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福岡史伝・南北朝・室町
 【観応の擾乱-筑前-】(1351年)

1349年、足利尊氏の右腕の高師直と、尊氏の弟・直義との確執で足利幕府は二派に割れます。 長門探題を努める尊氏の庶子・直冬は叔父(義父)の直義に援軍するため軍を率い上京しようとしますが、 実の父・尊氏より討伐命令が出たため、海路で肥後に逃れます。 そして1350年に筑前の少弐氏に迎えられ、翌年に九州探題の一色氏(尊氏派)の月隈城を攻めます(月隈・金隈の戦い)。 その戦いで城は落ちませんでしたが、その後は直冬と少弐氏が戦いを有利に進めます。 畿内では京を逃れた直義が勢力を挽回すると、翌年に尊氏が和解を申し入れ、高師直は直義派に斬られます。 これで動乱は一旦収束し、直冬は九州探題の職に就きます。しかし、1352年には直義と尊氏の立場が逆転し、直義は鎌倉に逃れそこで没します。 この直義の死をきっかけに二派に別れて戦っていた九州の武家方は、戦う名目を失くし、流れは尊氏派の一色氏に移ります。 また一色氏は宮方とも協調路線をとっていたため、直冬は九州を去り長門へ戻り、少弐頼尚は旗頭を失うことになります。
(2014.11.9)


関連記事:観応の擾乱




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長者原の戦い(1362年)【福岡史伝・南北朝・室町】
鎌倉時代の鎮西探題に代わって設置された九州探題には足利一族の一色氏が就くのですが、 「観応の擾乱」が起こると武家方はこの一色氏と筑前国守護の少弐氏の二派に別れ戦うことになります。 この内訌が要因となり、武家方は劣勢となり一色氏は九州を去り、少弐氏は菊池氏を中心とした宮方に大宰府を奪わ.....

観応の擾乱-筑前-(1351年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1349年、足利尊氏の右腕の高師直と、尊氏の弟・直義との確執で足利幕府は二派に割れます。 長門探題を努める尊氏の庶子・直冬は叔父(義父)の直義に援軍するため軍を率い上京しようとしますが、 実の父・尊氏より討伐命令が出たため、海路で肥後に逃れます。 そして1350年に筑前の少弐氏.....









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名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【観世音寺】-太宰府市観世音寺-




【観世音寺】
百済救援のため九州に下り、661年、朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなった斉明天皇の菩提をとむらうため、天智天皇の発願によって建てられた寺。天平18年(746)完成、盛時、九州の寺院の中心であり、方三町の寺域に七堂伽藍がそびえ、府の大寺とよばれた。日本最古の国宝梵鐘は有名である。

太宰府市

「観世音寺」の案内板より


661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。
その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺に西側に隣接する土地でした。 これよりこの一帯は、「九州を管理する政治庁舎」と「大規模寺院」の建設が同時に進み、それに付随する民家や商家などが増え始め、大都市への基盤が出来上がっていったと思われます。
奈良時代には唐の高僧の鑑真が来日しこの観世音寺で初の授戒を行い、その地には十数年後「戒壇院」が建立されます。 現在の観世音寺には、鐘楼に国宝の「梵鐘」が下がり、多数の重要文化財指定の観音像、菩薩像、阿弥陀如来像など安置されています。



観世音寺 鐘楼

【国宝「梵鐘」】
「この梵鐘は京都妙心寺の鐘と兄弟と云われその古さに於いても亦優秀さに於いても正に日本一と称せられ糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています。

   菅公の詩に
      都府楼纔看瓦色 観音寺唯聴鐘聲
           とあるのはこの鐘であります。」

観世音寺 国宝「梵鐘」の立札より
「菅公の詩」とは菅原道真の漢詩「不出門」の一部の句で、謹慎状態の謫居(たっきょ)で、今の境遇と心境を詠ったものです。

     「都府楼の屋根がわずかに見え、観世音寺の鐘の響がただ聴こえる」

全文を知りたい方は「不出門」でネット検索してみてください。 わかり易く和訳してあるページが多数、見つかると思います。



藤原広嗣と玄昉
737年京都では天然痘が流行し、当時実力者だった藤原四兄弟(藤原不比等の息子たち)が次々と倒れます。 藤原氏の有力者不在で反藤原氏の橘諸兄(たちばなもろえ)が台頭し、唐への留学僧、僧正玄昉(げんぼう)を抜擢します。 当然として改革が断行されたと想像されます。
逆に藤原四兄弟のひとり藤原宇合(ふじわらうまかい)の長男、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は738年に大宰少弐へ左遷されることになります。 大宰府に入った藤原広嗣は、現在の悪政を批判をした上、玄昉などの処分を要求する上表文を朝廷に送りますが、朝廷ではこれを却下し、逆に藤原広嗣に出頭を命じます。藤原広嗣はこの朝廷の対応に憤り740年に大宰府で乱を起こしますが、2ヶ月程で鎮められ唐津で斬られました。
しかし玄昉もその5年後、この観世音寺に左遷され翌年の746年に当地で死去しました。死に関する噂が色々と広まったようですが真相は不明のようです。現在、玄昉の墓は戒壇院の北側に置かれています。











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スポットライト人物伝


【玄昉(げんぼう)】
(?~746年)


藤原氏の有力者たちが当時に流行した天然痘で次々に死去すると橘諸兄(たちばなもろえ)が権力を担い脱藤原氏の体制を目指します。 唐留学僧・玄昉(げんぼう)はその諸兄に抜擢され僧正に任じられますが大和政権での派閥抗争は収束せず、 8年後には自らが観世音寺へ左遷され翌年には原因不明で死去する事になります。現在、戒壇院の北側に玄昉の墓が残っています。



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