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検索の結果 8件の記事が見つかりました


糸島の平家伝説(平重盛の妻子と都見石)【福岡悲話】
糸島市の二丈満吉には「都見石(みやこみいし)」という史跡があります。 この石は、唐原(とうばる・糸島市満吉の南部)の山中の畑の所々に露出する1~2m程の岩石群の事になります。唐原には、この石に関する伝説が残ります。 時は源平合戦で平家が大宰府に追われた頃の平安時代末期、平清盛の嫡男・平重盛の.....

筑後みやまの平家伝説(平家の史跡)【福岡悲話】
壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。 そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。 .....

芦屋から壇ノ浦へ(1183年~1185年)【福岡史伝・平安】
芦屋町山鹿の城山。手前は遠賀川河口 豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらにな.....

筑後竹野の戦い(1183年)【福岡史伝・平安】
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。 そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動.....

原田種直(?~?)【福岡人物伝】
都落ちした安徳天皇と平家一門を筑紫に迎え入れますが、豊後の兵が攻め寄せて来たため平家一門は着の身着のまま北に向かいます。種直はその後を追い、遠賀川河口の山鹿まで護衛しています。 この約1年後には源範頼が九州上陸を開始し芦屋海岸に攻め寄せたため、これを阻止するため交戦しますが敗れ源氏の軍の上陸を許し.....

鎮西反乱-治承・寿永の乱-(1180年~1185年)【福岡史伝・平安】
1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。 以仁王自身は平家の追手に追い詰められ討たれますが令旨は各地に届けられ、12月には肥後の菊池隆直が反.....

源平合戦後の九州(1185年~)【福岡史伝・鎌倉】
「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家側の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身となります。 そして九州には源頼朝が武藤資頼(すけより)、大友能直(よしなお)、島津忠久(ただひさ)を派遣し、 武藤氏は九州北西部(現在の福岡北部、佐賀、長崎)、大友氏が九州北東部(現在の大分.....

安徳天皇(1180年~1185年)【福岡人物伝】
木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

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【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

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【記想録】佐々木小次郎の経歴

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【記想録】完戸何某との決闘

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
倉廩(そうりん)実(み)ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る
管子





名所旧跡・筑後地区南部
 【蒲船津城跡】-柳川市三橋町蒲船津-


蒲船津城跡

 蒲船津城は、戦国時代、この一帯を治めていた蒲池氏の本拠地である柳川城を守るために設けられた、支城のひとつだったと言われています。
 肥前(佐賀)の龍造寺隆信は、天正九年(一五八一)に柳川城主の蒲池鎮並(かまちしげなみ)を謀殺すると、一気に柳川に攻め込み、蒲池氏のせん滅を企でました。この時、黒木(蒲池)益種が蒲船津城を守っていましたが、龍造寺勢の猛攻にあい落城。その後、龍造寺四天王のひとり、百武賢兼(ひゃくたけともかね)が城番になったと伝えられています。
 城の正確な位置はわかっていません。次郎丸や旗角目(はたがくめ)、門の内などの呼び名が残っている、字村中(むらなか)周辺が城跡だったと考えられています。
平成十八年六月

柳川市教育委員会

熊野神社前の案内板より











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スポットライト人物伝


【後藤又兵衛(ごとうまたべえ)】
(1560年~1615年)


関ヶ原の戦いなどで名を上げ黒田家を代表する武将となりますが、黒田如水の没後、藩主・長政とそりが合わず福岡藩を出奔します。 又兵衛の武名を惜しむ声は多かったもの黒田家に遠慮し召抱えようとする大名は少なかったようで数年間の浪人生活を送ります。 その後「大阪冬の陣・夏の陣」で久々に活躍の場を得た又兵衛は豊臣方の中心武将として戦国最後の戦場で華々しく散る事になります。



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