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毛利勝永(1578年~1915年)【福岡人物伝】
毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋がりで、姓を毛利に改めます。しかし毛利氏との間に太い血縁はなかったようです。 関ヶ原の戦いでは西軍に.....

吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り.....

羽犬塚の由来(2020.8.3)【余談】
羽犬塚の由来は、二つあるようです。 一つは九州征伐の際、豊臣秀吉が連れてきた羽がはえたかのようにすばしっこく走り回る犬がこの地で死んだため、塚を作り「羽犬塚」としたという言い伝えと、もう一つはこの地に人馬を襲う羽のはえた凶暴な犬がいたため、九州征伐で当地を訪れた豊臣秀吉が退治し塚を建てたという.....

豊臣秀吉の筑前一夜城(1587年)【福岡史伝・戦国】
島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は居城とした益富城(嘉麻市大隈町)を捨て本拠地の古処山城(秋月の北東の山頂)に籠もります。 夜になり.....

マルちゃん訪問(2018年10月9日)【余談】
先日、テレビで有名になった嘉麻市・前田酒店の店番犬・マルちゃんに会いに行ってきました。 中に入ると、マルちゃんは店内の片隅でお昼寝中。 見知らぬ来客に気がついたマルちゃん、戸惑い気味でおかあさんの顔をチラチラ確認、危ない客でないことが解ると立ち上がり近づいて来てくれました。 前田酒店の.....

筑紫広門(1556年~1623年)【福岡人物伝】
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同.....

毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

高橋と筑紫の和約(1586年)【福岡史伝・戦国】
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑ん.....

耳川の戦い-筑前・筑後-(1578年)【福岡史伝・戦国】
大友方の多くの将兵が斃れた耳川 1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に.....

北部九州戦国史(戦国時代)【福岡史伝・戦国】
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。 ところが、1551年にはそ.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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2022.12.25

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
兵とは詭道(きどう)なり
-戦いとは騙し合いで何が起こるかわからない、十分に注意が必要である-    
孫子





福岡史伝・南北朝・室町
 【今川氏の九州攻略】(1372年)

1370年、九州に入ることも叶わなかった渋川義行に代わり九州探題に命じられた今川了俊は、 九州攻略を三方面より進める策を取り、豊後に嫡男の今川貞臣を上陸させ高崎山城に籠城させます。 また弟の今川仲秋を肥前へ上陸させ大宰府へ向かわせ、そして自らは豊前門司より大内氏などの中国勢と共に上陸します。 この間、宮方の菊池武光の嫡男・菊池武政は高崎山城の攻略から、肥前方面の今川勢の押さえへと慌しく動きますが、 今川の勢いを止めることはできませんでした。 了俊はその半年後(1372年6月)に懐良親王、菊池武光を筑後に追い、大宰府を12年ぶりに武家派の勢力下に置きます。
(2014.11.1)









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スポットライト人物伝


【菅原道真(すがわらみちざね)】
(845年~903年)


菅原道真は優れた才能で朝廷での位を次々に進めますが、藤原時平の画策により大宰府へ配流されます。 そして翌年には京都より伴った幼い子供が亡くなり、京都からは妻の死の知らせが入ります。 そして自身も失意の中で病を得て病没することになります。 遺骸は安楽寺へ埋葬されますが、後にその地に太宰府天満宮が創建され、その学才から学問の神様として祀られることになります。



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