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検索の結果 11件の記事が見つかりました


親不孝通りの史跡(2018年4月7日)【余談】
先日久振りに所用で天神に出たので、ついでに親不孝通りに足を伸ばしました。 「親不孝通り」は随分以前に「親富考通り」に名称変更されたのですが、噂どおり「親不孝通り」の呼称に戻された様です。 ところでこの親不孝通りは中洲に匹敵する福岡市を代表する繁華街として有名なのですが、その近隣では隠れた史跡を散.....

月形洗蔵幽閉の地(筑紫野市)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
月形洗蔵は尊王の志士としては平野国臣に劣らない思想家だったようです。 しかし、この碑にも書かれているように幽閉の期間が4年と長く、活動家として行動できたのは、あまりにも短い元治元年5月~慶応元年6月の約1年間でした。 .....

延寿王院(太宰府市宰府)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
七卿落ちの碑 延寿王院 菅原道真公 歌碑 参道を進み突き当たるとそこに延寿王院があります。ここには幕末の「七卿落ち」の内、五卿が長州より移り3年ほど滞在しました。 五卿滞在中には、土佐の中岡慎太郎、長州の高杉晋作、薩摩の西郷隆盛の他、維新の名だたる.....

平尾山荘(平尾山荘公園)【名所旧跡・中央区城南区】
野村望東尼が勤皇の志士たちとつながりを持ったのは同じ歌人であった平野國臣を通してだと思われます。 1858年の「安政の大獄」で幕府から追われる月照を匿いますがこれは平野國臣を介してのものと思われ、その後、國臣は薩摩まで月照の警護を勤めます。 この辺りから、この山荘は勤皇の志士たちが集う.....

乙丑の獄(1865年)【福岡史伝・幕末・維新】
1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、 筑前・平尾山荘に逃れていた高杉晋作は同年12月に下関へ戻り挙兵、 翌1月には幕府へ恭順を示す保守派を倒し、幕府への対決姿勢を明らかにします。 これに神経を尖らせた幕府首脳は五卿の元に集まる志士や筑前勤皇党の不穏な行動を.....

五卿の大宰府入り(1865年)【福岡史伝・幕末・維新】
会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島に集結させます。 これに長州藩は恭順の意を表し、三家老を切腹させ五卿を他藩に送るという条件に従いますが、この五卿を引き受けたのが福岡藩です。 藩では五卿を迎えるため幽閉中の勤皇家・月形洗蔵.....

幕末・明治(勤皇の志士たちと「秋月の乱」)【一夜漬け福岡史】
幕末期には、真木和泉や平野國臣などの勤皇の志士が登場します。二人は1862年4月、薩摩藩の「寺田屋事件」に関わり捕らえられ、 それぞれ久留米藩、福岡藩へ送還されますが、一年後には許され再び志士活動を開始し京に上ります。 しかし京都では1863年8月に突然政変が起こり、朝廷に強い影響力のあ.....

月形半平太って誰?(薩長同盟のもう一人の立役者、月形洗蔵)【意外な人物伝】
「月様雨が」 「春雨じゃ濡れて参ろう」 月形半平太は大正時代にヒットした舞台劇「月形半平太」の主人公の名前です。 この架空の志士のモデルは土佐の武市半平太らしいのですが、苗字の月形は福岡の志士、月形洗蔵よりとられたものではないかといわれています。 月形洗蔵は福岡藩での幽閉の時期が長く、志.....

七卿落ちではなく五卿落ち?(五卿のその後)【意外な人物伝】
1863年「8月18日の政変」で会津薩摩の両藩に長州藩が京都を追われると、攘夷派の三条実美ら七卿も長州に落ち延びました。これが世に言う「七卿落ち」です。その後、七卿の一人、澤宣嘉は1863年10月「生野の変」に平野国臣と共に身を投じ、もう一人、錦小路頼徳は1864年6月長州にて病没します。残った五卿.....

早川勇(1832年~1899年)【福岡人物伝】
月形洗蔵と共に五卿の太宰府入りを実現し、薩摩と長州の仲を取持つため奔走します。 そして同じ大庄屋の出の中岡慎太郎とは強いつながりを持ち、西郷隆盛との会談を取持っています。 このような勇らの地道な努力が後の薩長同盟へつながってゆくのです。 勤皇党弾圧の「乙丑の獄」では幽閉されますが、中心的な人物の中.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
勝つことばかりを知り、負くることを知らざれば害その身に至る
徳川家康





福岡史伝・平安
 【鎮西反乱-治承・寿永の乱-】(1180年~1185年)

源氏軍が上陸した芦屋町の芦屋海岸
1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。
以仁王自身は平家の追手に追い詰められ討たれますが令旨は各地に届けられ、12月には肥後の菊池隆直が反旗を翻し、平家の武将・原田種直と筑紫で戦い大宰府は兵火に焼かれます。
これに対し平家は鎮圧のため翌年8月に平貞能(たいらさだよし)を派遣します。貞能の父・家貞は平清盛の腹心として平家の九州統治に軍事面で活躍した人物で、そのような事情から平貞能は父親の影響力のある九州の平定に任命されたものと思われます。貞能は1182年4月に菊池隆直を降伏させ京に戻りますが、その時にはもう京に源義仲の軍勢が迫り、平家一門は大混乱に陥った状況でした。そのため貞能は平家一門と共に大宰府に落ち再起を図りますが、そこに以前まで平家と主従関係であった豊後の緒方惟義が「九州より退去せよ」と勧告の使者を送りつけてきます。平家一門は大宰府をも追われ四国屋島に向かうのですが、貞能は一門とは別れ九州に留まったといわれています。

その後、平家は一時勢力を盛り返すものの1184年2月には「一ノ谷の戦い」で大敗を喫し、1年後の1185年2月1日には緒方惟義より軍船の提供を受けた源氏の軍が九州上陸を開始します。これを平家方の原田種直が葦屋浦で食い止めようと必死で抵抗しますが敗れ(葦屋浦の戦い)、平家は九州の地を完全に失います。同月の19日には讃岐で「屋島の戦い」に敗れ、平家一門は海上に逃れ最後の拠点の長門・彦島に向かいます。四面楚歌となった平家は5日後の24日に壇ノ浦で最後の決戦を挑みますが遂に敗れ、平家の人々は海にのまれ、かろうじて生き残った兵士たちも各地へ四散します。ここに二十数年の栄華を誇った平家も滅び去ります。

鎮西反乱に関わった武将たちのその後は様々です。
平貞能は源氏に降り宇都宮氏の元で余生を送ったとされ、その貞能に降伏した肥後の菊池隆直は「壇ノ浦の戦い」まで平家方の武将として戦い、戦後に鎌倉方に斬られます。そして主従関係を絶って平家を追い落とした緒方惟義は源平合戦を勝ち抜くものの、頼朝と不仲となった義経の九州落ちに従い「大物浦の難破」に巻き込まれます。以後は豊後に戻り隠棲したとも病死したとも言われています。始終、平家のために戦った原田種直は捕らえられ鎌倉に送られるものの数年後に許され怡土の領地を再び与えられます。

そして「壇ノ浦の戦い」で生きながらえた平家の人々は九州の山深くに分け入り、「落人伝説」を残すことになるのです。

        -参考「源平合戦辞典」(福田豊彦氏、関幸彦氏/吉川博文館)-









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スポットライト人物伝


【竹崎季長(たけざきすえなが)】
(1246年~?)


肥後の竹崎季長は文永・弘安の役に参陣し奮戦します。 戦後は「蒙古襲来絵詞」を残しますが、現在ではこの絵巻が戦役の重要な資料となっています。



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