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余談
 【五郎山と天山と宝満山】

五郎山と天山と宝満山
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)
 手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。
 手前から2番目のやや右手の山が昔は天山(あまやま)と呼ばれた宮地岳になります。徐福伝説に因む「童男丱女岩」と呼ばれる岩石群が見られ、戦国時代にはこの山の麓に筑紫広門配下の柴田城がありました。広門と同盟関係にある秋月種実はこの城を足掛かりに、高橋紹運の岩屋城城下に攻撃を仕掛けています。
 そして一番奥の左手の山が宝満山で、高橋紹運配下の難攻不落の宝満城があった山になります。島津氏の筑前攻略の際には紹運と手を結んだ筑紫広門配下の兵と紹運の次男・高橋統増が守りますが、広門が島津勢に降伏し、紹運は岩屋城(太宰府市・大野山にあった城)で壮絶な戦いの末に自刃したため、筑紫の兵の勧めで開城降伏しています。






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臼井六郎の生誕地(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
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二卿事件-久留米藩難-(1871年)【福岡史伝・幕末・維新】
明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」という出来事が、これより以前の明治4年に発生しています。 これは、幕府を倒したものの、攘夷を断行しない新政府を再度倒して、攘夷を敢行す.....

最後の仇討(1880年)【福岡史伝・幕末・維新】
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。 .....

羽白熊鷲の碑(2021.3.30)【余談】
仲哀天皇御代 木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり其の長を羽白熊鷲という 荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す 神功皇后 新羅征討の途次橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣中なりしが、斯(か)かる形勢を関知し 先づ内患を断つ事の急務なるを悟り 従駕の臣 武内宿禰(たけの.....

男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います.....

豊臣秀吉の筑前一夜城(1587年)【福岡史伝・戦国】
島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は居城とした益富城(嘉麻市大隈町)を捨て本拠地の古処山城(秋月の北東の山頂)に籠もります。 夜になり.....

野上一閑と三奈木弥平次(原鶴の一騎打ち)【意外な人物伝】
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写し.....

五郎山と天山と宝満山(2018年3月5日)【余談】
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)  手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。  手前から.....

貝原東軒(1651年~1713年)【福岡人物伝】
秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で.....

筑紫広門(1556年~1623年)【福岡人物伝】
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

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荘子





福岡悲話
 【お綱門の事】(江戸時代)-福岡城内での悲劇-

福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になります。その女人の名が「お綱」でこの事件の頃からこの門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。そして巷では「お綱門に触ると高熱が出て死んでしまう」などといった噂が広がり、夜警の兵卒もお綱門方面の巡回を非常に怖れたと言います。

この事件の発端は藩主・忠之が参勤交代の帰りに大阪の芸妓を連れ帰り城内に住まわせたことから始まります。この事に気分を害した忠之の奥方からの依頼で重臣たちは「ほどほどに・・・」と幾度も忠之を諌めます。忠之は仕方なく近臣の浅野四郎左衛門へこの芸妓を譲り渡しますが、四郎左衛門はこの芸妓を城内の邸宅に住まわせ、正妻のお綱と幼い二人の子供を馬出(まいだし・福岡城より北東4㎞)の別宅に移します。面目を失くしたお綱はひたすら耐え忍ぶ日々を過ごすのですが、四郎左衛門は賄いを入れなくなるどころか別宅に顔をも出さなくなります。この仕打ちに遂に耐え切れなくなったお綱は二人の子供を刺し殺し、長刀を持ち出し夫のいる福岡城へ乱入することになるのです。

事情が事情なので事件に関わった人々は多くを語らず真実のところは伝わっていない様で、そのためか、この話には多くの脚色がなされ怪談話として物語風に伝わっているのかもしれません。
ただ夫から遠ざけられた女性が二人の幼い我が子を手に掛け、長刀を持って乗り込んだ福岡城で斬られたのは事実の様です。馬出には母子三人の墓石が今も残っているという事です。









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スポットライト人物伝


【亀井南冥(かめいなんめい)】
(1743年~1814年)


大阪で儒学や医学を学び1785年に福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長となります。 この頃に志賀島で発見された金印を漢の光武帝より奴国王へ送られた「漢委奴国王印」と鑑定します。 これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印です。 甘棠館は後に廃校となり学生は東学問所の修猷館に統合されますが、 私塾亀井塾として亀井学派は存続し門下生から平野國臣や高場乱、広瀬淡窓などを排出しています。 広瀬淡窓.....[全文を表示]



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