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福岡人物伝
 【高橋紹運】

反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕します。 しかし紹運の精神は死なず息子・立花宗茂へ引き継がれます。






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毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

岩屋城跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

高橋紹運(1548年~1586年)【福岡人物伝】
反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕.....

高橋鑑種(1529年~1579年)【福岡人物伝】
一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を.....

毛利元就(1497年~1571年)【福岡人物伝】
主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与え秋月に帰還させた上、抵抗させ、 次に大友氏の有力武将・高橋鑑種(たかはしあきたね)を調略し謀反を起させます。 しかし大友宗麟の支.....









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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人にはすべて能不能あり 一概に人を棄てあるいは笑うべからず
山岡鉄舟





名所旧跡・久留米
 【水天宮】-久留米市京町-



水天宮の起源は高倉平中宮(徳子-平清盛の娘-)に仕えた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が「壇ノ浦の戦い」後、筑後川の辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼(時子-平清盛の妻-)を祀ったものといわれています。 鷺野ヶ原で伊勢は、剃髪し千代と改め、加持祈祷などを行い里人に尊崇され、その社は尼御前神社と呼ばれたといいます。 現在、境内にある「千代松神社」はこの按察使局伊勢を祀ったものです。
ところで『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』の平時子のページでは「『吾妻鏡』では時子は宝剣を持ち、安徳天皇は按察局が抱いて入水したとあり、按察局は引き上げられて助かっている。」と記載されていますが、この「按察局」が伊勢ではないかと考えられます。
その後、水天宮は幾度か移されますが、1650年久留米藩二代藩主の有馬忠頼が土地と社殿を寄進し現在の位置に遷座、今日に至っています。
また、水天宮の境内には「禁門の変」で天王山に散った尊王派の中心的志士、真木和泉の銅像や謹慎時代を過ごした家屋「山梔窩」、真木和泉とその同士を祀る「真木神社」、「軍艦千歳慰霊碑」などの史跡が多数存在します。



この記事は「全国総本宮 水天宮」のサイト「祭神・由来」のページを参考、引用させていただきました。


「平時子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年8月21日(日)10:40
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6
%99%82%E5%AD%90












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スポットライト人物伝


【栗山利安(くりやまとしやす)】
(1551年~1631年)


黒田官兵衛が若い時より付き従った人物で黒田家家臣団の中心武将です。 有岡城に官兵衛が幽閉されると出入りの商人に紛れ潜入し囚われの主君に面会を果たし、 有岡城落城の際は一番に土牢に駆けつけ官兵衛を救い出します。 また関ヶ原の戦いが起こると人質にされそうになった官兵衛、長政の両夫人を母里太兵衛と共に大坂の黒田邸より救い出し中津城まで送り届けています。



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