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余談
 【儀右衛門 からくり太鼓時計】

このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。
この時計は、翁が製作した太鼓時計をモチーフとしており、定刻になると前面の時計盤が回転し、からくり儀右衛門(久重翁)が現れ、無尽灯・万年回転独楽・弓ひき童子・童子杯台・万年時計(万年自鳴鐘)・蒸気車雛形などの翁が手掛けた作品について、語ってくれる仕掛けです。
翁は、通称儀右衛門、後近江大掾久重。寛政11年(1799)市内通町十丁目の鼈甲細工屋の家に生まれる。幼い頃から才能を発揮、文化10年15歳にして、絵絣の組み方を考案、21歳のとき、五穀神社の祭礼で水カラクリなどの新しい仕掛けを披露、大阪・江戸等にても輿行し大変な評判を博す。いつしか人々は「からくり儀右衛門」と呼んだ。後、大阪・京都に移り天文学や蘭学を学び、翁53歳にして和時計の最高傑作「万年時計」(万年自鳴鐘)を製作す。
その後、佐賀藩や久留米藩に招聘されアームストロング砲や小銃などの製造に携わる。慶応元年67歳、佐賀藩にて蒸気船凌風丸を竣工。翌年久留米藩の今井栄等と蒸気船購入のため上海に密航、藩の洋式海軍力の育成に尽くす。同3年、英国外交官アーネスト・サトウと会見。明治元年、大阪湾にて、明治天皇の艦閲式に佐賀藩電流丸(翁父子製作の汽鑵)が旗艦となり、久留米藩千歳丸など6隻がその栄誉を受ける。
明治6年75歳で上京し、麻布大泉寺や芝西久保に工場を設けるが同8年に新橋南金六町(現在の中央区銀座八丁目)に移転し、電信機などの製作所と店舗を設立、情報通信・エレクトロニクスなどの分野で、我が国を代表する企業、株式会社東芝の前身となった。 このような、日本の近代科学技術の発展に大きく貫献した翁の業績に対して、後に人々は「東洋のエジソン」と称えた。
平成11年11月
久留米市

久留米市設置の案内板より








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最後の仇討(1880年)【福岡史伝・幕末・維新】
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吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
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親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
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男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
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朝倉の三連水車(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰 朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけると意義のある観光になるかもしれません。 筑後川が大きく南に蛇行する山田の地に江戸時代に設けられた山田堰。この堰は筑後川の北側に農業.....

儀右衛門 からくり太鼓時計(2020.6.1)【余談】
このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。 この時計は、翁が製作した太鼓時計をモチーフとしており、定刻になると前面の時計盤が回転し、からくり儀右衛.....

破るる夢も惜しからず(2019.10.17)【余談】
鶯や破るる夢も惜からず 温泉に通ふ下駄と雲雀の声高し 江戸時代、黒田藩中老・立花秋水の作。 現在の筑紫野市二日市温泉に滞在中の一句になります。 この辺りは天拝山の麓で、また田園地帯が広がる地域でもあり、ウグイスやヒバリの声を聞きながの温泉通いとはなんとも粋じゃござ.....

勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。 「同公は本草学.....

筑後川の鵜飼の事(昔は瓢箪で鵜飼?)【意外な話】
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人が.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
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名所旧跡・朝倉・うきは
 【天子の森】-朝倉町須川-



天子の森

【天子の森】

所在地 福岡県朝倉町大字須川字乗馬2928-1


 斉明天皇6年(660年)7月、昔から我が国と親交の深かった朝鮮半島の百済が、新羅・唐の連合軍に亡され、同年10月、日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。
 この要請を受け、斉明天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に、同年12月大和国高市郡飛鳥岡本宮を出発され、難波の港から海路筑紫に向かわれた。
途中四国の石湯行宮によられ、翌661年3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月9日に朝倉橘広庭宮に遷られた。
 ここ天子の森は、橘広庭宮の一部であった所といわれ、斉明天皇が崩御された同年7月24日までの75日間、天皇が政務をおとりになった大本営があった所だといわれている。
 現在、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれる「木の丸殿跡」や、斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれている「御陵山」等の旧跡がある。


朝倉町教育委員会(現朝倉市教育委員会)の案内板より










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スポットライト人物伝


【少弐景資(しょうにかげすけ)】
(1246年~1285年)


少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。



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