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福岡史伝・南北朝・室町
 【筑後川の戦い】(1359年)

大刀洗の「菊池武光像」
「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。 これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び日本の三大合戦に挙げられるほど大きな戦いとなりました。 少弐頼尚を中心とする北朝側6万と懐良親王を擁する菊池武光が率いる南朝側4万が激突し、両軍あわせて2万5千の死傷者が出たといわれます。 戦いの終わった菊池軍が山隈城の近くの川で、血のついた刀を洗うと川は真っ赤に染まったといわれています。 この事から、この辺りを大刀洗と呼ぶようになりました。これが現在の三井郡大刀洗町になります。 戦いの結果は北朝の少弐頼尚が大宰府に撤退し、南朝軍が勝利しますが、南朝の懐良親王や菊池武光も負傷し一旦肥後に帰還します。 この戦い以後、少弐家は求心力を失い、2年後には菊池武光に大宰府を奪われることになります。


この戦場となった筑紫平野北部各地には、征西大将軍、懐良親王にまつわる「宮の陣」という地名や「将軍梅」(久留米市宮の陣) 「将軍藤」(小郡市福童)と呼ばれる樹木も残されています。
また、この「大刀洗」は八百年遡ると「磐井の乱」で戦いの場となり、太平洋戦争では「陸軍大刀洗飛行場」が置かれました。

(2011.5.8)






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筑後川の戦い(1359年)【福岡史伝・南北朝・室町】
「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。 これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び日本の三大合戦に挙げられるほど大きな戦いとなり.....

針磨原の戦い(1353年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、 そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し 「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあっ.....









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 【漢委奴国王の金印】(57年)

金印イメージ
秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が「漢(前漢)」を興します。 漢は200年ほど続きますが、臣下の王莽が一時、政権を簒奪し国名を「新」とします。しかし「新」は人々の支持を得られず倒壊し、 劉邦の子孫、劉秀がこの混乱を収め「漢(後漢)」を復興します。「漢委奴国王の金印」はこの劉秀(光武帝)が奴国王に送ったものです。 この「後漢」も200年ほど続きますが次第に乱れ、日本でもよく知られる劉備、曹操、孫権の三国志の時代に入っていきます。 この三国の中で一番勢いがあったのが曹操の興した「魏」になりますが、この国は劉備の建てた「蜀」を併合した後に、 司馬懿(仲達)の孫、司馬炎に乗っ取られ「晋」になります。 邪馬台国の記事を記載する「三国志・倭人の条(魏志倭人伝)」はこの時代の陳寿(ちんじゅ)によって書かれたものです。 その後「晋」は三国の残りの一国「呉」を平定し中国を統一しますが、相次ぐ内部抗争で北方の異民族を引き入れることとなり、 次第に自ら引き入れたその異民族勢力に南東に追われることとなります。 そして華北(中国北部)にはこの異民族たちの建てた国が乱立します。これが「五胡十六国」の時代です。 最終的に華南(中国南部)は南に追われた「晋(東晋)」の武将、劉裕が皇帝に禅譲させ「宋」を建て、華北は異民族勢力の「北魏」が統一し、 ここに「南北朝」時代が始まるのです。

中国4千年の歴史の一部を長々と書いてしまいましたが、ここからが本題です。
「後漢書(ごかんじょ)」は劉裕が建てた「宋」の范曄(はんよう)という人物によって書かれました。 ちなみに「三国志」は著者の陳寿自身や親、祖父が生きた時代を記述していますが、 「後漢書」は後漢が倒れて200年を経て書かれたものなので、当然古い史書などを頼りとしています。 その中のひとつが陳寿の「三国志」といわれ、そこから引用されたと思われる部分が各所に見られるそうです。

「後漢書」の中には次の一節があります。

「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」

これは西暦57年のことで、この頃、倭国の南端に奴国という王国が存在したということになります。 そして1700年を経た江戸時代にこの金印が、志賀島の田地から二人の農民の手により掘り出され、大騒ぎになるのです。


(2011.7.24)









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スポットライト人物伝


【菊池武敏(きくちたけとし)】
(?~1341年)


菊池武時の九男。京都より落ちてきた足利尊氏が九州に上陸した情報を掴むと、阿蘇惟直と共に肥後より攻め上ります。 そして少弐氏の有智山城を攻め落とし父・武時の仇、少弐貞経を自害させます。 しかし貞経の嫡子・少弐頼尚や尊氏の軍と多々良浜で戦い敗れると南に撤退します。



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