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わかっていない事 【親魏倭王印はどこにある?】-もう一つの金印が発見されれば!!- 西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見される事になれば、その地が幻の邪馬台国である可能性が非常に高くなるのです。 三国志の倭人の項ではこの「親魏倭王」印の事が次のとおり書かれています。 今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封帯方太守假授汝 今、汝(卑弥呼)を以って「親魏倭王」と為し、金印紫綬を装封(包装封印)して帯方太守へ送り汝に与える ここには「親魏倭王と為し」と書かれているのみで、この金印に「親魏倭王」と刻印されていたかは不明です。ただ「親魏倭王」と任命されたからには刻印も「親魏倭王」であった可能性は低くはないと思われます。もしもそうであったならば、印の文字構成が「王朝名」+「民族名」+「部族や国名」という定石には例外があるとなるわけで、刻印の文字には王朝、民族、部族、国名の他に形容詞や動詞が入る可能性が出てくるのです。 もし「親魏倭王」印が発見されることがあれば、邪馬台国の所在地ばかりではなく、「漢委奴國王」の読み方にも大きな影響を与えるのかもしれません。 しかし三国志「親魏倭王」印の記事には假(仮)と書かれており、一旦は帯方太守の劉夏の元に送られたのはまずは間違いなのでしょうが、その後に邪馬台国まで無事に届けられたのかは、残念ながらそこには記載されていない様です。 関連記事:親魏倭王,金印,漢委奴国王 |
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福岡史伝・奈良 【藤原広嗣の乱】(740年) 天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、 反藤原氏の橘諸兄(たちばなのもろえ)が権力を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、 藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の勢いが強く結局、大宰府に左遷されます。 大宰府に入った広嗣はそこで挙兵しますが、小倉の板櫃川(いたびつがわ)で朝廷軍に破れ、朝鮮半島へ逃れようとします。 しかし嵐に遭い果たせず値嘉島長野村(五島?)に潜伏しているところを捕らえれ唐津で斬られました。 これが「藤原広嗣の乱」です。 その十数年後、藤原四兄弟の長男武智麻呂(むちまろ)の息子、藤原仲麻呂が権力を握ると、756年橘諸兄は失脚し、 翌年死去します。その年諸兄の息子、奈良麻呂も謀反の罪で捕らえられ獄死することになります。 蛇足になりますが、この藤原仲麻呂自身もこの8年後の764年、 孝謙上皇に取り入った僧、弓削道鏡を除くため謀反を起こし一家共々斬られることになります。 再び蛇足になりますが、この道鏡も770年に後ろ楯であった称徳天皇(孝謙上皇)が崩御すると力を失い「東戒壇」の下野薬師寺に左遷され、 2年後にその地で死去します。 (2011.6.9) |
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