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福岡人物伝 【一色範氏】 「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈・金隈の戦い」で少弐氏と、1353年「針摺原の戦い」で菊池・少弐氏の連合軍と争います。 しかし「針摺原の戦い」で大敗した2年後に範氏は九州を追われることになるのです。 関連記事:範氏 |
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わかっていない事 【卑弥呼は誰?】-百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?- 「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。 「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。この年長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりて以来、見(まみ)ゆる者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。 ~以下略~」 卑弥呼の説としては、次のようなものがあります。 ①西暦300年前後に大和朝廷に滅ぼされた王朝の女王説 ②神功皇后説 ③倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説 などの他、様々な説があります。 ①の説は「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったくの別物と考え、卑弥呼の「邪馬台国」は倭国共和国を代表する国で、のち狗奴国(または他の国)により滅ぼされた国とする説です。そして「邪馬台国」を滅ぼした国が大和朝廷となったという訳です。邪馬台国九州説をとる場合は総じてこの説に行き着くものと思われます。 ②の説は日本書紀に注釈として書かれている説ですが、卑弥呼と神功皇后は年代が100年ほどずれているのが気になります。 ③の説は「邪馬台国」が後の「大和朝廷」とした場合、一番可能性の高い説だといわれています。 そこで倭迹迹日百襲媛命、略して百襲媛(ももそひめ)について触れようと思います。 西暦200年代の後半と思われる崇神天皇の時代に疫病が発生し猛威を振るいます。各地で流浪の民が疫病と飢えに倒れ、道端には無数の屍が放置される凄惨な状態が続きます。そこでこの疫病を鎮めるため崇神天皇は祖父孝元天皇の異母兄妹の百襲媛(ももそひめ)に頼り神託を受けます。そして大田田根子という人物に大物主神(おおものぬしのかみ)を祀らせると、疫病は治まり国にも平和が戻ったといいます。 また崇神天皇は中央集権国家づくりのため、「四道将軍」を東海、北陸、丹波、山陽へ派遣しますが、その隙を突いて叔父(伯父?)の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こします。これを予知した百襲媛は「今すぐに対応しないと遅れをとることになるだろう」と告げます。崇神天皇はすばやく行動を起こし、大坂へ軍を進めてきた武埴安彦命の妻・吾田姫(あたひめ)を「四道将軍」の山陽道方面軍に討たせ、山背より攻めてきた武埴安彦命軍には北陸方面軍を向わせ撃破します。 このような特異な能力を発揮する姿を描かれた百襲媛が「鬼道につかえ、能く民衆を惑わす」卑弥呼に重なり同一人物説となったようです。また「卑弥呼」の読みは百襲媛命(ももそひめのみこと)の最後部分の「ひめのみこと」が「ひめこ」→「ひみこ」になったのではないかといわれています。 現在の奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)が百襲媛の墳墓といわれていますが、その規模が「大きな冢(ちょう-墓-)を作る。径百余歩あり。」(魏志倭人伝)という卑弥呼の墓の大きさとほぼ一致するということです。 |
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