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福岡史伝・戦国 【豊臣秀吉の筑前一夜城】(1587年) 夜になり古処山から益富城方面を臨むと、そこは見渡す限り秀吉軍のかがり火で満ち溢れ、翌日には城の建て替えも始まり時を置かずして完成します。また、秀吉の軍の馬には仮面が被せられておりその形相が龍蛇に見えたため兵士たちは「上方の軍馬は馬にあらず」と言い合ったといわれます。これらの事で秋月の将兵は戦意を消失し、種実は息女と天下の茶器「楢芝」を差出し降伏します。 この時の事を貝原益軒は「黒田家譜」に次のように記述しています。 「敵の気を奪はん為、暮に及てわざと嘉摩穂波の村々に、かがり火を多くたかせ給う。南は桑野より、北は飯塚の辺に及べり。秋月家人共、古処山の頂より東の方を見渡せば、秀吉公の軍兵両郡に充満して、諸軍の陣に燃す火は晴たる空の星のごとく、野も山も村里も皆軍兵とみえて夥(おびただ)し。夜明て古処の山上より大隈の城をみれば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来腰板を打たれば、見る者驚きて神しょう(神のなせる業)のおもひをなせり。是は敵の目を驚かし、勇気をくじかせんために、播磨杉原の紙を以、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨をぬり、腰板にさせ給けるなり。」 写真は益富城跡がある嘉麻市大隈町城山。大隈町では10月末から11月にかけて「一夜城祭り」が執り行なわれ、期間中、城山には益富城が出現しライトアップされています。 関連記事:益富城,一夜城,豊臣秀吉 |
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福岡史伝・鎌倉 【弘安の役】(1281年)
「文永の役」のように上陸が簡単でないことを知った東路軍は、 江南軍と落ち合うために博多湾を去り西に向かいます。この時、元の軍船の中では疫病が発生し3000人程が病死していました。 そして約1ヶ月遅れて江南軍が到着し東路軍と落ち合います。両軍は平戸あたりに集結し、7月27日には松浦の鷹島を攻撃します。 ここでも松浦軍や島津軍の攻撃に悩まされ、上陸に手こずります。 そして7月30日夜半に台風が九州北部を通過し、元の軍船はことごとく波にのまれ壊滅します。たった一晩の出来事で 5000近い軍船が没し、兵士14万の内、自国へ戻れたものは2万ほどで10万以上が海にのまれたといわれています。 「弘安の役」ではとかく「神風」の話が大きく伝えられます。これが元軍の侵攻を防いだ第一の要因なのは間違いないのですが、 九州を中心とする武士団が地道な努力で築いた防塁と、 上陸を喰い止めるため必死で抗戦したことが「神風」に劣らない大きな要因ではないかと思わずにはいられません。 (2011.7.10) |
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