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わかっていない事 【金印はなぜ志賀島で…?その弐】-大夫の思惑は?- 「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述します。) 西暦57年、那国王の命で大夫(たゆう・官職名)は後漢に派遣されますが、後漢の光武帝は朝貢品の返礼に「漢委奴国王」と刻印された金印を送ります。 大夫はこの金印を携え帰国しますが、その帰路に金印を那国王に提出すべきか迷います。 「漢委奴国王」の意味は「漢の委する奴国王」で那国王は漢の皇帝に任命された事になってしまいます。また、それに輪を掛けるように「那国」の「な」が奴隷の「奴」に書き換えられているのです。これを提出してしまうと、那国王より怒りを買うのは目に見えています。 そこで大夫は那の津の港に入る直前に志賀島付近に停泊し、信用のできる部下たちと相談の上、志賀島に小船で上陸し極秘裏に金印を埋め隠します。その後、金印は忘れられ、1700年後の江戸時代に農民によって発見された。といった筋書きは余りにも想像力がたくまし過ぎでしょうか? この頃より約500年後の飛鳥時代に遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋の皇帝に届け、皇帝の機嫌を損ねます。皇帝は返書を小野妹子に託しますが、妹子はこの返書を朝廷に提出する事はありませんでした。想像なのですが、大夫もこの小野妹子と同じ状況の中にあったのかもしれません。 関連記事:金印,漢委奴国王,大夫 |
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福岡悲話 【筑後みやまの平家伝説】(平安時代)-平家の史跡- 壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。 そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。 ただ女人を伴う行軍で思うように進めなかったと想像され、現在の筑後市尾島あたりで源氏の追手に追いつかれ戦闘が起こり、多くの平家の武者が討ち取られます。 現在その遺骸を葬ったといわれる地に「一之塚源平古戦場跡」の塚と碑が建てられています。 その場を逃れわずかな数となった落人たちは先を急ぎますが10㎞ほど南のみやま市山川町甲田あたりで再び追手に追いつかれます。わずかな将兵は女人を先に逃がし、現在の飯江川と待居川の交わるあたりで源氏の兵を迎え撃ち行く手を塞ぎますが、寡兵かなわずたちまち打ち破られます。 この地は現在整備され要川公園となり、そこには「平家最後の合戦の地」の碑が置かれています。 そして先に逃れた女人たちも川添いに袋小路の山側に分け入り行く手は渓流の水と岩、臨めるものは山の壁、もはやこれまでと七人の女人たちは行き当たった滝で自ら命を絶ちます。 ここが「七霊(ひちろう)の滝」と言われるところで、現在では社が建てられ、今も滝の音が響いています。 以上は筑後市、みやま市の旧跡を辿り現地の案内板の内容より想像した「筑後みやまの平家伝説」になります。史跡の所在地は次の通りです。 〇一之塚源平古戦場跡 ‥‥‥ 筑後市大字尾島619 〇平家最後の合戦の地 ‥‥‥ みやま市山川町 要川公園 〇七霊の滝 ‥‥‥ みやま市山川町甲田1089 |
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