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野上一閑と三奈木弥平次(原鶴の一騎打ち)【意外な人物伝】
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写し.....

筑紫広門(1556年~1623年)【福岡人物伝】
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同.....

毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

蒲池氏の滅亡(1581年)【福岡史伝・戦国】
「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、触れなければならないのが佐賀の龍造寺氏の事になります。 1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて防戦する少弐資元は、「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で大内軍を撃退した配下の武将・龍造寺家兼の.....

耳川の戦い-筑前・筑後-(1578年)【福岡史伝・戦国】
大友方の多くの将兵が斃れた耳川 1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に.....

鷲ケ岳城の攻防(1579年)【福岡史伝・戦国】
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知.....

北部九州戦国史(戦国時代)【福岡史伝・戦国】
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。 ところが、1551年にはそ.....

岩屋城の戦い(1586年)【福岡史伝・戦国】
1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められていきます。 8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めます。 秀吉はこれに応え、仲裁を試みますが、九州統一を目前にした島津義久はこれを拒.....

針目城落城の原因(自らの行いで破滅した城番)【福岡悲話】
大友宗麟が「耳川の戦い」で島津軍に大敗すると筑前東南部では秋月種実が宗麟に対し叛旗を翻します。 種実は大友勢の抑止のため筑前と豊後との境界地帯の穂坂(原鶴温泉の東方)に針目城を築き、初山九兵衛という人物を城番とします。 ところがこの武将、女癖が悪かった様で、我が部下の高久保彦次郎という者の容姿端.....

大友宗麟(1530年~1587年)【福岡人物伝】
豊後の守護大名で、最盛期には豊前、筑前、筑後から肥後の北部までを手中に収めます。 政治的な駆引きや武将としての能力は高かったようですが、 性格的に強引な面があったのか、配下の武将が各地で反乱を起しています。 そして1578年の「耳川の戦い」で北上してきた島津軍に大敗し多くの有力武将を失い防戦一方とな.....









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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
衆心は城を成し、衆口は金を鑠(と)かす
-人々の心が結束すればそれは城をなし、人々の批評や噂話は金属でも溶かしてしまうほど怖ろしいものである-
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福岡史伝・幕末・維新
 【最後の仇討】(1880年)

朝倉市秋月 古心禅寺
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。
両親の寝床の惨状が脳裏から離れない六郎は仇討を固く誓い、その想いは年を追うごとに募ります。そして苦節12年で旧秋月藩黒田家別邸にて出会った仇、元干城隊隊士・一瀬直久を父親遺愛の脇差で討ち果たし仇討を成し遂げます。これは明治13年(1880年)12月17日、東京銀座辺りでの出来事になります。
仇討を果たした六郎は黒田家別邸の管理者に邸を汚した事を詫び、人力車に乗り警察へ出頭します。
取調官は一通りの訊問が終わると次に、元福岡の志士・早川勇の記した書(一瀬直久を擁護し、臼井亘理暗殺を肯定視する内容)を提示し六郎に意見を求めますが、それに六郎は「早川氏が一瀬の事を擁護するのは、私が亡き父の仇を報いるのと同じことです。もし違ったとしても、死を決して為した事ですので弁解には及びません。早川氏の望むご処分を願います。」
この言葉に取調官はもう何も言うことができず、逆にその態度に同情と称賛の念を感じざる得なかったといいます。
翌年には、東京裁判所で終身刑の判決が言い渡され、六郎は石川島の監獄に収監されますが、それからしばらくして秋月では一瀬直久の父・亀右衛門が自決します。亀右衛門は臼井亘理の暗殺事件直後、手を下したのが我が子だと知ると驚愕し、直久を強く叱責したと言います。
また母・清子を刃に掛けた萩谷伝之進という人物は女を斬ったという罪の呵責と六郎の復讐に怯え狂死したと言われます。ただ、こちらは出所が不明なので地元に伝わる話なのかもしれません。

それから約十年の服役後、六郎は恩赦を得て釈放されます。六郎は後悔の念を抱くことはなかったものの、仇討とはいえ人を殺害したという思いが付きまとったのか、次の目標も定まらず十数年を気力なく生きたようです。 明治39年、九州鉄道・鳥栖駅周辺の開発に携わる叔父・八坂甚八は六郎の事を気にかけ、鳥栖駅そばに待合所を経営することを勧めます。六郎はこれを受け鳥栖に移り、以後そこで余生を過ごすことになります。そして大正6年に60歳で没し、故郷の秋月・古心禅寺に葬られます。墓碑は父・亘理、母・清子と共に並んで建てられています。


写真は両親とともに六郎が眠る古心禅寺になります。この記事は吉村昭氏の「最後の仇討」および、梅亭化作氏の「復讐奇談 倭魂故郷廼錦」(国立国会図書館デジタルコレクション)、早川勇氏の「一瀬直久履歴書」(早稲田大学リポジトリ)を参考に書いています。「一瀬直久履歴書」は書写文書で一瀬直久の死を悼み、家族に金壱百円を贈った事を記し、以降には臼井亘理の暗殺の経緯が説明されています。
(2021.4.18)









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スポットライト人物伝


【シーボルト(しーぼると)】
(1796年~1886年)


1823年、長崎に来航した翌年に鳴滝塾を開き、患者の診察治療活動や集まった塾生に西洋医学、科学を教授します。 これにより鳴滝塾からは伊東玄朴、高野長英、二宮敬作、伊藤圭介の他に幾多の人材が輩出されます。 またの使命とする日本の動植物の情報を収集していますが、この時、貝原益軒の「大和本草」などの著作に触れ絶賛したといわれます。 1826年の江戸参府の際は、長崎街道を通り、 原田宿(現福岡県筑紫野市・.....[全文を表示]



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