旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。 |
福岡史伝・南北朝・室町 【針磨原の戦い】(1353年) 1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、 そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し 「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあってはならない」と起請文を書いたといわれます。 そして2月2日には、大宰府より3㎞ほど南の針磨原で少弐氏の加わった南朝軍が一色の軍を撃破し(針磨原の戦い)、 翌年には再び南朝軍が「姪浜、飯盛の戦い」で一色軍を破り、再起不能となった範氏は長門に逃れます。 その後、九州探題が不在となると少弐頼尚は北朝方に寄り、南北朝の対立が再び表面化してくる事になります。 (2014.11.24) 関連記事:針磨原 |
検索の結果 2件の記事が見つかりました
|
意外な話 【筑後川の鵜飼の事】(明暦以前)-昔は瓢箪で鵜飼?- 江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人がとも(船の後方)で棹をさし、もう一人がかがり火で川底を照らして鵜を放つと、おのおのの鵜がハヤを捕らえた。鵜の首にはたなわと言うものを着け、その縄の先を指の間にはさみ多数の鵜が上下左右に入り乱れても、縄は乱れて絡むことがない。これは誠に奇功なる技である。」 これは「筑前国続風土記」巻十一 下座郡 長田 の項に書かれている鵜飼の概要になります。 福岡の奥座敷・原鶴温泉では5月末~9月末に鵜飼漁が行われています。こちらは鵜飼船による漁になりますが、瓢箪での漁も再現できれば観光資源となると思われるのですが、鵜縄が足に絡むと事故につながるので想像に止めて置いた方が良さそうです。 |
|