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福岡史伝・戦国 【耳川の戦い-筑前・筑後-】(1578年) 1578年11月、戦いは現在の宮崎県木城町高城辺りで行われました。合戦前には大友の武将たちに意見の不一致があり、中途半端な状況で一部の武将が戦いを始め、これに他の軍も引きずられるように戦線に加わります。大友軍は緒戦で敵を蹴散らした勢いで島津軍本隊と戦うため高城川(小丸川)を渡りますが、そこへ四方から一斉に島津軍が突撃し、大友の軍勢は大混乱に陥り形勢は逆転、北へ向けて敗走します。島津軍はこれを追い20km以上離れた耳川に追い詰めます。混乱を極めた敗走の軍は川を渡る手立てもなく次々に討たれ、川を渡ろうとした者も底の深い流れに呑まれて行きます。こうして大友宗麟は頼りとした百戦錬磨の将兵たちの多くを耳川に失い、以後、急速に勢力を縮小して行く事になるのです。 大友方のこの大敗で、筑前、筑後も風雲急を告げます。 筑後の諸豪族は勢力を拡大する容赦のない龍造寺隆信になびき、筑前南東部では秋月種実が大友の筑前諸城と本拠地・豊後を分断、筑前西部では龍造寺とつながる原田信種が勢力を拡大し、肥前南東部からは筑紫広門が龍造寺と共に筑前南部の大友方の城を狙います。大友の重鎮・立花道雪は養子の立花統虎(宗茂・高橋紹運の長男)に立花城を守らせ、自らは軍勢を率い筑後勢力と対峙し、岩屋城の高橋紹運は東に秋月種実と西に筑紫広門の両面の敵を抱える情勢となります。 写真の「高城川古戦場」は宮崎県児湯郡木城町高城。「耳川」は宮崎県日向市美々津町で撮影したものになります。 関連記事:耳川の戦 |
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福岡史伝・鎌倉 【元弘の乱-博多-】(1331年) 後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、 この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集め収拾に努めようとします。 この呼びかけで博多に向かった、肥後の菊池武時、筑前の少弐貞経、豊後の大友貞宗は鎮西探題を倒す密約を交わしていたといわれます。 博多に入った菊池武時は1333年3月13日に事を決行しようとしますが、時期尚早と判断した少弐貞経と大友貞宗は立たず、 逆に探題側につき、兵250を率いて鎮西探題に攻め入った菊池武時を攻撃し敗死させます。 菊池武時は前日の夜、少弐貞経と大友貞宗に決起要請の使者を送っていますので、当然探題側は武時の動きを掴んでおり 攻撃してくるのを待ち構えていました。もちろん武時もこの状況はわかっていたはずで決死の覚悟で戦いに望んだと思われます。 この事件から2ヶ月後の5月7日には足利高氏は六波羅探題(京都)を落とし、5月22日鎌倉が新田義貞の軍によって陥落します。 そしてその3日後の5月25日に鎮西探題の北条英時は室見川河口付近にあった鷲尾城で少弐貞経、大友貞宗、島津貞久等に攻められ自刃し、 北条氏の勢力は崩壊します。 この「元弘の乱」から3年後に大宰府へ攻め込んだ菊池武敏(菊池武時の九男)は少弐家の城、有智山城を攻め落とし父の仇、少弐貞経を自害させます。 しかし「多々良浜の戦い」で足利尊氏と少弐貞経の嫡男・頼尚の軍に破れ、肥後に撤退します。 (2011.7.9) |
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