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名所旧跡・博多区 【博多総鎮守 櫛田神社】-博多区上川端町- 博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野好古といわれ、その後、1587年には戦国時代の騒乱で荒廃した博多を再建する「太閤博多町割り」で本殿が建立されることになります。 また全国的に知名度の高い神事「博多祇園山笠」は鎌倉時代に聖一国師が、当時流行した疫病を鎮めるため町人の担ぐ施餓鬼棚に乗って博多の町に祈祷水を撒いて廻ったのが始まりといわれています。 境内には「太閤博多町割り」で建てられた「博多べい」、「川上音二郎寄進の碑」、樹齢千年といわれる「大銀杏」、「蒙古軍の碇石」、「飾り山」などの観光の見どころが多数あります。
櫛田神社の石版より |
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福岡史伝・飛鳥 【白村江の戦い】(663年) 倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。 百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 これに応えた中大兄皇子は661年百済復興救援のため豊璋を帰国させると共に兵を送りました。 これにより百済の軍は復興に向けて一歩前進しますが、663年に豊璋が謀反の罪で鬼室福信を斬ってしまいます。 これは、百済の軍の士気を著しく低下させたものと想像されます。 そして同じく663年8月、ついに白村江で待ち構える唐の軍船と倭国水軍は激突します。唐の水軍は火計を用い倭国軍船は次々に 炎上し、倭国水軍は大敗を喫します。残った軍船は百済の王族や貴族を乗せやっとの事で九州に逃げ帰りました。 百済復興の夢を断たれた豊璋は高句麗に逃れたといわれ、九州で敗戦を知った中大兄皇子は大野城、水城を築き九州の防衛に専念することになります。 余談になりますが、百済の王子豊璋は中臣鎌足ではないかとの説があります。 豊璋が帰国して倭国軍が白村江の戦いで破れるまでの期間、中臣鎌足に関する行動が歴史から抜け落ちているのがその理由です。 また「乙巳の変」の場に居合わせた次期天皇の有力候補だった古人大兄皇子(中大兄皇子の異母兄)が自邸に逃げ込み 「韓人が蘇我入鹿(古人大兄皇子の後ろ盾)を殺した」 と告げますが、この「韓人」が中臣鎌足を指すのではないかというのがもう一つの理由になります。 (2011.5.14) |
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