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福岡人物伝
 【月形洗蔵】

儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。


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勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。 「同公は本草学.....

親不孝通りの史跡(2018年4月7日)【余談】
先日久振りに所用で天神に出たので、ついでに親不孝通りに足を伸ばしました。 「親不孝通り」は随分以前に「親富考通り」に名称変更されたのですが、噂どおり「親不孝通り」の呼称に戻された様です。 ところでこの親不孝通りは中洲に匹敵する福岡市を代表する繁華街として有名なのですが、その近隣では隠れた史跡を散.....

戊辰戦争に福岡藩出兵(1868~1869年)【福岡史伝・幕末・維新】
1867年10月24日、将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月9日に朝廷は王政復古の大号令を発します。 翌年1月3日にはついに鳥羽伏見で薩摩軍と旧幕府軍の間で発砲が起こり、1年と5ヶ月に及ぶ戊辰戦争が始まります。 新政府は天皇の名の下に各藩へ出兵の命を発し福岡藩もこの命に従いますが.....

乙丑の獄(1865年)【福岡史伝・幕末・維新】
1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、 筑前・平尾山荘に逃れていた高杉晋作は同年12月に下関へ戻り挙兵、 翌1月には幕府へ恭順を示す保守派を倒し、幕府への対決姿勢を明らかにします。 これに神経を尖らせた幕府首脳は五卿の元に集まる志士や筑前勤皇党の不穏な行動を.....

月形洗蔵(1828年~1865年)【福岡人物伝】
儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。.....

黒田長溥(1811年~1887年)【福岡人物伝】
島津藩主の重豪(しげひで)の十三男で、黒田家に養子として入ります。 開明的な藩主で蘭学を取り入れ中洲には反射炉を建設するなどしています。 しかし1865年の「乙丑の獄」で筑前勤王党の弾圧を行い勤皇派を一掃します。 弾圧の原因はハッキリしていないのですが、 勤王党の過激な一派が長溥の重臣を暗殺した二つ.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い
中島敦





名所旧跡・筑後地区北部
 【三原城跡】-大刀洗町本郷-



三原城跡

【三原城跡】
 三原城は本郷城ともよばれています。東西約一一〇メートル、南北約百五十メートルの範囲に外堀・内堀を構え、角矢倉、物見櫓等を設けた平城でありました。
 三原氏の始祖は三原弾正時勝と伝えられ、「おしどり物語」の哀話が残っています。
 鎌倉時代の初期、糸島郡高祖の城主原田種直の子種朝は三原氏を継ぎ、第十三代の当主になりましたが、入城にあたり箱崎の高良新宮を勧請して、城の守護神としました。後年戦火の及ぶことをおそれて、城外に移したのが現在の本郷高良玉垂宮です。
 鎌倉時代には、護良親王の命を受けて九州探題を攻め、あるいは多々良浜に足利尊氏の軍勢を迎え撃つなど、宮方に力を尽くしていましたが、後年には武家方となり、大原合戦の時は少弐方に名を連ねています。
 天正十四年(一五八六)三原紹心が四王寺山岩屋城で討死にしたこともあって、城としての役目は終わることになりました。
 城跡はここから南へ約百メートルの地点にあります。

平成十一年三月三一日
大刀洗町教育委員会

「三原城跡」案内板より











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スポットライト人物伝


【景行天皇(けいこうてんのう)】
(西暦300年前後?~)


崇神天皇の孫で、橿日宮で崩御した仲哀天皇の祖父にあたります。
皇位に就いた当時、出産時に夫は子供が生まれるまで臼を担いで家のまわりを廻る風習があり、天皇も皇后が出産する際にこの風習に倣い、臼を担いで屋敷のまわりを廻っていたのですが、子供が双子だとわかった天皇は臼に向かって「こん畜生」と叫んだという逸話が日本書紀に記載されています。この時、生まれた双子の弟が後の日本武尊(やまとたけるのみこ.....[全文を表示]




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