因 (1581年) 投稿日2023年5月30日
-自らの行いで破滅した城番- 大友宗麟が「耳川の戦い」で島津軍に大敗すると筑前東南部では秋月種実が宗麟に対し叛旗を翻します。 種実は大友勢の抑止のため筑前と豊後との境界地帯の穂坂(原鶴温泉の東方)に [...]

糸島の平家伝説 (平安時代) 投稿日2023年5月29日
-平重盛の妻子と都見石- 糸島市の二丈満吉には「都見石(みやこみいし)」という史跡があります。この石は、唐原(とうばる・糸島市満吉の南部)の山中の畑の所々に露出する1~2m程の岩石群の事になります。 [...]

筑後みやまの平家伝説 (平安時代) 投稿日2023年5月29日
-平家の史跡- 壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力 [...]

「濡れ衣」の語源は博多にあり (奈良時代) 投稿日2023年5月29日
-悲しい話です- 「藤原広嗣の乱」の前後の事だと思われますが、都より佐野近世(さのちかよ)という人が奥方と娘を伴い筑前の守として赴任して来ます。それからしばらくして奥方は亡くなり近世は地元の女性と再 [...]

高杉晋作(たかすぎしんさく) 投稿日2023年5月28日
【1839年~1867年】 長州藩士で吉田松陰の松下村塾に学び、幕府に抵抗するため奇兵隊を創設した人物です。幕府の第一回長州征討後は、 長州藩保守派から逃れるため太宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望 [...]

グラバー(ぐらばー) 投稿日2023年5月28日
【1838年~1911年】 イギリス商人で倒幕派に武器の販売なども行いますが、維新後は自分の会社の倒産を経験します。基本的に日本は好きだった様で、日本人女性と結婚し日本で終焉を迎えます。このグラバー [...]

中岡慎太郎(なかおかしんたろう) 投稿日2023年5月28日
【1838年~1867年】 土佐の志士で五卿に随い太宰府に入り、五卿の衛士として仕えながら薩長同盟を画策します。 そして1864年から約3年間、太宰府、長州、京都間を忙しく行き来し、 薩長の有力者や [...]

三条実美(さんじょうさねとみ) 投稿日2023年5月28日
【1837年~1891年】 長州派の公卿で「八月十八日の政変」で長州に逃れた七卿の内の一人でその中心人物です。 第一次長州征討で長州藩は幕府に屈したため、太宰府の延寿王院に移りますが、約三年を経て大 [...]

坂本龍馬(さかもとりょうま) 投稿日2023年5月28日
【1836年~1867年】 勝海舟が失脚し、1865年 神戸海軍操練所が閉鎖されると、龍馬は一旦、鹿児島に身を寄せます。 そして5月には太宰府を訪れ五卿と面談します。この時に五卿の一人、東久世通禧( [...]

宮崎車之助(みやざきしゃのすけ) 投稿日2023年5月28日
【1835年~1876年】 「秋月の乱」の中心的な人物ですが決起には消極的だったようです。豊津藩の反政府勢力と合流するため豊津に向いますが、 そこで乃木希典の指揮する小倉の歩兵第14連隊の攻撃を受け [...]

古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん) 投稿日2023年5月28日
【1833年~1869年】 筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継 [...]

早川勇(はやかわいさむ) 投稿日2023年5月28日
【1832年~1899年】 月形洗蔵と共に五卿の太宰府入りを実現し、薩摩と長州の仲を取持つため奔走します。 そして同じ大庄屋の出の中岡慎太郎とは強いつながりを持ち、西郷隆盛との会談を取持っています。 [...]

高場乱(たかばおさむ) 投稿日2023年5月28日
【1831年~1891年】 男子として育てられた男装の女医で、かつ教育者。金印の鑑定をした亀井南冥の学派の塾に学び、後に興志塾を起します。 「福岡の変」には塾生から多く者が参加しています。そして18 [...]

加藤司書(かとうししょ) 投稿日2023年5月28日
【1830年~1865年】 西洋諸国の介入を招く恐れのある国内対立を早期に収束させるため、 西郷隆盛と共に第一回長州征討軍解兵に尽力します。しかし一年後には藩内・佐幕派の台頭で「乙丑の獄」が起こり、 [...]

篠原泰之進(しのはらたいのしん) 投稿日2023年5月28日
【1828年~1911年】 筑後浮羽の出身で関東で攘夷活動に走ります。その後、伊東甲子太郎に従い京都にて新選組に加入しますが、2年と数ヶ月後には伊東ら同士と共に御陵衛士(ごりょうえじ)を創設し新選組 [...]

月形洗蔵(つきがたせんぞう) 投稿日2023年5月28日
【1828年~1865年】 儒学者の家に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 [...]

平野國臣(ひらのくにおみ) 投稿日2023年5月28日
【1828年~1864年】 朝廷や長州藩、薩摩藩に広い人脈を持った名の知れた倒幕勤皇の志士で、のちに「寺田屋事件」「生野の変」に関わります。 「禁門の変」の時に捕らわれていた京都六角獄で斬首され36 [...]

真木和泉(まきいずみ) 投稿日2023年5月28日
【1813年~1864年】 久留米藩の尊皇攘夷の志士で攘夷派の公卿に強い影響力を持ちますが、 「八月十八日の政変」で長州藩が京都を追われると長州派の七卿に下関まで同行します(「七卿落ち」)。 そして [...]

月照(げっしょう) 投稿日2023年5月28日
【1813年~1858年】 「安政の大獄」で幕府より追われる月照は西郷隆盛と共に薩摩に逃れようとします。 そして下関で西郷と別れた月照は筑前で野村望東尼の「平尾山荘」や太宰府の宿屋「松屋」に匿われま [...]

黒田長溥(くろだながひろ) 投稿日2023年5月28日
【1811年~1887年】 島津藩主の重豪(しげひで)の十三男で、黒田家に養子として入ります。 開明的な藩主で蘭学を取り入れ中洲には反射炉を建設するなどしています。 しかし1865年の「乙丑の獄」で [...]

野村望東尼(のむらもとに) 投稿日2023年5月28日
【1806年~1867年】 幕末の混乱期に、僧・月照や高杉晋作を自邸に匿います。乙丑の獄(いっちゅうのごく)では糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されますが、 高杉晋作の意を受けた福岡脱藩の志士の手で [...]

月形半平太って誰? (1919年) 投稿日2023年5月27日
-薩長同盟のもう一人の立役者、月形洗蔵- 「月様雨が」 「春雨じゃ濡れて参ろう」 月形半平太は大正時代にヒットした舞台劇「月形半平太」の主人公の名前です。この架空の志士のモデルは土佐の武市半平太ら [...]

勝海舟の黒田長溥・評 (1930年頃) 投稿日2023年5月27日
-蘭学の先駆だった福岡藩- 勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつ [...]

人参畑先生の事 (1877年) 投稿日2023年5月27日
-男装の女医・高場乱- 最近、テレビでは美形の女医さんが話題を振りまいているようですが、40年程前の九州では女性の医師はほぼ見受けることが無かった様な気がします。しかし最近では女性も医学界で活躍する [...]

新選組局長・近藤勇を狙った男 (1867年) 投稿日2023年5月27日
-筑後の柔術家・篠原泰之進- 1867年11月18日、新選組は隊より離脱した御陵衛士(ごりょうえじ)の頭取・伊東甲子太郎とその同志三名を京都油小路で騙まし討ちにしますが、この報復として御陵衛士の生き [...]

望東尼の姫島脱出 (1866年) 投稿日2023年5月27日
-高杉晋作の救出作戦- 1865年の乙丑の獄で望東尼は、糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されます。山荘に匿ってもらった過去のある高杉晋作はこれを知ると望東尼の救出を画策します。 1866年9月に晋 [...]

シーボルト(しーぼると) 投稿日2023年5月27日
【1796年~1886年】 1823年、長崎に来航した翌年に鳴滝塾を開き、患者の診察治療活動や集まった塾生に西洋医学、科学を教授します。 これにより鳴滝塾からは伊東玄朴、高野長英、二宮敬作、伊藤圭介 [...]

高山彦九郎(たかやまひこくろう) 投稿日2023年5月27日
【1747年~1793年】 江戸中期から後期にかけての草莽の勤皇家で「寛政の三奇人」のひとり。40代半ばで九州を遊歴し王政復古を説き、幕府を批判しますが幕府の圧力があったのか久留米に滞在中に自刃し最 [...]

亀井南冥(かめいなんめい) 投稿日2023年5月27日
【1743年~1814年】 大阪で儒学や医学を学び1785年に福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長となります。 この頃に志賀島で発見された金印を漢の光武帝より奴国王へ送られた「漢委奴国王印」 [...]

貝原東軒(かいばらとうけん) 投稿日2023年5月27日
【1651年~1713年】 秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも [...]

貝原益軒(かいばらえきけん) 投稿日2023年5月27日
【1630年~1714年】 福岡藩の儒学者で、学才は多岐に渡りシーボルトからは「日本のアリストテレス」と評価されたという逸話もあります。 このページでも度々参照している「筑前国続風土記」の他「養生訓 [...]

宮崎安貞(みやざきやすさだ) 投稿日2023年5月27日
【1623年~1697年】 広島の出身で一時、福岡藩へ仕えますが5年ほどで自ら浪人し、周船寺村で農業の研究に没頭します。 そして晩年には名著「農業全書」を貝原益軒の協力で出版します。この書は施政者や [...]

黒田長興(くろだながおき) 投稿日2023年5月27日
【1610年~1665年】 黒田長政は後継者に三男の長興を立てようとしますが、栗山大善ら家臣団の猛烈な反対に合い諦め、長男・忠之を後継者とします。 ただ忠之のみに黒田藩を託すことに不安を抱いた長政は [...]

黒田忠之(くろだただゆき) 投稿日2023年5月27日
【1602年~1654年】 行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗 [...]

栗山大善(くりやまだいぜん) 投稿日2023年5月26日
【1591年~1652年】 黒田官兵衛の信頼の厚かった栗山利安の息子。 栗山大善は第二代藩主の座に黒田長政の長男の忠之を就けますが、 その後、何かと行動に問題のある藩主・忠之との間に軋轢を生じ収拾不 [...]

小早川秀秋(こばやかわひであき) 投稿日2023年5月25日
【1582年~1602年】 豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわ [...]

毛利勝永(もうりかつなが) 投稿日2023年5月25日
【1578年~1615年】 毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間 [...]

黒田長政(くろだながまさ) 投稿日2023年5月25日
【1568年~1623年】 豊臣秀吉の参謀・黒田官兵衛(如水)の長男として生まれます。十歳の頃に父・官兵衛の謀反が疑われ織田信長に殺されかけますが、 秀吉の部下・竹中半兵衛に匿われ命を取り留めます。 [...]

立花宗茂(たちばなむねしげ) 投稿日2023年5月24日
【1567年~1643年】 高橋紹運の長男として生まれ後に嫡男のない立花道雪に請われて養子となり立花家を継ぐことになります。 島津軍の筑前侵攻では父・紹運が岩屋城で玉砕するものの、宗茂は香椎北東の立 [...]

後藤又兵衛(ごとうまたべえ) 投稿日2023年5月24日
【1560年~1615年】 関ヶ原の戦いなどで名を上げ黒田家を代表する武将となりますが、黒田如水の没後、藩主・長政とそりが合わず福岡藩を出奔します。 又兵衛の武名を惜しむ声は多かったもの黒田家に遠慮 [...]

母里太兵衛(ぼりたへえ) 投稿日2023年5月24日
【1556年~1615年】 黒田家の武将。「黒田節」は太兵衛が大杯の酒を呑み干し福島正則より名槍「日本号」を受け取った出来事を唄にしたものです。現在「日本号」は福岡市博物館に所蔵されおり、母里太兵衛 [...]

筑紫広門(ちくしひろかど) 投稿日2023年5月23日
【1556年~1623年】 筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と [...]

栗山利安(くりやまとしやす) 投稿日2023年5月23日
【1551年~1631年】 黒田官兵衛が若い時より付き従った人物で黒田家家臣団の中心武将です。 有岡城に官兵衛が幽閉されると出入りの商人に紛れ潜入し囚われの主君に面会を果たし、 有岡城落城の際は一番 [...]

秋月種実(あきづきたねざね) 投稿日2023年5月23日
【1548年~1596年】 父親の秋月文種を大友宗麟の配下、戸次鑑連(べっきあきつら)に討たれたため毛利元就の元に身を寄せます。 そして種実は元就の協力を得てを秋月に帰還し大友氏へ対し抵抗の狼煙を挙 [...]

七卿落ちではなく五卿落ち? (1863年) 投稿日2023年5月23日
-五卿のその後- 1863年「8月18日の政変」で会津薩摩の両藩に長州藩が京都を追われると、攘夷派の三条実美ら七卿も長州に落ち延びました。これが世に言う「七卿落ち」です。その後、七卿の一人、澤宣嘉は [...]

高橋紹運(たかはしじょううん) 投稿日2023年5月22日
【1548年~1586年】 反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきさと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の [...]

黒田孝高(くろだよしたか) 投稿日2023年5月22日
【1546年~1604年】 荒木村重が信長へ謀反を起こし有岡城(伊丹)に籠もると、黒田孝高(官兵衛)は村重の行動を思いとどめさせるため有岡城に入りますが、 そこで1年もの間 拘束されてしまいます。救 [...]

豊臣秀吉(とよとみひでよし) 投稿日2023年5月22日
【1537年~1598年】 織田信長の部下として頭角を現した秀吉は、信長の死後その領地をほぼ継承し、四国を手中に収めると次に九州平定に着手します。 そして1587年に島津義久を降すと筑前へ戻り、「博 [...]

男装の漢詩人・原采蘋 (江戸時代末期) 投稿日2023年5月22日
-酒豪の女流詩人- 福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ [...]

自由の気風の「亀井塾」 (1762年) 投稿日2023年5月22日
-昭陽先生と生徒たち- 「漢委奴国王」の金印を鑑定した父・亀井南冥(なんめい)の後を継ぎ、私塾「亀井塾」を起した昭陽先生はある日、近隣・若者組の神事用・幟(のぼり)の揮毫(きごう)を快く引き受けます [...]

益軒は損軒だった! (1700年) 投稿日2023年5月22日
-益軒先生の号について- 益軒先生は若き頃に藩主・黒田忠之より怒りを買い、浪人生活を送ります。数年後に許され帰藩しそれから44年間、黒田藩に仕え「黒田家譜」を著し、また藩内の教育や施政に携わりますが [...]

小早川隆景(こばやかわたかかげ) 投稿日2023年5月21日
【1533年~1597年】 毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良 [...]

大友宗麟(おおともそうりん) 投稿日2023年5月21日
【1530年~1587年】 豊後の守護大名で、最盛期には豊前、筑前、筑後から肥後の北部までを手中に収めます。 政治的な駆引きや武将としての能力は高かったようですが、 性格的に強引な面があったのか、配 [...]

高橋鑑種(たかはしあきたね) 投稿日2023年5月21日
【1529年~1579年】 一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 [...]

立花道雪(たちばなどうせつ) 投稿日2023年5月21日
【1513年~1585年】 大友氏の猛将で、反旗を翻した立花鑑載(たちばなあきとし)を降して立花山城に入場するまでは戸次鑑連(べっきあきつら)の名で知られています。 毛利氏と連携した筑前の秋月、高橋 [...]

毛利元就(もうりもとなり) 投稿日2023年5月21日
【1497年~1571年】 主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与 [...]

一夜漬 幕末・維新 投稿日2023年5月21日
【幕末・維新】-勤皇の志士たちと「秋月の乱」- 幕末期には、真木和泉や平野國臣などの勤皇の志士が登場します。二人は1862年4月、薩摩藩の「寺田屋事件」に関わり捕らえられ、それぞれ久留米藩、福岡藩へ [...]

一夜漬 江戸 投稿日2023年5月21日
【江戸時代】-「黒田騒動」と名著の刊行- 二代藩主の黒田忠之(ただゆき)は自分を藩主の座に就けた栗山大善と不仲となり関係が修復不可能となると、遂に栗山大善より幕府へ「謀反の意思あり」と訴えられます。 [...]

一夜漬 戦国 投稿日2023年5月21日
【戦国時代】-少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」- 筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばし [...]

一夜漬 南北朝・室町 投稿日2023年5月21日
【南北朝・室町】-「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ- 1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、肥後より攻め [...]

一夜漬 鎌倉 投稿日2023年5月21日
【鎌倉時代】-二度の元寇と元弘の乱- この時代には鎌倉幕府の思惑により武藤氏が大宰少弐に任命され赴任します。武藤氏は官位の少弐を名乗り、平安時代の原田氏に代わり、筑紫の治安を守ることになります。ただ鎌 [...]

一夜漬 平安 投稿日2023年5月21日
【平安時代】-菅原道真左遷と藤原純友の乱- 901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。遺体は大 [...]

一夜漬 奈良 投稿日2023年5月21日
【奈良時代】-権力闘争と鑑真の来日- 奈良時代には大和政権内での主導権争いで派閥間の対立が起こります。 時の権力者・藤原不比等がこの世を去るとその子息の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が長屋王を死に追 [...]

一夜漬 飛鳥 投稿日2023年5月21日
【飛鳥時代】-白村江の戦いから大宰府の誕生- 645年「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏を倒し政権を奪取した中大兄皇子は 663年、新羅・唐の挟撃にあい滅亡した百済の復興を支援するため朝鮮に軍を派遣 [...]

一夜漬 弥生・古墳 投稿日2023年5月21日
【弥生・古墳時代】-中国文献に記される奴国と三国朝鮮へ- 西暦57年、中国後漢の皇帝より奴国王に金印が送られますが、これが文献に残る初めての福岡に関する出来事です。 それから約200年後に書かれた三国 [...]

懐良親王(かねながしんのう) 投稿日2023年5月21日
【1329年~1383年】 後醍醐天皇の皇子で、薩摩から九州へ上陸し南朝側の菊池武光に迎えられ肥後北部の菊池に征西府を開きます。 その後、菊池氏の武力を背景に1361年に大宰府を攻略し九州をほぼ制圧 [...]

今川了俊(いまがわりょうしゅん) 投稿日2023年5月21日
【1326年~1420年】 渋川氏に代わり九州探題に命じられると長門の大内氏の協力を得て九州に上陸します。 そして菊池武光を筑前より追い落とし12年ぶりに大宰府を南朝勢力より奪い返します。 しかし九 [...]

菊池武光(きくちたけみつ) 投稿日2023年5月20日
【1319年~1373年】 菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けた [...]

一色範氏(いっしきのりうじ) 投稿日2023年5月20日
【?~1369年】 「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この [...]

菊池武敏(きくちたけとし) 投稿日2023年5月20日
【?~1341年】 菊池武時の九男。京都より落ちてきた足利尊氏が九州に上陸した情報を掴むと、阿蘇惟直と共に肥後より攻め上ります。 そして少弐氏の有智山城を攻め落とし父・武時の仇、少弐貞経を自害させま [...]

阿蘇惟直(あそこれなお) 投稿日2023年5月20日
【?~1336年】 足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近 [...]

足利尊氏(あしかがたかうじ) 投稿日2023年5月20日
【1294年~1372年】 後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 これを知った菊池武敏・阿蘇惟直は肥後より北上し尊氏打倒を目指しますが、尊氏は [...]

少弐頼尚(しょうによりなお) 投稿日2023年5月20日
【1294年~1372年】 少弐貞経の嫡男。九州に落ちた足利尊氏を下関で出迎え京の戦で敗れた尊氏を励ましたといわれます。 そして父・少弐貞経を討った菊池武敏を尊氏と共に「多々良浜の戦い」で破り、肥後 [...]

菊池武時(きくちたけとき) 投稿日2023年5月19日
【1292年~1333年】 鎮西探題・北条英時の呼びかけで博多に参陣した肥後の菊池武時はこれを好機と捉え鎮西探題打倒の旗を揚げ北条英時の探題へ討ち入ります。 しかし探題打倒の密約を交わしていた少弐、 [...]

島津貞久(しまづさだひさ) 投稿日2023年5月19日
【1269年~1363年】 「元弘の乱」で少弐貞経、大友貞宗と共に鎮西探題・北条英時を攻め滅し、「多々良浜の戦い」では足利軍に属して戦います。 島津氏は少弐氏、大友氏と共に鎌倉時代に守護を命じられ少 [...]

大友貞宗(おおともさだむね) 投稿日2023年5月19日
【?~1334年】 「元弘の乱」で北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させますが、 その2ヵ月後には少弐貞経と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。そしてその7ヶ [...]

少弐貞経(しょうにさだつね) 投稿日2023年5月19日
【1272年~1336年】 「元弘の乱」では菊池武時の決起要請の使者を切り捨て、翌日には北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させます。 そして、その2ヵ月後には大友貞宗と共に北条英 [...]

北条英時(ほうじょうひでとき) 投稿日2023年5月19日
【?~1333年】 最後の鎮西探題で足利尊氏の正妻・登子の兄。「元弘の乱」で動揺する九州の御家人を博多の鎮西探題に呼び集め収拾に務めようとしますが、 博多に入った肥後の菊池武時は鎮西探題打倒を目指し [...]

草野経永(くさのつねなが) 投稿日2023年5月19日
【?~?】 筑後の御家人で父・草野永綱(くさのながつな)と共に「弘安の役」に参陣します。 博多湾に悠々と停泊する元の船団を目の当たりにした経永は「何とか一泡吹かしてやろう」 と2艘の小船に郎党を分乗 [...]

河野通有(こうのみちあり) 投稿日2023年5月19日
【1250年~1311年】 伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判にな [...]

竹崎季長(たけざきすえなが) 投稿日2023年5月19日
【1246年~?(鎌倉時代)】 肥後の竹崎季長は文永・弘安の役に参陣し奮戦します。 戦後は「蒙古襲来絵詞」を残しますが、現在ではこの絵巻が戦役の重要な資料となっています。 [...]

少弐景資(しょうにかげすけ) 投稿日2023年5月18日
【?~1285年(鎌倉時代)】 少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します [...]

安達盛宗(あだちもりむね) 投稿日2023年5月18日
【?~1285年(鎌倉時代)】 鎌倉の「霜月騒動」で自害した安達泰盛の子で「弘安の役」の戦後処理を行なっていましたが、 「霜月騒動」の余波を受け少弐経資に博多で討たれたとも、少弐景資の岩門城で討死し [...]

少弐経資(しょうにつねすけ) 投稿日2023年5月18日
【1225年~1292年(鎌倉時代)】 少弐氏の嫡男で元寇では弟の景資と共に奮戦します。「弘安の役」では博多湾から壱岐へ移動した元軍を追撃し壱岐から駆逐しますが、 この戦いで父・資能と長男・資時を亡 [...]

明史・秀吉伝 (1592年) 投稿日2023年5月18日
-中国から見た豊臣秀吉像- 中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。 日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが [...]

野上一閑と三奈木弥平次 (1581年) 投稿日2023年5月18日
-原鶴の一騎打ち- 大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道 [...]

筑前にも超能力者がいた? (文明年間) 投稿日2023年5月18日
-筑前に存在した幻術師・火亂- 「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持 [...]

安徳天皇(あんとくてんのう) 投稿日2023年5月18日
【1180年~1185年(平安時代)】 木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。しかし、大宰府も安住の地ではなく豊後の緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 そ [...]

山鹿秀遠(やまがひでとう) 投稿日2023年5月18日
【?年~1185年?(平安時代)】 豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが [...]

按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ) 投稿日2023年5月18日
【?年~?年(平安時代)】 「壇ノ浦の戦い」で平家が敗れると安徳天皇を抱いて入水したといわれる女性で、鎌倉軍の兵士に引き上げられます。 時期は不明ですが伊勢はその後、九州筑後へ移り、筑後川の辺(ほと [...]

原田種直(はるだたねなお) 投稿日2023年5月18日
【?年~?年(平安時代)】 都落ちした安徳天皇と平家一門を筑紫に迎え入れますが、豊後の兵が攻め寄せて来たため平家一門は着の身着のまま北に向かいます。種直はその後を追い、遠賀川河口の山鹿まで護衛してい [...]

平貞能(たいらさだよし) 投稿日2023年5月18日
【?年~?年(平安時代)】 鎮西反乱が起こると1181年、筑紫に派遣されその翌年には乱を平定し一旦帰還しますが、都は木曽義仲の軍が迫り大混乱の中にありました。貞能は「都に留まるべき」と主張しますが、 [...]

源為朝(みなもとためとも) 投稿日2023年5月18日
【1139年~1170年(平安時代)】 父親の源為義より勘当され九州にやって来た為朝は自ら鎮西八郎を名乗ります。 「鎮西」とは九州の治安を守る機関またはその統率者のことで、「八郎」は源為義の八男を表 [...]

平頼盛(たいらよりもり) 投稿日2023年5月18日
【1133年~1186年(平安時代)】 平清盛の異母弟で平治の乱に活躍し、1166年大宰大弐に任命されます。博多に人口港「袖の浦」が平清盛の指示によりが建造されたといわれていますが、 頼盛もこの港の [...]

日本国王・良懐とは誰? (1370年) 投稿日2023年5月16日
-明の抗議に応対した親王- 時は南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)は菊池武光の支援を得て1361年に大宰府を奪い、九州の北朝勢力をほぼ制圧します。この懐良親王、菊池武光の活 [...]

落武者尊氏、筑前で復活! (1336年) 投稿日2023年5月16日
-多々良浜の戦いは多勢に無勢?- 後醍醐天皇軍との戦いで形勢不利となった足利尊氏は一旦京都から落ち 1336年2月下旬に九州に入ります。しかし、それも束の間3月2日には肥後から攻め上ってきた天皇方の [...]

藤原隆家(ふじわらたかいえ) 投稿日2023年5月16日
【979年~1044年(平安時代)】 平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代 [...]

藤原純友(ふじわらすみとも) 投稿日2023年5月16日
【893年~941年(平安時代)】 瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った藤原純友の軍は本拠地の伊予を朝廷軍に制圧されると、 筑紫に逃れ大宰府を襲い観世音寺で略奪を行います。 しかし博多湾で朝廷軍に破れ [...]

大蔵春実(おおくらはるざね) 投稿日2023年5月16日
【?年~?年(平安時代)】 前漢高祖・劉邦、後漢光武帝・劉秀の血を受け継ぐといわれる人物で朝廷より「藤原純友の乱」の平定に派遣されます。 乱の平定後は大宰府南方の原田に屋敷を置き大宰大監(だざいだい [...]

小野好古(おのよしふる) 投稿日2023年5月16日
【884年~968年(平安時代)】 伊予の本拠地を奪われた藤原純友が大宰府を襲うと朝廷から平定を命じられた小野好古は九州に入り博多湾で純友軍と戦い撃破します。 櫛田神社に祀られる三神の内、素盞嗚大神 [...]

味酒安行(うまさかやすゆき) 投稿日2023年5月16日
【?年~?年(平安時代)】 味酒安行は菅原道真の配流に従った人物です。道真の死去後は遺骸を牛車に乗せて安楽寺へ運び埋葬し、翌年には祠廟を創建します。 この味酒安行が立てた祠廟が後の太宰府天満宮で、現 [...]

菅原道真(すがわらみちざね) 投稿日2023年5月16日
【845年~903年(平安時代)】 菅原道真は優れた才能で朝廷での位を次々に進めますが、藤原時平の画策により大宰府へ配流されます。 そして翌年には京都より伴った幼い子供が亡くなり、京都からは妻の死の [...]

小野岑守(おのみねもり) 投稿日2023年5月15日
【778年~830年(平安時代)】 平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れ [...]

「刀伊の海賊」を撃退した男 (1019年) 投稿日2023年5月14日
-暴れん坊中納言・藤原隆家- 「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。 その人の名を藤 [...]

上杉鷹山の祖は筑前人? (941年) 投稿日2023年5月14日
-大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す- 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらない [...]

「白村江の戦い」の帰還兵・博麻 (690年) 投稿日2023年5月14日
-自らを売った兵士- 大伴部博麻(おおともべのはかま)は現在の八女市上陽町の出身で663年の「白村江の戦い」に出征し、唐軍の捕虜となります。 翌年には土師富杼(はじのほど)ら4名が唐人の計画を朝廷に [...]

佐伯常人(さえきつねひと) 投稿日2023年5月14日
【?~?(奈良時代)】 奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引 [...]

藤原広嗣(ふじわらひろつぐ) 投稿日2023年5月14日
【?~740年(奈良時代)】 藤原広嗣は藤原鎌足の曾孫に当たります。 当時の朝廷内で有力者だった父親や伯叔父たち(藤原四兄弟)が天然痘で次々に死去すると脱藤原政権を目指す橘諸兄が台頭します。 諸兄は [...]

吉備真備(きびまきび) 投稿日2023年5月14日
【695年~775年(奈良時代)】 奈良時代に安倍仲麻呂や玄昉と共に唐に派遣された留学生です。時の権力者の橘諸兄(たちばなもろえ)の元で改革を進めたものと思われますが、しかし何があったのか突然、筑前 [...]

玄昉(げんぼう) 投稿日2023年5月14日
【?~746年(奈良時代)】 藤原氏の有力者たちが当時に流行した天然痘で次々に死去すると橘諸兄(たちばなもろえ)が権力を担い脱藤原氏の体制を目指します。 唐留学僧・玄昉(げんぼう)はそのような状況で [...]

鑑真和尚(がんじんわじょう) 投稿日2023年5月14日
【688年~763年(奈良時代)】 5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。 [...]

道君首名(みちのきみおびとな) 投稿日2023年5月14日
【662年~718年(奈良時代)】 朝廷の官僚として「大宝律令」の選定に参加し、51歳の頃に新羅大使として1年ほど赴任します。 そして帰国した首名は筑後や肥後の施政を任され、果物や野菜の栽培、畜産を [...]

佐伯連男(さえきのむらじおとこ) 投稿日2023年5月14日
【?~?(飛鳥時代)】 「壬申の乱(672年)」で大友皇子の意を受け筑紫に派遣され、筑紫率の栗隈王に援軍を出すよう命令した人物です。栗隈王がこれを拒否したため佐伯連男は栗隈王を斬ろうとしますが、護衛 [...]

栗隈王(くるくまおう) 投稿日2023年5月14日
【?~676年(飛鳥時代)】 「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑 [...]

中大兄皇子(なかのおうえのおうじ) 投稿日2023年5月14日
【626年~672年(飛鳥時代)】 645年の「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我入鹿を暗殺し、政権を掌握します。 その後、新羅・唐の連合軍に百済が滅ぼされると百済復興の軍を起こしますが、日本軍は「白 [...]

斉明天皇(さいめいてんのう) 投稿日2023年5月14日
【?~530年(飛鳥時代)】 中大兄皇子の母親で重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇です。 二代前の皇極天皇の時に皇子の蘇我入鹿暗殺を目の当りにし退位を決意しますが、 再び斉明 [...]

近江毛野(おおみけな) 投稿日2023年5月14日
【?~530年(古墳時代)】 継体天皇の命で近江毛野は新羅に奪われた地域を取り戻すため任那へ向かいますが、 その途中の九州で国造(くにのみやっこ)の磐井へ出兵の命令を伝えます。磐井はこの命令を拒否し [...]

磐井(いわい) 投稿日2023年5月14日
【?~528年(古墳時代)】 朝鮮での勢力挽回を目指す大和政権から、朝鮮半島への戦役負担命令を受けた国造(くにのみやっこ)磐井はこれに反発し乱を起こします。 しかし継体天皇の命で派遣された物部麁鹿火 [...]

物部麁鹿火(もののべあらかい) 投稿日2023年5月14日
【?~536年(古墳時代)】 任那四県割譲の承諾を百済の使者に伝える役目を命ぜられますが、妻の強い制止に従い病を理由にその役を断ります。 「磐井の乱」では継体天皇に命じられ筑紫に出兵し三井郡(みいの [...]

大伴金村(おおともかなむら) 投稿日2023年5月14日
【?~?(古墳時代)】 西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦し [...]

神功皇后(じんぐうこうごう) 投稿日2023年5月14日
【?~389年頃(古墳時代)】 仲哀天皇の后で朝鮮半島へ出兵し自らも向かいます。主に九州北部中心で活動した人物で、 その一帯には皇后を祭る神社・史跡や伝説が数多く残ります。仲哀天皇と同じく架空の人物 [...]

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 投稿日2023年5月14日
【?~362年(古墳時代)】 日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子で熊襲征伐に意欲を燃やしますが橿日宮で突然崩御します。 崩御の理由は后の神功皇后の神託に従わなかったためとも、熊襲の矢に当たったた [...]

武内宿禰(たけのうちすくね) 投稿日2023年5月14日
【?~?(古墳時代)】 日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたこと [...]

景行天皇(けいこうてんのう) 投稿日2023年5月14日
【西暦300年前後?(古墳時代)】 崇神天皇の孫で、橿日宮で崩御した仲哀天皇の祖父にあたります。 皇位に就いた当時、出産時に夫は子供が生まれるまで臼を担いで家のまわりを廻る風習があり、天皇も皇后が出 [...]

卑弥呼(ひみこ) 投稿日2023年5月14日
【西暦200年代中頃(弥生時代)】 倭国大乱を収束に向かわせた邪馬台国の女王。現在では邪馬台国所在地論争で畿内説に押されている 九州説ですが、福岡県内にも比定地として甘木、大和(瀬高)などが挙げられ [...]

大夫(たゆう) 投稿日2023年5月14日
【西暦57年頃(弥生時代)】 西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称 [...]

奴国王(なこくおう) 投稿日2023年5月14日
【西暦57年頃(弥生時代)】 倭国の最南端にあった国の王で、西暦57年に「大夫(だゆう)」という役職の使者を後漢に派遣します。 これに対し当時の皇帝であった光武帝は金印を送りますが、これが江戸時代に [...]

巌流島は豊前領だった! (江戸時代) 投稿日2023年5月13日
-現在の島の住人は?- 宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島は山口県の観光名所として有名ですが、江戸時代は豊前小倉藩の領地だったということです。これは「関ヶ原の戦い」で敗れ徳川家より本州の西の片隅 [...]

筑前のUMA (1809年) 投稿日2023年5月13日
-放火し味噌を食い荒らす奇獣「だつ」- 「金印」や「日本号」を所蔵する福岡市博物館には明治初期に書かれた「旧稀集(きゅうきしゅう)」という書物が所蔵されています。 この本は博多中洲の庄林半助という箱 [...]

筑後川の鵜飼の事 (明暦以前) 投稿日2023年5月13日
-昔は瓢箪で鵜飼?- 江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの [...]

万葉歌の意外な解釈 (1703年) 投稿日2023年5月12日
-御笠の森に関する逸話- 思はぬをおもふといはば大野なる美笠の森の神ししるらん この歌は奈良時代に大宰大監(筑紫の警察長官)であった大伴百代(おおともももよ)の詠んだ万葉歌で、一般的に次のような解 [...]

なぬ!!「ういろう」の元祖は? (室町時代) 投稿日2023年5月11日
-妙楽寺「ういろう」の碑- 「ういろう」の本場と言えば名古屋、小田原、京都、山口、九州では宮崎などいろんな説があるようですが、なんと「ういろう」の元祖は博多の妙楽寺にありました。妙楽寺の境内には「う [...]

「大刀洗」地名の由来 (1358年) 投稿日2023年5月11日
-「関ヶ原」に並ぶ大合戦「筑後川の戦い」- 1358年「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び称せられる「筑後川の戦い」が起こり、少弐、大友を中心とする北朝軍と懐良親王、菊池を中心とする南朝軍が筑後川 [...]

文永の役に神風は吹いたか? (1274年) 投稿日2023年5月11日
-元軍が消えた理由は?- 1274年10月19日に博多湾に押し寄せた元軍は10月20日に百道、博多、箱崎と各地で暴れまわりますが、翌21日には博多湾より消え去ります。 この「文永の役」での元軍の撤退 [...]

博多の人魚伝説 (1222年) 投稿日2023年5月9日
-消えてなくなった人魚塚- 博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。 鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が [...]

太宰府天満宮の由来 (903年) 投稿日2023年5月9日
-天満宮の牛の像はなぜ座り込んでるの?- 大宰府へ左遷された2年後の903年、道真公は失意の中、病のため死去します。門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が遺骸を牛車に乗せて運んでいると、車を曳く牛が [...]

もう一つの都 (古墳~奈良) 投稿日2023年5月8日
-豊津とその周辺の史跡-     豊前国府中門跡 福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・ [...]

起きたら家が動いてた!? (687年) 投稿日2023年5月8日
-筑紫の大地震- 天武天皇の時代の687年12月ある夜半、筑紫で大地震が起こります。地面には6m程の幅で1km近くに渡って亀裂が入り、多くの民家が被災しました。 丘の上にあったある農家は斜面が崩れ、 [...]

福岡にも長城があった! (664年) 投稿日2023年5月8日
-グーグルアースでも見れる「水城」跡- 664年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、唐、新羅の連合軍の反撃となる九州進攻に備え、博多の那の津にあった大宰府(官家)を現在の位置に移し、その防衛線として [...]

蜷城(ひなしろ)の由来 (300年代) 投稿日2023年5月8日
-カワニナの城と二つの玉- 朝倉市林田にある美奈宜(みなぎ)神社にはその地域の呼び名「蜷城(ひなしろ)」の由来が伝えられています。 大昔、ここはよく肥えた豊かな地でしたが、古処山に羽白熊鷲と言う者 [...]

漢委奴国王印の鈕は駱駝? (57年) 投稿日2023年5月8日
-金印の取っ手は蛇ではなかった- 金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気が [...]

徐福伝説は福岡にもあった? (BC210年頃) 投稿日2023年5月7日
-天山(あまやま)の童男丱女岩- 徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かうが、その後、徐福は広い土地を得て王とな [...]

親魏倭王印はどこにある? 投稿日2023年5月5日
-もう一つの金印が発見されれば!!- 西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の [...]

「漢委奴国王」の読み方は? 投稿日2023年5月5日
-「倭」は「委」から生まれた新漢字?- 金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも [...]

金印の「委」は「倭」の略字? 投稿日2023年5月5日
-委字は倭字を略したる者と相見えん!?- 「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思わ [...]

「筑前宮崎村」はどこにある? 投稿日2023年5月5日
-福岡と熊本の宮崎兄弟は同族?- 福岡の宮崎兄弟といえば「秋月の乱」に中心人物として参加した宮崎車之助、今村百八郎、宮崎哲之助の三兄弟の事ですが、熊本にも明治期に宮崎兄弟が登場します。 その次男の宮 [...]

福岡城に天守はあったか? 投稿日2023年5月5日
-福岡の歴史に登場しない幻の天守閣- 以前は福岡城に天守閣はなかったいうのが定説だったようですが、最近になって細川家の古文書より「黒田長政が天守閣を取り壊すらしい」といった文書が見つかったため、その [...]

金印はなぜ志賀島で…?その弐 投稿日2023年5月5日
-大夫の思惑は?- 「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって [...]

金印はなぜ志賀島で発見された? 投稿日2023年5月5日
-奴国王の思惑は?- 江戸時代より金印には贋物説があるのですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が [...]

「朝倉橘広庭宮」はどこ? 投稿日2023年5月5日
-斉明天皇崩御の地- 中大兄皇子の母、斉明天皇は百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」(福岡市南区三宅)に滞在します。 5月には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろ [...]

「隋書」の秦王国はどこ? 投稿日2023年5月5日
-筑紫の東にあった中華風な国とは?- 隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されて [...]

煬帝の返書の行方は? 投稿日2023年5月5日
-小野妹子、返書の提出できず!- 中国の南北朝の時代の混乱が終わりを告げ、隋が中国をほぼ統一すると大和朝廷は遣隋使を派遣します。 遣隋使の船は出発時も帰還の際も那の大津(博多より2㎞ほど西方)を寄港 [...]

近江毛野の役職は? 投稿日2023年5月5日
-「磐井の乱」の近江毛野は将軍それとも使者?- 527年、継体天皇の意を受けた近江毛野(おうみのけな)は新羅と戦うため兵6万を率い任那に向かいますが、途中の九州で国造の磐井が乱を起こしこれを阻みます [...]

宇美町は不彌国? 投稿日2023年5月5日
-「日本書紀」の宇美町の地名由来- 「邪馬台国はどこ?」でも書いたように「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが [...]

神功皇后伝説は伝説? 投稿日2023年5月5日
-朝鮮半島への進出- 仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したこ [...]

狗奴国は「熊野」?「球磨」? 投稿日2023年5月5日
-卑弥呼に属せずの「狗奴国」- 狗奴国(くなこく)は直接、福岡に関係ありませんが、「狗奴国=熊襲」の場合は間接的に関係してきます。 魏志倭人伝に記載される邪馬台国の敵国「狗奴国」は、熊野国(和歌山県 [...]

卑弥呼は誰? 投稿日2023年5月5日
-百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?- 「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。   「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく [...]

邪馬台国はどこ? 投稿日2023年5月5日
-魏志倭人伝の謎- 皆さんよくご存知の「三国志」には、「魏書」(曹操の起てた国の史書)という巻がありその中の「東夷伝」のまたその中の「倭人の条」に、邪馬台国までの道筋が記載されています。この「倭人の [...]

【記想録】麻生家信の事 投稿日2023年5月3日
筑前国続風土記の古城古戦場三「内藤陣山」には現在の北九州市一帯に勢力を張った麻生氏の嫡男・麻生家信の事が次の通り書かれています。 或る時、秘蔵の名馬、絆綱(はなずな)をはり切、城中より敵陣に駆入むとす [...]

【記想録】二天記・巌流島の戦い 投稿日2023年4月30日
日高まるまで武蔵、寝て起きず。 宿の亭主は起きてこない武蔵を心配して「辰の刻になりましたが・・・」と伝えます。そこへ小倉より催促の飛脚が来ます。 舟渡りの事、時刻引き延ばしこれ無き様に参るべし。小次郎 [...]

【記想録】七年一変の説 投稿日2023年4月30日
ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。 『新訂海舟座談』 [...本文へ] [...]

【記想録】勝先生は殺生を好まず 投稿日2023年4月29日
害をしない鳥が自分の山で面白く遊んでいるのをむやみにぶち殺して、何がおもしろいのだエ、こっちは長崎で銃猟に誘われて出たが、いつでもねらいをはずして、一羽もころしたことはなかったヨ。 『新訂海舟座談』  [...]

【記想録】当に人情を斟酌し 投稿日2023年4月23日
政(まつりごと)を為す者は但(ただ)当(まさ)に人情を斟酌(しんしゃく)し之の操縦を為す。之を禁不禁の間に置き、其れを過甚(かじん)に至らざらしむ。是(これ)も亦(また)時の政然(しかり)りと為す。  [...]

【記想録】武蔵と伊織の出会い 投稿日2023年4月22日
武蔵が出羽を旅していた時の事、正法寺原辺りでドジョウを桶に入れた十三四の少年と出会います。空腹の武蔵は、そのドジョウを何匹か所望するも、少年は笑って桶ごと武蔵に渡し去って行きました 『二天記』 [.. [...]

【記想録】勝と伊藤博文 投稿日2023年4月13日
伊藤さんは、始めチョイチョイお出でしたが、何でしたか、中ゴロから、フイと疎遠におなりでした。それで、伊藤サンのお出のうちは、枢密へのお出も少ないというようなワケで、「己(おれ)の事を、ホラフキだと言う [...]

【記想録】能く人を容れる者にして 投稿日2023年3月24日
能(よ)く人を容(い)るる者にして、而(しか)る後、以て人を責むべし。人も亦(また)其(その)の責を受く。人を容るること能(あた)わざる者は人を責むること能わず。人も亦其の責を受けず。 『言志録』 [ [...]

【記想録】禍は免るること能わず 投稿日2023年3月21日
数有るの禍(わざわい)は竟(つい)免るること能(あた)わず。 『言志録』 [...] [...]

【記想録】苦は楽の種、楽は苦の種 投稿日2023年3月11日
苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。 水戸光圀の言葉とする書籍もありますが、原典は不明です。 [...] [...]

二卿事件-久留米藩難- 投稿日2021年12月18日
関係者の方から「二卿事件-久留米藩難-」の記事にある小河真文(おがわまさふみ)の読み違いのある事をご指摘をいただきました。そのため読みを「おがわまさふみ」から「おごうまふみ」に訂正させていただきました [...]

原鶴温泉の歴史 投稿日2021年4月19日
原 鶴 ~県内有数の出湯の里~ 温泉と言えば、県内有数の名を馳せる原鶴温泉が志波に在る。「杷木町史」によれば、原鶴温泉のほとんどが単純温泉アルカリ温泉である。原鶴は、火山帯から離れていることから、非 [...]

最後の仇討 (1880年) 投稿日2021年4月18日
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治 [...]

井上伝の胸像 投稿日2021年4月15日
久留米絣の開発者、井上伝の胸像です。この像は近代産業の担い手となった著名人とともに久留米・五穀神社の東側に立っています。 絣とは織る前に糸の一部を染め、その染まった部分と染まっていない部分の交わり方で [...]

羽白熊鷲の碑 投稿日2021年3月30日
仲哀天皇御代 木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり其の長を羽白熊鷲という 荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す 神功皇后 新羅征討の途次橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣 [...]

臼井六郎の叔父・八坂甚八 投稿日2021年3月29日
八坂甚八は黒船来航の年に鳥栖で生まれます。明治期に財力を元手に運送業で事業を起こし、九州鉄道の分岐点を鳥栖駅にすることにも奔走し敷地の提供も行います。この様に地域発展に尽くした甚八はその後に国会議員に [...]

吉塚の由来 投稿日2021年3月28日
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に [...]

マイナーチェンジ完了しました 投稿日2020年9月3日
マイナーチェンジを行い、記事の表示を一覧表示から個別表示に変更しました。 [...]

野村望東尼終焉の宅の碑 投稿日2020年8月4日
史跡 野村望東尼終焉の宅 望東尼は福岡の歌人 激動する幕末志士のかげにあって活躍した女流勤王家である 薩長の連合が成り 討幕軍が三田尻から出陣しようとするとき 寄寓先山口から防府に来て 防府天満宮に七 [...]

羽犬塚の由来 投稿日2020年8月3日
羽犬塚の由来は、二つあるようです。 一つは九州征伐の際、豊臣秀吉が連れてきた羽がはえたかのようにすばしっこく走り回る犬がこの地で死んだため、塚を作り「羽犬塚」としたという言い伝えと、もう一つはこの地 [...]

ケネディが尊敬した日本人 投稿日2020年8月2日
以前、ケネディ元米大統領がもっとも尊敬する日本人として上杉鷹山を挙げたという話があり、この逸話の真偽に関しネット上で肯定派と否定派が激論を戦わす時期がありました。 しかし数年前、娘であるキャロライン・ [...]

足立山の伝説 投稿日2020年7月27日
数年前、北九州にある足立山妙見宮の和気清麻呂公像を撮影に行ってきたのですが、その帰り、住宅街の通りを車で走っていると、なんか歩道を歩く犬・・・チョットした違和感が・・・「ん!」リードを引っ張る飼い主が [...]

塔原の由来 投稿日2020年7月25日
筑紫野市塔原東には、むかし十王堂がありその境内に立っていた塔の礎石が今も残っています。 貝原益軒は「筑前国続風土記」の中で 「むかし此所(ここ)に塔あり、遠くより能(よく)見ゆ。此(この)塔ある故に [...]

平家最後の拠点・彦島 投稿日2020年6月9日
九州を追われた平家は1183年11月「水島の戦い」で源義仲を破るものの、翌年2月 源義経に「一ノ谷の戦い」で敗れ、その1年後には「屋島の戦い」で再び敗れ四国を追われます。 「屋島の戦い」の数日前には源 [...]

儀右衛門 からくり太鼓時計 投稿日2020年6月1日
このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。 この時計 [...]

ドメイン変更しました 投稿日2020年4月19日
経費削減のためドメインの変更を行いました。 変更は以下の通りです。 www.fukuokashiden.net → www.2810w.com [...]

福岡史伝 熊襲の抵抗 投稿日2020年1月29日
崇神天皇が四道将軍を発した理由を「共和国であった倭国を中央集権化するため」と書いていましたが、共和国という表現は正しくないため、「中央集権化するため」と変更しました。 日本書紀には「中央集権」を意図す [...]

福岡人物伝 小野好古 投稿日2019年10月22日
小野好古の記事を修正しました。小野家は文人の家系で祖父は伝説の詩人小野篁(たかむら)で曽祖父は続命院を創設した小野岑守(みねもり)になります。 [...]

福岡人物伝 吉備真備 投稿日2019年10月22日
吉備真備の大宰府左遷に、藤原仲麻呂の画策があったような記述をしていましたが、「続日本紀」に真備の左遷に仲麻呂が関わったという記述はなかったため記事を訂正しました。 [...]

「日本号」ってなに? 投稿日2019年10月20日
意外な話の「『日本号』ってなに?」で日本号が母里太兵衛から後藤又兵衛へ送られたと記述していましたが、事実と異なる逸話のようですので訂正しました。 この逸話は又兵衛の息女が嫁いだ太兵衛の甥の邸宅に「日本 [...]

戊辰戦争に福岡藩出兵 投稿日2019年10月19日
福岡史伝の記事「戊辰戦争に福岡藩出兵」に「『五卿に対する冷遇』や『筑前勤皇党の粛清』の過去を挙げ、福岡藩を強く非難し圧力を掛けます」と記載していましたが、五卿への冷遇はなかったようなので、「五卿に対す [...]

源平合戦後の九州 投稿日2019年10月19日
福岡史伝・鎌倉時代の記事「源平合戦後の九州」で「島津氏が九州南部(現在の鹿児島、宮崎)の守護を務めます」と記載していましたが、日向には伊東氏が下向していますので「島津氏が九州南部(現在の鹿児島)の守護 [...]

破るる夢も惜しからず 投稿日2019年10月17日
鶯や破るる夢も惜からず 温泉に通ふ下駄と雲雀の声高し 江戸時代、黒田藩中老・立花秋水の作。 現在の筑紫野市二日市温泉に滞在中の一句になります。 この辺りは天拝山の麓で、また田園地帯が広がる地域で [...]

志賀島と海の中道 投稿日2019年10月12日
福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本 [...]

ページ名称を「福岡史伝」に変更しました 投稿日2019年10月10日
ページ名称を「福岡史伝と名所旧跡」から「福岡史伝」に変更しました。 また、twitterの「埋め込みタイムライン」がカスペルスキーとの絡みで上手く表示できない状況が起こっているようですのでページより外 [...]

ワードプレスのページは閉鎖しました 投稿日2019年10月9日
PC用とスマホ用のページで二重管理が煩雑になったため、PC用のページはワードプレスから以前のhtmlバージョンに戻しました。 [...]

水時計があったとされる大宰府・築山 投稿日2019年10月8日
中大兄皇子が開発した「漏刻(水時計)」が設置されていたといわれる築山。 太宰府政庁のすぐ東側にある小高い山ですが、高台に「漏刻」を置くと水はどのように導いたのだろうという疑問が生まれます。 「漏刻」は [...]

歴史はむつかしい 投稿日2019年4月30日
最近時間の合間に勝海舟の談話集「氷川清話(講談社学術文庫)」を読んでいるのですが、海舟の歯切れの良い発言に久し振りに爽快感を感じながら読み進めています。 読み始めての頃は、自分の幕末における知識が間違 [...]

豊前、筑前、筑後について 投稿日2018年12月31日
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海 [...]

薩摩街道 松崎宿「油屋」 投稿日2018年11月25日
数ヶ月前の事になりますが、西郷隆盛の泊まったといわれる小郡市松崎の「油屋」の撮影に行って来ました。残念ながら史跡「油屋」は建替中で足場が組んであり見学する事はできませんでしたが、玄関の撮影だけはどうに [...]

マルちゃん訪問 投稿日2018年10月9日
先日、テレビで有名になった嘉麻市・前田酒店の店番犬・マルちゃんに会いに行ってきました。 中に入ると、マルちゃんは店内の片隅でお昼寝中。 見知らぬ来客に気がついたマルちゃん、戸惑い気味でおかあさんの顔を [...]

筑紫とは? 投稿日2018年9月24日
益軒は筑前国続風土記の冒頭で、筑紫について言及しています。 「此國を筑紫と名付し事、古は筑前筑後一国にして、是を筑紫といへり。故に日本紀等の古書に、筑紫といへるは、多くは筑前筑後をさせり。又九國をすべ [...]

PCページをリニューアル 投稿日2018年7月22日
PCページをリニューアルしました。これに伴い、web.fukuokashiden.netは重複管理となるため廃止しいたしました。スマホのページは現状どおりとなっています。 今後はwww.fukuoka [...]

宇佐八幡宮神託事件 (769年) 投稿日2018年5月7日
宇佐八幡宮神託事件は「続日本記(しょくにほんぎ)」に書かれている出来事です。その記事は769年、称徳天皇の怒りの詔(みことのり)から唐突に始まります。 「臣下というものは、君主に従い清く貞しい明るい [...]

親不孝通りの史跡 投稿日2018年4月7日
先日久振りに所用で天神に出たので、ついでに親不孝通りに足を伸ばしました。 「親不孝通り」は随分以前に「親富考通り」に名称変更されたのですが、噂どおり「親不孝通り」の呼称に戻された様です。 ところでこの [...]

五郎山と天山と宝満山 投稿日2018年3月5日
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています) 手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発 [...]

SSL対応で不具合発生! 投稿日2018年1月13日
通販サイト以外でもSSL対応は当たり前になってきているようで、検索サイトでも表示順に優劣がつく様です。 そこでMYページをSSLに対応させてみたのですが、手打ちで作成したページのスクリプトが動かなくな [...]

人参が嫌いな子は読むべからず 投稿日2017年11月18日
益軒は養生訓・巻第三の末にこう書いています。 「心口にかなわざる物、食うべからず」 講談社学術文庫「養生訓」の訳者・伊藤友信氏は「心口にかなわざる物」を「口に合わず気に入らないもの」と訳しています [...]

芦屋から壇ノ浦へ 投稿日2017年9月2日
福岡史伝「芦屋から壇ノ浦へ」で平家の人々が山鹿の次に逃れた地を「豊後・柳が浦」と記載していましたが、北九州市門司(和布刈)にある源平合戦絵巻の傍らにある案内板には、柳が浦は豊前の柳が浦(現在の門司区大 [...]

宝石で雀を撃つが如し 投稿日2017年8月17日
益軒は「養生訓」で次の通り語っています。 「宝石を礫(つぶて・石ころ)として雀を撃たば、愚なりとて、人必ず笑はん。・・・中略・・・かろき小なる欲を貪りて身を損なうは、軽重を知らずというべし。」 これは [...]

貝原益軒記想録をリリースしました。 投稿日2017年6月30日
益軒先生伝」を分離し新たに「貝原益軒記想録」としリリースしました。(分離と言ってもサブドメですが・・・) [...]

福岡史伝WordPress版を公開しました 投稿日2017年5月28日
福岡史伝のWordPress版を公開しました。内容は「福岡史伝と名所旧跡」とほぼ同じです。WordPressに興味をお持ちの方は一度ご参照ください。ページアドレスはwwwをwebに変更したものになりま [...]

福岡人物伝 早川養敬 投稿日2017年5月6日
宗像市吉留にある銅像の碑文には早川勇という名になっているため、福岡人物伝の早川養敬を早川勇と変更しました。 [...]

引越しに伴う停止のお知らせ 投稿日2017年4月19日
サーバーの引越しに伴い約24時間ほどページの公開を停止します。期日は4月23日(日)22:00~を予定しております。 [...]

plalaのページを閉鎖しました。 投稿日2017年3月7日
plalaの個人ページにて公開しておりました「福岡史伝と名所旧跡」も5年を超え、更新も現行のサイトのみとなっておりました。この流れよりplalaのページは役目と終えたと判断し、2017年3月3日を持ち [...]

咎むべからず。憂うべからず。 投稿日2017年1月26日
貝原益軒は著書「養生訓」に次のような事を記述しています。 「世の中の人の行動が、自分の意にそわなくても、『人とはそんなものだ』と考えて、人の悪いところは、なだめ、許して、咎めてはいけない。そして怒っ [...]

現在スマホ対応中です。 投稿日2017年1月8日
最近スマホによるアクセスがPCからのアクセスを大きく上回っているのが現状の様です。 当ページは、トップページのみのスマホ対応となっていたため、現在、早急なスマホ対応を進めています。スマホで検索さてれて [...]

酒食を過すは腹中を戦場となすが如し 投稿日2016年12月31日
胃腸を酷使する時期も山場を迎え、正月明けには胃腸薬のお世話になる人も多いのかもしれません。 ところで、貝原益軒の「養生訓」には過酒食について次の通り書かれています。 「酒食を過ぎると、強い薬を用いな [...]

養生訓 「怒」と「欲」について 投稿日2016年12月25日
貝原益軒は著書「養生訓」で怒りと欲について次のような事を語っています。 「怒と欲との二つ、最も徳を破り生を失う。怒りを懲らし、欲を塞ぐは易の戒めなり。怒りは火が燃ゆるが如し。人の心を乱し、元気を損な [...]

日本人は勝負事が好き? 投稿日2016年12月14日
このところIR(Integrated Resort、統合型リゾート)法案で国会が騒がしくなっているようですが、観光客が増え、雇用が増え、税収が増えるのであれば悪くはないのではと、安易ではありますがそう [...]

酔っぱらいは芸術家? 投稿日2016年11月30日
またまた飲酒の話になりますが、貝原益軒は「養生訓」に多飲の戒めとして次の通り記しています。 「生来謹厳な人も多く飲めば、欲深くなってみぐるしく、平常心を失い乱れてしまう。言行ともども狂ったようで、日 [...]

歴史語呂合わせ 投稿日2016年11月25日
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんで [...]

福岡市博物館「滇王之印」複製品 投稿日2016年11月13日
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次 [...]

酒は天の美禄なり 投稿日2016年8月5日
貝原益軒は養生訓で「飲酒」について次のように語っています。 「酒は天の美禄である。少量の飲酒であれば陽気になり血行も良くなり、食欲も出て、愁いを忘れ、やる気が起こり、たいへん利益がある。ただし多量に [...]

ただいま禁煙中・・・ 投稿日2016年6月19日
禁煙するのは簡単ですが、タバコを止めるのは難しい・・・。 禁煙すること数十回、最高2年間やめましたが、ストレスでここ1年間喫煙中でした。 ところで江戸時代の儒学者・貝原益軒はタバコについて名著・養生訓 [...]

熊襲の抵抗 投稿日2016年4月10日
古墳時代の「熊襲の抵抗」の記事に「しかし肥後に進むと熊襲が徹底的な抵抗を示します。」と記載していましたが、日本書紀では日向で熊襲と戦ったと記載されていたので「肥後」を「日向」と変更しました。 [...]

新羅海賊の入寇 投稿日2016年2月23日
警固所が設置された場所を現在の「警固公園付近」としていましたが、実際は現在の警固神社より西へ800mほど離れた福岡城の東側の警固の辺りにあったようですので、「現在の警固。福岡城の東側付近」と訂正しまし [...]

寛政異学の禁 投稿日2016年2月18日
「貝原益軒に朱子学を学んだ竹田定良・・・」と記述していましたが、貝原益軒と竹田定良の生年には100年以上の差がありました。修猷館高等学校のページには貝原益軒に学んだのは定良の祖父・竹田定直という事が記 [...]

なぬ~大宰府政庁跡でももクロがLIVE!? 投稿日2015年10月14日
2015年10月31日(土)、ももいろクローバーZが大宰府政庁跡でLIVE!?。なんと素晴しいアンマッチ。後片付けさえ問題なければ、斬新な企画。発案者は現代の平賀源内に違いない。ももクロファンにも福岡 [...]

奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事 投稿日2015年9月6日
奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経 [...]

有馬記念の由来 投稿日2015年9月6日
余談ですが、競馬のオールスター戦で、かつ一年を締め括るGⅠ(グレード1)レースの「有馬記念」は中央競馬会理事長だった有馬家15代頭主、有馬頼寧(よりやす)氏により提唱開設されたレースです。競馬に興味の [...]

「黒田節」像の余談 投稿日2015年9月6日
余談になりますが、以前、酒の席で「九州の男はよく酒を飲むなあ」と東京や大阪の先輩方から度々お褒めいただいた事がありますが、どうもこのイメージを植えつけた一因が「黒田節」のようで、「福岡は黒田節だもんな [...]

戒壇石の事 投稿日2015年9月6日
戒壇院の門の傍らにある石柱には、「不許葷酒肉入境内」と彫ってあります。 おそらく「境内に葷、酒、肉を入るを許さず」といった内容で当時の戒律の厳しさが偲ばれます。 「葷酒肉」の「葷」は最初「軍」の事かと [...]

浅野四郎左衛門の事 投稿日2015年8月1日
先日、「お綱門の事」の記事を書いていて思った事です。 事件後にお綱の夫・浅野四郎左衛門には陰に陽に批判が殺到し著しく藩内での立場を悪くしたのではないかと想像され、名前も知らぬ様な他の藩士から冷たい視線 [...]

月隈・金隈の戦い 投稿日2015年6月27日
「月隈・金隈の戦い」について福岡史伝の「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」では足利直冬と少弐氏が勝利し、 福岡人物伝「菊池武光」では菊池武光と一色範氏との連合軍が勝利した、と記述し矛盾がありましたの [...]

レンタルサーバに引越し 投稿日2015年5月26日
最近ちょっと時間ができたので、固定IPを取得しLinuxサーバを立ち上げてみる事に・・・。 しかしWeb公開の段階で壁に突き当ってしまい「自宅サーバの電気代はどの位になるのかな?」、「不在時にPCより [...]

源平合戦後の九州 (1185年~) 投稿日2015年3月25日
「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家方の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身となります。 そして九州には源頼朝が武藤資頼(すけより)、大友能直(よしなお)、島津忠久(ただひさ)を派 [...]

戒壇院建立 投稿日2015年2月11日
聖武天皇の命で戒壇院が建立されたと記載していましたが、聖武天皇の崩御が756年で戒壇院の建立が761年で年代的に合わないため訂正しました。 [...]

戒壇院 投稿日2015年2月11日
聖武天皇の命で戒壇院が建立されたと記載していましたが、聖武天皇の崩御が756年で戒壇院の建立が761年で年代的に合わないため訂正しました。 [...]

道君首人の農政改革 (713年) 投稿日2015年1月17日
若き頃に法律を学び官僚としても優秀だった道君首名(みちのきみおびとな)は53歳の頃に筑後守として赴任します。年齢からして第一線を退き、引退までの繋ぎの赴任だったのかもしれませんが、首名は筑後で果物 [...]

防人と烽の設置 (663年) 投稿日2014年12月14日
663年、新羅・唐の連合軍の九州上陸を想定し、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(すすみ)を設置します。防人とは筑紫の守備のために全国より派遣された兵士で、烽とは敵の動向を知らせる狼煙台のことにな [...]

針磨原の戦い (1353年) 投稿日2014年11月24日
1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武 [...]

応仁の乱-筑前- (1467~1478年) 投稿日2014年11月24日
少弐氏と九州探題に命じられた渋川氏との反目に乗じて筑前に勢力を伸ばしていた大内氏は、1467年に「応仁の乱」が起こると兵を京都に向けます。 対馬に逃れていた少弐政資(この時点では頼忠)は対馬代官の宗氏 [...]

観応の擾乱-筑前- (1351年) 投稿日2014年11月9日
1349年、足利尊氏の右腕の高師直と、尊氏の弟・直義との確執で足利幕府は二派に割れます。長門探題を努める尊氏の庶子・直冬は叔父(義父)の直義に援軍するため軍を率い上京しようとしますが、実の父・尊氏より [...]

長者原の戦い (1362年) 投稿日2014年11月8日
鎌倉時代の鎮西探題に代わって設置された九州探題には足利一族の一色氏が就くのですが、「観応の擾乱」が起こると武家方はこの一色氏と筑前国守護の少弐氏の二派に別れ戦うことになります。この内訌が要因となり、武 [...]

今川了俊の失脚 (1395年) 投稿日2014年11月2日
南北朝が統一(1392年)された三年後、第三代将軍の足利義満は、九州で勢力を伸ばす探題・今川了俊に危険性を覚え帰京の命を出します。目の上の瘤だった了俊の失脚劇に少弐、大友、島津ら九州の守護たちは大喜び [...]

福童原の戦い (1375年) 投稿日2014年11月1日
今川了俊に大宰府を攻略され、筑後の高良山に移った菊池氏はそこで抵抗を続けますが、不運なことに、翌年に菊池武光、翌々年には後を継いだ菊池武政が立て続けに没します。 1375年、武光の甥・菊池武安は現状を [...]

今川氏の九州攻略 (1372年) 投稿日2014年11月1日
1370年、九州に入ることも叶わなかった渋川義行に代わり九州探題に命じられた今川了俊は、九州攻略を三方面より進める策を取り、豊後に嫡男の今川貞臣を上陸させ高崎山城に籠城させます。また弟の今川仲秋を肥前 [...]

壬申の乱-筑紫- (672年) 投稿日2014年10月18日
天智天皇が崩御すると、その半年後の672年6月に、吉野で出家していた天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が東国に向かい、挙兵の動きを示します。 時の都の大津では不穏な空気が流れ人々は避難の準備を始 [...]

邪馬台国はどこ? 投稿日2014年10月12日
「また南に向かって1000里程海を渡ると末盧国(松浦)に至る。」の末盧国を唐津としました。 [...]

卑弥呼は誰? 投稿日2014年10月8日
倭迹迹日百襲媛命が武埴安彦命と吾田姫の進攻ルートを予知したと記載していましたが、 「日本書紀」にはその様な事は記載されていなかっため訂正しました。 [...]

三国志に奴国の戸数記載 投稿日2014年10月5日
次の通り注釈を入れました。‥‥‥「ここでは末盧国を長崎県松浦市としましたが、松浦川や虹ノ松原が現存することや松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説が残ることから佐賀県唐津市の可能性が高いと思われます。」 [...]

都井岬の馬 投稿日2014年8月28日
宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。 秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血 [...]

「新選組始末記」について 投稿日2014年8月27日
このサイトでも真木和泉、平野國臣、篠原泰之進の項で参照している「新選組始末記」ですが、残念ながらこの書は史家や歴史作家より創作の部分が余りにも多過ぎるとの指摘があります。著者の子母沢寛氏自身もその「あ [...]

号・如水の意味 投稿日2014年4月6日
豊前で抵抗をする武将・城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で謀殺した翌年、官兵衛は家督を長政に譲り如水を名乗ります。不本意な方法で事を終結させた官兵衛はこの辺りが自分の引き際と考え隠居を望んだのかもしれま [...]

孫子の兵法の事 投稿日2014年3月21日
「孫子」は中国の春秋時代末(今から2500年ほど前)に孫武によって書かれたと言われる兵法書ですが、日本でも古くから軍事を学ぶテキストとして多くの人が通読していたようです。当然、黒田官兵衛や竹中半兵衛も [...]

半兵衛と官兵衛 投稿日2014年2月22日
竹中半兵衛との接点は官兵衛が信長に謁見した1575年頃から1578年に有岡城で荒木村重に拘束されるまでの約2~3年の僅かな期間です。 この二人は秀吉の元で同じ参謀として働くのですが、性格はまったく対照 [...]

棟上げの菓子袋の思い出 投稿日2014年1月3日
以前は棟上げといって新築家屋の骨組みが出来上がると、餅を撒いたり近隣の子供たちに菓子の詰まった袋を振る舞ったりする風習がありました。 今でもこの様な習慣の残る地域もあると思うのですが、 私も数十年前の [...]

正室・光の読みは? 投稿日2013年12月31日
官兵衛は生涯を通して側室を置かなかったようですが、これは一時信仰したカトリック教の影響を受けたからなのか、それとも正室・光との 心の繋がりが強かったからなのかよく分かっていません。 ところで正室・光は [...]

光雲神社 投稿日2013年12月31日
光雲神社(てるもじんじゃ)には藩祖・黒田如水公と初代藩主・黒田長政公が祀られてます。 この地には以前、徳川家康を祀る東照宮がありましたが、維新で幕府が倒れた後は新政府への配慮からか廃れたようです。 そ [...]

如水・殉死の禁止 投稿日2013年12月31日
「人を殺すと言ふは容易ならざることなり」 如水は戦場以外では敵でも配下の者でも、その命を奪うことをたいへん嫌ったと言われます。 「配下の者を手打ちにするなどは短慮の至り」と言い切り、部下を手に掛けるこ [...]

如水の隠居生活 投稿日2013年12月31日
1589年、官兵衛は如水と名乗り長政に家督を譲り隠居しようとしますが秀吉に許されず、 実際に隠居生活に入るのは12年後の「関ヶ原の戦い」の翌年でした。 隠居した如水は太宰府に庵を結び和歌・連歌を楽しん [...]

如水の気配り 投稿日2013年12月31日
天才肌の人は気配りをしないといったイメージが個人的には強いのですが、如水は気配りにおいても一流の人だったようです。 部下がなにか失敗をしでかすとしこたま叱りつけはするものの、その場で簡単な用事を言いつ [...]

官兵衛と立花宗茂 投稿日2013年12月31日
官兵衛と立花宗茂の二人には大きな接点が三度あります。 先ずは1586年に「岩屋城の戦い」で父・高橋紹運を討たれた宗茂が立花城に籠城し、九州制覇目前の島津軍を迎え撃った時の事です。 秀吉に九州の島津攻略 [...]

官兵衛の兜 投稿日2013年12月31日
如水が一番大事にした兜 -銀白壇塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)- は何故か現在、 岩手県盛岡市に存在していますが、その経緯は次の通りです。 兜は正室・光の実家の櫛橋家より光との婚儀の [...]

官兵衛的な人たち 投稿日2013年11月3日
えらく豪胆な人、すごく気配りのできる人、運動神経が超人的な人、仕事が超速い人、信じられないぐらいな美形な人。 永年 社会で仕事をしていると色んな面で優れた人とめぐり合うもので、私も「この人なんでこんな [...]

宮古の思い出 投稿日2013年9月12日
1987年頃の事だったと思いますが、バイクでの一人旅、北海道へ向かう途中の岩手県での話です。 「新選組副長の土方歳三率いる幕府軍が最新鋭軍艦『ストーンウォール号(米名)』を奪い取るため官軍に奇襲かけた [...]

三国志について 投稿日2013年8月14日
「邪馬台国はどこ?」の冒頭で「皆さんよくご存知の『三国志』には・・・」と書いてしまいましたが、正確に書くと日本で一般的に知られているのは晋の時代に陳寿によって書かれた史書の「三国志」ではなく、明の時代 [...]

「御堂関白記」が世界記憶遺産に登録 投稿日2013年8月8日
6月18日に藤原道長の「御堂関白記」がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。日本の古典が世界に評価されるのは非常に喜ばしい事ですが、この人は結構傲慢な人間性の持ち主だったようです。 平安時代中期 [...]

黒田騒動 (1632年) 投稿日2013年3月24日
初代藩主黒田長政は「後継者には三男の長興(ながおき)を・・・」と考えますが、家臣の栗山大善(だいぜん)等の反対に押され長男の忠之(ただゆき)を後継者とします。しかし、この長男が福岡藩を継ぐことに不安を [...]

漢委奴国王の金印 (57年) 投稿日2011年7月24日
秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が「漢(前漢)」を興します。 漢は200年ほど続きますが、臣下の王莽が一時、政権を簒奪し国名を「新」としま [...]

貝原益軒「筑前国続風土記」 (1703年) 投稿日2011年7月23日
1630年貝原益軒は福岡藩の藩医の子として生まれ、京都、長崎、江戸で見聞を広めます。 益軒は自分の目で見て考え納得したことを文章にする実証主義の人だったようで、「筑前国続風土記」を著すにあたって筑前各 [...]

岩門合戦-霜月騒動- (1285年) 投稿日2011年7月16日
「弘安の役」から3年後の1284年、北条時宗が病没すると鎌倉で御家人の安達泰盛と得宗家執事の平頼綱の確執が激しくなります。翌1285年11月、両者間で小競り合いが起きそれが戦いまでに発展します。そして [...]

福岡の変 (1877年) 投稿日2011年7月16日
熊本、秋月、萩の乱が醒め遣らぬ1877年2月、薩摩の私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起すると、福岡でも薩軍に呼応するため元福岡藩士の武部小四郎や越智彦四郎が準備を始めます。 そして薩軍 [...]

秋月の乱 (1876年) 投稿日2011年7月12日
1874年に江藤新平を中心として起こった「佐賀の乱」から2年後、1876年3月28日に廃刀令が発せられると、西日本各地の士族が募る不満を爆発させます。 10月24日には熊本で太田黒伴雄が率いる170名 [...]

弘安の役 (1281年) 投稿日2011年7月10日
「文永の役」から6年後の1281年6月、元軍は二手に別れて侵攻してきました。東路軍は元、高麗の兵4万、江南軍は元に降伏した南宋の兵10万、総数14万の兵は「文永の役」の5倍に近い数です。 6月5日にま [...]

元弘の乱-博多- (1331年~1333年) 投稿日2011年7月9日
倒幕計画が漏れ後醍醐天皇が拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不 [...]

黒田氏筑前入り (1600年) 投稿日2011年7月8日
福岡藩初代藩主、黒田長政の父、黒田如水は切れ者の野心家として知られ戦国の世に豊臣秀吉の参謀として歴史の表舞台に登場しますが、その秀吉自身も如水の智略、策謀には舌を巻いたといわれています。 九州平定後、 [...]

戊辰戦争に福岡藩出兵 (1868~1869年) 投稿日2011年7月3日
1867年10月24日、将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月9日に朝廷は王政復古の大号令を発します。 翌年1月3日にはついに鳥羽伏見で薩摩軍と旧幕府軍の間で発砲が起こり、1年と5ヶ月に及ぶ戊辰戦争 [...]

博多町割り (1587年) 投稿日2011年7月3日
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)などの戦いにより、荒廃した博多を復興するため158 [...]

乙丑の獄 (1865年) 投稿日2011年7月2日
1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、筑前・平尾山荘に逃れていた高杉晋作は同年12月に下関へ戻り挙兵、翌1月には幕府へ恭順を示す保守派を倒し、幕府への対決姿勢を明らかにします。 こ [...]

熊襲の抵抗 (300年代) 投稿日2011年6月26日
歴史上実在が認められている初めての天皇は崇神天皇ですが、その崇神天皇は倭国を中央集権化するため、「四道将軍」を発し倭国統一を目指します。これが西暦200年代後半の事だと思われます。「四道将軍」の四道と [...]

平清盛「袖の湊」を築く (1158年~1170年代) 投稿日2011年6月26日
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降のことだと思 [...]

「刀伊」(女真族)の入寇 (1019年) 投稿日2011年6月19日
1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。そして糸島東部から早良郡、能古島を荒らし、次に箱崎を攻撃します。 大宰権帥(だざいごんのそつ-大宰府長官- [...]

藤原純友の乱 (941年) 投稿日2011年6月18日
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に本拠地の伊予を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾 [...]

新羅海賊の入寇 (869年) 投稿日2011年6月18日
平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起 [...]

三国動乱の朝鮮へ (300年代~600年代) 投稿日2011年6月18日
倭国は、西暦300年代に三国時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ進出し伽耶に駐屯します。そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。 この経緯とその後を [...]

観世音寺建立 (661年) 投稿日2011年6月18日
斉明天皇は百済復興支援のため入った九州で突然崩御します。中大兄皇子はこの母のために大野山の麓に大規模寺院を創建することを決めますが、これが85年の歳月をかけて完成する「観世音寺」です。 斉明天皇は重 [...]

磐井の乱 (527年~528年) 投稿日2011年6月12日
継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反 [...]

藤原広嗣の乱 (740年) 投稿日2011年6月9日
天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤 [...]

三国志に奴国の戸数記載 (200年代) 投稿日2011年6月5日
「三国志」の魏書の巻、東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に邪馬台国への道のりが記載されていますが、その間の国々の事が簡単に記載されています。それによると各国の戸数は次のとおりになっています。 地名 [...]

五卿の大宰府入り (1865年) 投稿日2011年6月4日
会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島に集結させます。 これに長州藩は恭順の意を表し、三家老を切腹させ五卿を他藩に送るという条件に従いますが、 [...]

鑑真和上来日 (753年) 投稿日2011年5月20日
日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で渡航の失敗・中止を繰り返します。そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日 [...]

戒壇院建立 (761年) 投稿日2011年5月18日
753年、渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「 [...]

文永の役 (1274年) 投稿日2011年5月14日
1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、唐津と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。その数、兵3万、軍船900といわれています。 19日には糸島半島東部の今 [...]

白村江の戦い (663年) 投稿日2011年5月14日
倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 [...]

筑後川の戦い (1359年) 投稿日2011年5月8日
「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「 [...]

大宰府、水城、大野城を築く (663年~665年) 投稿日2011年5月8日
「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、664年九州の行政機関「官家」(那津)の機能を造営中の「観世音寺」の西側に移し「大宰府」とします。そして敵の侵攻を食い止め [...]

多々良浜の戦い (1336年) 投稿日2011年4月29日
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少 [...]

金印発見 (1784年) 投稿日2011年4月29日
福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田ん [...]

菅原道真大宰府配流 (901年) 投稿日2011年2月12日
大宰府に配流された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600m程は離れた謫居(たっきょ)に入ります。 子供はまだ幼い隈麿と紅姫でした。謫居での生活は想像が及ばないほど [...]