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福岡人物伝
 【一色範氏】

「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈・金隈の戦い」で少弐氏と、1353年「針摺原の戦い」で菊池・少弐氏の連合軍と争います。 しかし「針摺原の戦い」で大敗した2年後に範氏は九州を追われることになるのです。


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針磨原の戦い(1353年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、 そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し 「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあっ.....

南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし.....

菊池武光(1319年~1373年)【福岡人物伝】
菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え着々と勢力を拡大し筑後から筑前.....

一色範氏(?~1369年)【福岡人物伝】
「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈.....









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わかっていない事
 【卑弥呼は誰?】-百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?-

「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。

「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。この年長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりて以来、見(まみ)ゆる者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。 ~以下略~」

卑弥呼の説としては、次のようなものがあります。

①西暦300年前後に大和朝廷に滅ぼされた王朝の女王説
②神功皇后説
③倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説
などの他、様々な説があります。

①の説は「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったくの別物と考え、卑弥呼の「邪馬台国」は倭国共和国を代表する国で、のち狗奴国(または他の国)により滅ぼされた国とする説です。そして「邪馬台国」を滅ぼした国が大和朝廷となったという訳です。邪馬台国九州説をとる場合は総じてこの説に行き着くものと思われます。
②の説は日本書紀に注釈として書かれている説ですが、卑弥呼と神功皇后は年代が100年ほどずれているのが気になります。
③の説は「邪馬台国」が後の「大和朝廷」とした場合、一番可能性の高い説だといわれています。

そこで倭迹迹日百襲媛命、略して百襲媛(ももそひめ)について触れようと思います。

西暦200年代の後半と思われる崇神天皇の時代に疫病が発生し猛威を振るいます。各地で流浪の民が疫病と飢えに倒れ、道端には無数の屍が放置される凄惨な状態が続きます。そこでこの疫病を鎮めるため崇神天皇は祖父孝元天皇の異母兄妹の百襲媛(ももそひめ)に頼り神託を受けます。そして大田田根子という人物に大物主神(おおものぬしのかみ)を祀らせると、疫病は治まり国にも平和が戻ったといいます。
また崇神天皇は中央集権国家づくりのため、「四道将軍」を東海、北陸、丹波、山陽へ派遣しますが、その隙を突いて叔父(伯父?)の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こします。これを予知した百襲媛は「今すぐに対応しないと遅れをとることになるだろう」と告げます。崇神天皇はすばやく行動を起こし、大坂へ軍を進めてきた武埴安彦命の妻・吾田姫(あたひめ)を「四道将軍」の山陽道方面軍に討たせ、山背より攻めてきた武埴安彦命軍には北陸方面軍を向わせ撃破します。
このような特異な能力を発揮する姿を描かれた百襲媛が「鬼道につかえ、能く民衆を惑わす」卑弥呼に重なり同一人物説となったようです。また「卑弥呼」の読みは百襲媛命(ももそひめのみこと)の最後部分の「ひめのみこと」が「ひめこ」→「ひみこ」になったのではないかといわれています。
現在の奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)が百襲媛の墳墓といわれていますが、その規模が「大きな冢(ちょう-墓-)を作る。径百余歩あり。」(魏志倭人伝)という卑弥呼の墓の大きさとほぼ一致するということです。









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スポットライト人物伝


【草野経永(くさのつねなが)】
(?~?)


筑後の御家人で父・草野永綱(くさのながつな)と共に「弘安の役」に参陣します。 博多湾に悠々と停泊する元の船団を目の当たりにした経永は「何とか一泡吹かしてやろう」 と2艘の小船に郎党を分乗させると夜陰に紛れて元の軍船に近づきます。そして敵船に飛び移ると火をかけ、 無警戒だった元軍の兵士たちを次々に討ち取り、凱旋します。 この奇襲戦の成功を知った他の御家人たちは「先を越された!」と悔しがり、その後に多.....[全文を表示]



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