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意外な人物伝 【男装の漢詩人・原采蘋】(江戸時代末期)-酒豪の女流詩人- 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います。 古処の没後も采蘋は、京都、江戸へと遊歴を続け、その間に教えを乞うた学者や詩人には咸宜園の広瀬淡窓、日本外史を書いた頼山陽、安政の大獄で捕縛される直前に死去した梁川星巌など歴史に名を遺す人が多くいます。 ところで采蘋の男装帯刀は一人旅でのトラブルに巻き込まれるのを避けるためといわれていますが、実際の采蘋は大柄で大酒家、名だたる学者の前でも動じることがなかったといい、女傑だったことも伺われます。 因みに采蘋は頼山陽の弟子・江馬細香、梁川星巌の妻・梁川紅蘭と共に三大女流漢詩人といわれています。 写真は筑紫野市山家にある原采蘋の私塾跡になります。 関連記事:采蘋,秋月,山家 |
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福岡史伝・戦国 【毛利氏の筑前侵攻】(1557年~)
翌年、元就は関門海峡を渡り門司城を攻略。これに対し大友宗麟も兵を送りこの攻防戦は3年ほど続きますが最終的に元就が門司城を奪取し筑前攻略の足掛かりとします。 そしてこの間に秋月種実と筑紫惟門は旧領に戻り、再び反旗を掲げます。元就も着々と豊前の攻略を行いますが、1564年、石見の尼子氏と戦うために、大友氏と和睦し東に兵をとって返します。そのため筑前騒乱は収束に向かいますが、それも束の間、元就は1566年に尼子氏を下すと、再び九州に兵を向け筑前は慌しくなります。 1567年には秋月種実が再度挙兵し「休松の戦い」で大友の大軍を大混乱に陥れます。また宝満城で大友の重臣・高橋鑑種(あきたね)が反旗を翻し、また翌年には西の大友と呼ばれる立花城の立花鑑載(あきとし)までもが毛利氏に寝返ります。そして肥前の龍造寺隆信もこの混乱に乗じ東に触手を伸ばします。 この危機的状況に大友宗麟は先ず、戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)に命じ立花城の立花鑑載を猛攻、自刃させます。次に大軍を肥前に送り筑紫惟門を討ち、龍造寺隆信を攻めますが、毛利氏が筑前に侵攻して来たため、隆信と急きょ和睦し、毛利軍と戦うため兵を北へ向け、多々良川をはさみ対峙します(1569年「多々良浜の戦い」)。緒戦では優劣が付かず、お互いに睨み合いが半年ほど続きます。 その間に宗麟は以前に大内義興(よしおき、義隆の父)に謀反、失敗し豊後に逃れていた大内輝弘(義隆の従兄弟)に兵を付けを周防に上陸させ、また石見を追われた尼子氏の遺臣を支援し、敵の後方を攪乱します。このため毛利元就は本国守備のために筑前より撤退せざるおえなくなります。 毛利氏の支援を失くした秋月種実は降伏、高橋鑑種は開城を条件に豊前・小倉へ移ります。 以後、毛利氏は織田信長の命で中国へ侵攻して来た羽柴秀吉と戦うため東へ兵力を集中することとなり、筑前の騒乱は大友宗麟が「耳川の戦い」で大敗を喫する1578年までの約10年の間、一旦、鎮まります。 |
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