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福岡人物伝 【高橋鑑種】 一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を攻め滅ぼし、実兄の一万田親実の婦人を側室に入れた事が一因といわれています。 関連記事:鑑種 |
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Fアイテム 【茶器「楢柴」の事】(戦国時代)-博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器- 豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。 秋月氏の窮地を救ったこの茶器「楢柴」は元々、博多の豪商・嶋井宗室が所有したもので、豊臣秀吉や大友宗麟から所望されるも譲らなかったといわれる一品です。秋月種実も「楢柴」をどうしても手中に収めたく使者を幾度となく送りますが、宗室はどうしても手放そうとしなかったために、遂に武力で奪おうとします。これに宗室はとうとう諦め、「楢柴」を譲り渡すことにします。種実の使者は宗室邸に来訪し、大豆百俵と引き換えに「楢柴」を持ち帰りますが、宗室は使者が去った後に、この引渡しに使用した部屋を打ち壊したといわれています。混乱期の商人たちは物を右から左へ動かすだけで巨額な利を得ていたといったイメージが強いのですが、実際は戦国の豪商たちも乱世を生き抜くのが容易でなかったことを伝える逸話だと思われます。 その後「楢柴」は豊臣家から徳川家へと渡りますが、1657年の明暦の江戸大火で行方知れずとなったと言うことです。 -参考「古代の都市・博多」(朝日新聞福岡総局編/葦書房)- |
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