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福岡史伝・戦国 【毛利氏の筑前侵攻】(1557年~) 翌年、元就は関門海峡を渡り門司城を攻略。これに対し大友宗麟も兵を送りこの攻防戦は3年ほど続きますが最終的に元就が門司城を奪取し筑前攻略の足掛かりとします。 そしてこの間に秋月種実と筑紫惟門は旧領に戻り、再び反旗を掲げます。元就も着々と豊前の攻略を行いますが、1564年、石見の尼子氏と戦うために、大友氏と和睦し東に兵をとって返します。そのため筑前騒乱は収束に向かいますが、それも束の間、元就は1566年に尼子氏を下すと、再び九州に兵を向け筑前は慌しくなります。 1567年には秋月種実が再度挙兵し「休松の戦い」で大友の大軍を大混乱に陥れます。また宝満城で大友の重臣・高橋鑑種(あきたね)が反旗を翻し、また翌年には西の大友と呼ばれる立花城の立花鑑載(あきとし)までもが毛利氏に寝返ります。そして肥前の龍造寺隆信もこの混乱に乗じ東に触手を伸ばします。 この危機的状況に大友宗麟は先ず、戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)に命じ立花城の立花鑑載を猛攻、自刃させます。次に大軍を肥前に送り筑紫惟門を討ち、龍造寺隆信を攻めますが、毛利氏が筑前に侵攻して来たため、隆信と急きょ和睦し、毛利軍と戦うため兵を北へ向け、多々良川をはさみ対峙します(1569年「多々良浜の戦い」)。緒戦では優劣が付かず、お互いに睨み合いが半年ほど続きます。 その間に宗麟は以前に大内義興(よしおき、義隆の父)に謀反、失敗し豊後に逃れていた大内輝弘(義隆の従兄弟)に兵を付けを周防に上陸させ、また石見を追われた尼子氏の遺臣を支援し、敵の後方を攪乱します。このため毛利元就は本国守備のために筑前より撤退せざるおえなくなります。 毛利氏の支援を失くした秋月種実は降伏、高橋鑑種は開城を条件に豊前・小倉へ移ります。 以後、毛利氏は織田信長の命で中国へ侵攻して来た羽柴秀吉と戦うため東へ兵力を集中することとなり、筑前の騒乱は大友宗麟が「耳川の戦い」で大敗を喫する1578年までの約10年の間、一旦、鎮まります。 関連記事:毛利,大友 |
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福岡悲話 【お綱門の事】(江戸時代)-福岡城内での悲劇- 福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になります。その女人の名が「お綱」でこの事件の頃からこの門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。そして巷では「お綱門に触ると高熱が出て死んでしまう」などといった噂が広がり、夜警の兵卒もお綱門方面の巡回を非常に怖れたと言います。 この事件の発端は藩主・忠之が参勤交代の帰りに大阪の芸妓を連れ帰り城内に住まわせたことから始まります。この事に気分を害した忠之の奥方からの依頼で重臣たちは「ほどほどに・・・」と幾度も忠之を諌めます。忠之は仕方なく近臣の浅野四郎左衛門へこの芸妓を譲り渡しますが、四郎左衛門はこの芸妓を城内の邸宅に住まわせ、正妻のお綱と幼い二人の子供を馬出(まいだし・福岡城より北東4㎞)の別宅に移します。面目を失くしたお綱はひたすら耐え忍ぶ日々を過ごすのですが、四郎左衛門は賄いを入れなくなるどころか別宅に顔をも出さなくなります。この仕打ちに遂に耐え切れなくなったお綱は二人の子供を刺し殺し、長刀を持ち出し夫のいる福岡城へ乱入することになるのです。 事情が事情なので事件に関わった人々は多くを語らず真実のところは伝わっていない様で、そのためか、この話には多くの脚色がなされ怪談話として物語風に伝わっているのかもしれません。 ただ夫から遠ざけられた女性が二人の幼い我が子を手に掛け、長刀を持って乗り込んだ福岡城で斬られたのは事実の様です。馬出には母子三人の墓石が今も残っているという事です。 |
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