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福岡人物伝 【菊池武光】 菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え着々と勢力を拡大し筑後から筑前へ侵攻します。 この時、筑前では北朝方の少弐頼尚と九州探題・一色範氏との間で内部抗争が起こっていました。 武光は先ず一色範氏と手を結び少弐頼尚に当たり、次に頼尚と同盟し範氏を破ります(針摺原の戦い)。 この戦いで大敗を喫した範氏は後に九州を追われます。 そして武光は残った宿敵・少弐頼尚と「筑後川の戦い」で壮絶な戦い繰り広げ、勝利を勝ち取り2年後には大宰府を奪います。 この時より12年間、九州は南朝勢力が掌握することとなります。 関連記事:武光 |
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福岡史伝・戦国 【蒲池氏の滅亡】(1581年)
1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて防戦する少弐資元は、「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で大内軍を撃退した配下の武将・龍造寺家兼の仲介で義隆と和議を行います。しかし、その2年後に義隆は和議を反故にし資元を多久で自害に追い込みます。この義隆の非情な行動に、少弐氏の家臣・馬場頼周(ばばよりちか)は龍造寺と大内氏のつながりを疑います。そして1544年、馬場頼周は策を巡らし家兼を筑後に追い、龍造寺家の主だった人物を討ち取ります。老齢の家兼は失意の中、筑後の蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元に身を寄せ、佐賀へ復帰の機会を窺います。一方、頼周は龍造寺氏を除くことには成功したものの、少弐配下の武将たちを従える力が不足したのか、その翌年に鍋島氏、千葉氏らの協力を得た家兼に攻められ討たれます。佐賀に復帰がかなった家兼は、出家の身であった曾孫の龍造寺隆信を還俗させ、頭主に据えた後に没します。 その後、龍造寺隆信は大内氏に従いますが、1551年、大内義隆が謀反に合い自刃すると豊後の大友氏が筑前に勢力を張り出し、隆信自身も大友派の家臣から筑後に追われ曽祖父と同じく蒲池鑑盛を頼ります。そして、隆信は2年後には佐賀に復帰を果たしますが、この事で鑑盛は龍造寺氏の危機を二度も救った大恩人となった訳です。 隆信は1559年には少弐氏を滅ぼし、以後は筑前に侵攻する毛利氏と結び徐々に勢力を拡大、1570年には「今山の戦い」で大友の大軍を破り、島津、大友に匹敵する巨大勢力にのし上がります。 そして1578年に大友氏が「耳川の戦い」で島津氏に大敗を喫すると、筑後に侵攻し大友派だった緒豪族を配下に置きます。この時、以前の恩人であった蒲池鑑盛は「耳川の戦い」で大友方の武将として戦死しており、その嫡男・蒲池鎮並(かまちしげなみ)が頭主となっていました。鎮並も筑後の他家と同じく隆信に組するものの、2年後には離反したため、主城の柳川城には龍造寺の大軍が押し寄せます。鎮並は城を守り抜き、隆信も一旦兵を引くものも、鎮並に以後も戦いを続ける余力がありませんでした。 1581年に隆信から和約を理由に佐賀に誘い出された鎮並は、5月27日、佐賀城西側の与賀で龍造寺の兵に囲まれ討たれます。そして翌日には龍造寺配下の鍋島、田尻の軍が柳川城へ押し寄せ容赦なく攻撃し城は落ち、6月1日には支城の塩塚城が落城。塩塚城より東の蒲原(かまはら)に逃れていた鎮並夫人で隆信の娘でもある玉鶴姫は蒲池氏の運命に従い自刃し、子息や侍女らも後を追い、または龍造寺の兵に斬られたといわれます。 疑いが策略を呼び、憎しみが謀略を産む、またその怨讐が在らぬところへ飛び火する非情の時代。しかし、そうとは言え哀れみを掛けた相手から滅ぼされた蒲池氏の人々の事を思うとただ虚しさだけが残ります。この戦いでは龍造寺軍の中にも龍造寺の前途を危ぶみ嘆息を漏らした武将がいたという事です。 |
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