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名所旧跡・博多区 【筑前国一の宮 住吉神社】-博多区住吉- 住吉神社の歴史は1800年以上とされ、全国に2000社以上ある住吉神社の中でも最初に創建されたと言われています。鎌倉時代に冷泉津(天神、中洲辺りにあった入江)の岬であった現在の地に既に在したとされ、神社南側の地域・美野島は字のごとく島であったということです。この様な環境より住吉神社は古くから国内の海運や大陸との交易に深く関わっていたと考えられ、現在では航海安全の神として崇敬されています。また現在の本殿は黒田長政によって再建されたもので、400年近くの歴史があり、国の重要文化財に指定されています。 境内には「博多古図の絵馬の案内板」の他、邪魔になって切られる事が一決すると一夜にして幹が真っ直ぐ立ち上がったとされる「一夜松」の子孫木、「古代力士像」、「鬼縛り石」などの見どころが多数あります。
住吉神社境内にある案内板より
文中に(図1)や(写真2)などの注釈がありますが、ここでは図、写真の掲載は省略しています。関連記事:住吉神社,絵馬 |
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わかっていない事 【「隋書」の秦王国はどこ?】-筑紫の東にあった中華風な国とは?- 隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。 百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て、そこから東(南東)に進み壱岐国に至り、次に筑紫国に至る。そこから東に向かうと秦王国に至る。ここに住む人々は華夏(中華)の風習を持ち、もしかしたらここが夷洲(いしゅう)なのかもしれないが、断定は出来ない。 また十余国を経て海岸に達す。 筑紫国から「秦王国」への道筋が、もし陸路ならば「海岸に達す。」という言葉より「秦王国」とその他の十余国は九州北部沿岸にあった小豪族の支配する各々の領地の事で、海岸というのは関門海峡に接する門司辺りのことだと思われます。この仮説を元にすると「秦王国」は恐らく那の津から東方のそう遠くない場所にあった地域だと想像できます。平安時代には博多湾内東方部の港町・箱崎に多くの宋商人が住んだ大唐街があり繁栄したといわれていますが、 宋の時代より500年程以前の隋の時代には、日本書紀にも登場する宗像氏が海外と頻繁に貿易を行ったと想像され、もしかしたらこの宗像氏の住んだ地域に近い津屋崎周辺に中国商人もしくは朝鮮商人の居住区があったのかもしれません。 ただ裴世清は返礼の贈物を運んで来ているので、畿内までの交通は最後まで海路だった可能性が高く、こうなると「海岸に達す。」の海岸は大阪辺りの港町の事で、「秦王国」は現在の山口県辺りにあった国になるのかもしれません。 上記の説では「秦王国」を中国または朝鮮商人の居住区としましたが、遣隋使が開始されたのが西暦600年の事で、その約20年前には中国南北朝の戦乱が終わり隋が興った時期であり、朝鮮では40年前に新羅が伽耶を併合しており、その時代背景よりこれらの戦乱で土地を追われた人々が日本に流れ着き住み着いたのがこの「秦王国」ではないかといった事も考えられます。 ところで両国の使者、小野妹子と裴世清の関係がどのようなものであったか「隋書」にも「日本書紀」にも記載されていないため推測するしかないですが、お互いに両国に差し障りのないように心を砕いた様子が二つの書物よりにじみ出ています。妹子も世清も国を代表する外交官という立場なので、互いに愚痴を言い合うような事はなかったでしょうが、「お互い、使者の役目はたいへんなことですなあ」と心は通っていたのかもしれません。 裴世清は1ヶ月ほど都に留められますが、「使者としての仕事はもう済んだので、早く返してもらえまいか」と早々に帰国したい旨を伝えています。そして妹子は裴世清の帰国に随行し再び隋に渡りますが、その後、両国の交流は絶えてしまったと「隋書・倭国」の項は締められています。 |
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