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意外な人物伝
 【男装の漢詩人・原采蘋】(江戸時代末期)-酒豪の女流詩人-

山家・原采蘋の塾跡
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。
父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います。
古処の没後も采蘋は、京都、江戸へと遊歴を続け、その間に教えを乞うた学者や詩人には咸宜園の広瀬淡窓、日本外史を書いた頼山陽、安政の大獄で捕縛される直前に死去した梁川星巌など歴史に名を遺す人が多くいます。
ところで采蘋の男装帯刀は一人旅でのトラブルに巻き込まれるのを避けるためといわれていますが、実際の采蘋は大柄で大酒家、名だたる学者の前でも動じることがなかったといい、女傑だったことも伺われます。
因みに采蘋は頼山陽の弟子・江馬細香、梁川星巌の妻・梁川紅蘭と共に三大女流漢詩人といわれています。
写真は筑紫野市山家にある原采蘋の私塾跡になります。





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最後の仇討(1880年)【福岡史伝・幕末・維新】
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。 .....

吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り.....

親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見.....

男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います.....

朝倉の三連水車(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰 朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけると意義のある観光になるかもしれません。 筑後川が大きく南に蛇行する山田の地に江戸時代に設けられた山田堰。この堰は筑後川の北側に農業.....

儀右衛門 からくり太鼓時計(2020.6.1)【余談】
このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。 この時計は、翁が製作した太鼓時計をモチーフとしており、定刻になると前面の時計盤が回転し、からくり儀右衛.....

破るる夢も惜しからず(2019.10.17)【余談】
鶯や破るる夢も惜からず 温泉に通ふ下駄と雲雀の声高し 江戸時代、黒田藩中老・立花秋水の作。 現在の筑紫野市二日市温泉に滞在中の一句になります。 この辺りは天拝山の麓で、また田園地帯が広がる地域でもあり、ウグイスやヒバリの声を聞きながの温泉通いとはなんとも粋じゃござ.....

勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。 「同公は本草学.....

筑後川の鵜飼の事(昔は瓢箪で鵜飼?)【意外な話】
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人が.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
天を怨まず、人も咎めず。
孔子





福岡史伝・戦国
 【毛利氏の筑前侵攻】(1557年~)

門司城の碑(後方の橋は関門橋)
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖市北西の山間部)の筑紫惟門(これかど)ですが、これに対し大友宗麟は二万の大軍を送り、古処山城を攻めて文種を討ちます。文種の子・種実は落城に先立ち毛利氏の元へ逃れ、惟門も城に火を放ち山口に落ちます。

翌年、元就は関門海峡を渡り門司城を攻略。これに対し大友宗麟も兵を送りこの攻防戦は3年ほど続きますが最終的に元就が門司城を奪取し筑前攻略の足掛かりとします。 そしてこの間に秋月種実と筑紫惟門は旧領に戻り、再び反旗を掲げます。元就も着々と豊前の攻略を行いますが、1564年、石見の尼子氏と戦うために、大友氏と和睦し東に兵をとって返します。そのため筑前騒乱は収束に向かいますが、それも束の間、元就は1566年に尼子氏を下すと、再び九州に兵を向け筑前は慌しくなります。
1567年には秋月種実が再度挙兵し「休松の戦い」で大友の大軍を大混乱に陥れます。また宝満城で大友の重臣・高橋鑑種(あきたね)が反旗を翻し、また翌年には西の大友と呼ばれる立花城の立花鑑載(あきとし)までもが毛利氏に寝返ります。そして肥前の龍造寺隆信もこの混乱に乗じ東に触手を伸ばします。
この危機的状況に大友宗麟は先ず、戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪)に命じ立花城の立花鑑載を猛攻、自刃させます。次に大軍を肥前に送り筑紫惟門を討ち、龍造寺隆信を攻めますが、毛利氏が筑前に侵攻して来たため、隆信と急きょ和睦し、毛利軍と戦うため兵を北へ向け、多々良川をはさみ対峙します(1569年「多々良浜の戦い」)。緒戦では優劣が付かず、お互いに睨み合いが半年ほど続きます。
その間に宗麟は以前に大内義興(よしおき、義隆の父)に謀反、失敗し豊後に逃れていた大内輝弘(義隆の従兄弟)に兵を付けを周防に上陸させ、また石見を追われた尼子氏の遺臣を支援し、敵の後方を攪乱します。このため毛利元就は本国守備のために筑前より撤退せざるおえなくなります。
毛利氏の支援を失くした秋月種実は降伏、高橋鑑種は開城を条件に豊前・小倉へ移ります。
以後、毛利氏は織田信長の命で中国へ侵攻して来た羽柴秀吉と戦うため東へ兵力を集中することとなり、筑前の騒乱は大友宗麟が「耳川の戦い」で大敗を喫する1578年までの約10年の間、一旦、鎮まります。









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スポットライト人物伝


【黒田長興(くろだながおき)】
(1610年~1665年)


黒田長政は後継者に三男の長興を立てようとしますが、栗山大善ら家臣団の猛烈な反対に合い諦め、長男・忠之を後継者とします。 ただ忠之のみに黒田藩を託すことに不安を抱いた長政は、長興に五万石を与え分藩させることにしました。 これが秋月藩になります。



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