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福岡史伝・幕末・維新
 【戊辰戦争に福岡藩出兵】(1868~1869年)

1867年10月24日、将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月9日に朝廷は王政復古の大号令を発します。 翌年1月3日にはついに鳥羽伏見で薩摩軍と旧幕府軍の間で発砲が起こり、1年と5ヶ月に及ぶ戊辰戦争が始まります。
新政府は天皇の名の下に各藩へ出兵の命を発し福岡藩もこの命に従いますが、 ここで福岡藩は旧幕府に対する礼節なのか、多くの訓練されていない募集兵を送ります。 これを知った新政府は「以前からの幕府よりの姿勢」や「筑前勤皇党の粛清」の過去を挙げ、福岡藩を強く非難し圧力を掛けます。 福岡藩より出兵した将兵も薩長の軍や公卿たちから謗りを陰に陽に受けたようで気の重い従軍だったと想像されます。
1868年4月11日、旧幕府は江戸城の無血開城で事実上倒壊しますが、 これと時を同じくして新政府の圧力を受けた福岡藩では藩主黒田長溥の懇願に近い命により佐幕派だった野村、浦上、久野の三家老が切腹します。
そして戊辰戦争は1869年5月、箱館五稜郭にこもる旧幕府軍が降伏して終結しますが、 この間の福岡藩の戦費調達のための借財は取り返しのつかない130万両という膨大な額に膨らんでいました。 この借財に窮した福岡藩は1870年にとうとう贋札発行に手を出し、藩知事黒田長知(くろだながとも)は免職、 元家老等5名が斬首という厳しい処分を受けることになります。
(2011.7.3)


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勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
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親不孝通りの史跡(2018年4月7日)【余談】
先日久振りに所用で天神に出たので、ついでに親不孝通りに足を伸ばしました。 「親不孝通り」は随分以前に「親富考通り」に名称変更されたのですが、噂どおり「親不孝通り」の呼称に戻された様です。 ところでこの親不孝通りは中洲に匹敵する福岡市を代表する繁華街として有名なのですが、その近隣では隠れた史跡を散.....

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乙丑の獄(1865年)【福岡史伝・幕末・維新】
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月形洗蔵(1828年~1865年)【福岡人物伝】
儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。.....

黒田長溥(1811年~1887年)【福岡人物伝】
島津藩主の重豪(しげひで)の十三男で、黒田家に養子として入ります。 開明的な藩主で蘭学を取り入れ中洲には反射炉を建設するなどしています。 しかし1865年の「乙丑の獄」で筑前勤王党の弾圧を行い勤皇派を一掃します。 弾圧の原因はハッキリしていないのですが、 勤王党の過激な一派が長溥の重臣を暗殺した二つ.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

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名所旧跡・博多区
 【博多総鎮守 櫛田神社】-博多区上川端町-



博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野好古といわれ、その後、1587年には戦国時代の騒乱で荒廃した博多を再建する「太閤博多町割り」で本殿が建立されることになります。
また全国的に知名度の高い神事「博多祇園山笠」は鎌倉時代に聖一国師が、当時流行した疫病を鎮めるため町人の担ぐ施餓鬼棚に乗って博多の町に祈祷水を撒いて廻ったのが始まりといわれています。

境内には「太閤博多町割り」で建てられた「博多べい」、「川上音二郎寄進の碑」、樹齢千年といわれる「大銀杏」、「蒙古軍の碇石」、「飾り山」などの観光の見どころが多数あります。



櫛田神社 楼門

【博多総鎮守 櫛田神社】

   御祭神 左殿 天照皇大神 (大神宮)
       中殿 大幡主大神 (櫛田宮)
       右殿 素戔嗚尊  (祇園宮)

   例 祭 五月三日四日   博多どんたく
       七月一日~十五日 博多祇園山笠
       十月二十三日   博多おくんち

當社は鎮西の雄都博多の守護神とし天平宝字元年託宣により 大幡主大神を鎮祭した 天照皇大神の御鎮座は之より更に古い 素戔嗚尊の奉祀は天敬四年に追討使小野好古が反亂の鎮定に 下向し京都祇園宮を勧請して祈願した由縁による
爾来 源平合戦蒙古軍の襲来等九州の地に異變勃発の 重大事ことに史上有名の人士を始め一般庶民の篤い尊崇を集め 就中菊池武時豊臣秀吉等の祈請の事蹟は廣く世に知られて いる 近時福岡市の発展と共に殖産興業陸海交通の守神 として信仰愈々篤くまた開運厄除不老長寿の神として 今日の社頭の隆盛を見るに至っている
當社の祭禮中祇園例大祭は国の重要無形民俗文化財に 指定された博多祇園山笠の奉納行事によって全国的に名聲 を博し七百五十有余年傅来の夏祭の豪華版である
尚社頭の銀杏の木は天然記念物に指定され古くから博多の 祝い歌となって親しまれ神木として名高い

  県指定天然記念物
       櫛田の銀杏
  県指定無形文化財 國重要無形民俗文化財
       博多祇園山笠
       博多松ばやし
  その他 博多関係の文化財を始め幾多の資料を蔵している

  特殊神事 博 多 節 分 祭(二月節分の日)
       ぎ な ん 祭(三月十二日)
       夫婦恵比須千座祭(十二月二日三日)
                                 社務所

櫛田神社の石版より











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スポットライト人物伝


【平野國臣(ひらのくにおみ)】
(1828年~1864年)


朝廷や長州藩、薩摩藩に広い人脈を持った名の知れた倒幕勤皇の志士で、のちに「寺田屋事件」「生野の変」に関わります。 「禁門の変」の時に捕らわれていた京都六角獄で斬首され36年間の人生を終えてます。



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