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余談 【吉塚の由来】 立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り書かれています。 今度島津より、其父をほろぼしたる事を安からずおもひ、纔(わずか)の手勢にて、八月二十五、彼、高鳥居の城におしよせ、即時に攻落し、城主星野を始め、悉(ことごとく)切崩しける。 この戦いで討たれたのが星野吉実、吉兼の兄弟になります。吉実は統虎を抑えるために島津より高鳥居の城を堅守するように命じられていました。吉実自身は兵をまとめて、自領の筑後・星野に戻りたかったのでしょうが、島津の軍は未だ筑後に有り、身内の者たちを人質に取られるも同然だったのかもしれません。 吉実の首は実検のあと博多の町の東に埋葬され、その塚は地元の人々から「吉実塚」と呼ばれ後に地蔵堂が建てられます。この事が吉塚の地名の由来になります。 江戸前期に書かれた貝原益軒の『筑前国続風土記』には吉塚という地名は記載されていませんので、この地が吉塚と呼ばれるようになったのはおそらく江戸の中期以降の事だと思われます。 吉塚地蔵尊はJR吉塚駅(博多駅から一つ北の駅)から南に200m位のところに祀られています。 |
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意外な人物伝 【日本国王・良懐とは誰?】(1370年)-明の抗議に応対した親王-
倭寇に手を焼いた明の洪武帝(こうぶてい)は趙秩(ちょうちつ)という者を抗議の使者として日本へ送ります。 趙秩は日本が明に服従しないことを咎める内容の国書を持参しますが、これに応対した懐良親王は「元寇」を引き合いに出し「貴殿は元(げん)の使者の趙良弼(ちょうりょうひつ)と同じ苗字だが、もしかして蒙古の子孫ではないのか?良弼と同じようにたぶらかし我が国を攻めるつもりであろう」と左右の者に目配せして趙秩を斬らせようとしますが、趙秩は動じる事なく「明国を蒙古などと同じくするな、私も蒙古の子孫などでない。斬りたくば斬れ」と返します。 懐良親王はこの態度に気がくじけ(この時は始めから斬るつもりではなかったと個人的には思うのですが・・・)、高座より降り趙秩を招き入れ礼をもって待遇したといいます。 この「明史」に懐良親王は「日本国王・良懐(りょうかい)」として登場しています。 写真は「筑後川の戦い(大原合戦)」で勝利するものの、負傷した懐良親王が傷の全快に感謝して大中臣神社に植樹したと言われる「将軍藤」になります。 |
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