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検索の結果 4件の記事が見つかりました


古屋佐久左衛門(1833年~1869年)【福岡人物伝】
筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官.....

巌流島は豊前領だった!(現在の島の住人は?)【意外な話】
巌流島の住人? 宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島は山口県の観光名所として有名ですが、江戸時代は豊前小倉藩の領地だったということです。これは「関ヶ原の戦い」で敗れ徳川家より本州の西の片隅に押し込められて不満を持つ毛利家を牽制するため方策だと想像されるのですが、実際のところはどう.....

中岡慎太郎(1838年~1867年)【福岡人物伝】
土佐の志士で五卿に随い太宰府に入り、五卿の衛士として仕えながら薩長同盟を画策します。 そして1864年から約3年間、太宰府、長州、京都間を忙しく行き来し、 薩長の有力者や土佐の同士たちと面談、坂本龍馬と共に薩長同盟を実現させます。 しかし大政奉還から一ヶ月後、京都・近江屋で刺客に襲われ龍馬と共に暗殺.....

坂本龍馬(1836年~1867年)【福岡人物伝】
勝海舟が失脚し、1865年 神戸海軍操練所が閉鎖されると、龍馬は一旦、鹿児島に身を寄せます。 そして5月には太宰府を訪れ五卿と面談します。この時に五卿の一人、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は龍馬の印象を 「偉人なり、奇説家なり」と評しています。龍馬の行動は慌しく、その数日後には下関で桂小五郎と面会.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
径路の窄(せま)き処は一歩を留めて人の行くに与えよ
菜根譚





福岡史伝・奈良
 【鑑真和上来日】(753年)

日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で 渡航の失敗・中止を繰り返します。 そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世音寺で初の授戒を行います。 翌年には奈良東大寺に移り、そこで聖武上皇や孝謙天皇の他、多く僧に授戒を行います。 759年唐招提寺を建立し、その地で763年入寂しました。

「これ法の為の事なり 何ぞ身命を惜しまんや 諸人行かざれば 我即ちいくのみ」
これは仏法のためであり なんで命を惜しもうか 誰も行かないのであれば私が(日本へ)行くのみではないか

「愁うることをもちいざれ よろしく方便を求めて 必ず本願遂ぐべし」
悩むことなどはない 様々な方法を思考錯誤し 必ず本願を叶えることが重要なのだ


鑑真和上については井上靖氏「天平の甍」に詳しく書かれていますので、興味のある方はご参照ください。

(2011.5.20)









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スポットライト人物伝


【武内宿禰(たけのうちすくね)】
(?~?)


日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。



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