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余談
 【豊前、筑前、筑後について】

現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのかもしれません。
福岡ではこの南北の二つ地域がまた小さく二つ分類されます。北部で言うと工業地帯の北九州市を中心とす北九州地区。以前の炭鉱地帯に位置する筑豊地区。南部では九州一の都市・福岡市を中心とする福岡地区。筑後平野に位置する農業地帯の筑後地区。このように四つの地区に分類できます。
福岡県内の車のナンバープレートは福岡、北九州、筑豊、久留米(筑後地区)の四つのナンバーから成り、この切り分けは公的にも使用されています。
ところで九州の語源となった九国は豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅の各国になるのですが、このうち豊前、筑前、筑後の三国が現在の福岡県の地域に当たります。この三国を現在の福岡県の各地区に当てはめると次のようになります。

豊前国 → 北九州地区、筑豊地区
筑前国 → 福岡地区、北九州地区の一部(遠賀郡)、筑豊地区の一部(直方市、飯塚市など)
筑後国 → 筑後地区(筑後川南側全域と北側の小郡市、三井郡)

「漢委奴国王の金印」が発見されたのは筑前国。「磐井の乱」の磐井の本拠地は筑後国。「藤原広嗣の乱」で広嗣が朝廷軍と対峙したのが豊前国。 江戸時代には、豊前国は細川氏→小笠原氏、筑前国は黒田氏、筑後国北部は田中氏→有馬氏、南部は田中氏→立花氏が領します。
1871年の廃藩置県で豊前は小倉県、筑前が福岡県、筑後が三潴県となり、1876年には小倉県、三潴県が福岡県に編入され現在の福岡県が成立しました。

ちなみに他の六国の現在の県名は次の通りです。
豊後国 → 大分県
肥前国 → 佐賀県、長崎県
肥後国 → 熊本県
日向国 → 宮崎県
薩摩国 → 鹿児島県西部
大隅国 → 鹿児島県東部






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最後の仇討(1880年)【福岡史伝・幕末・維新】
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。 .....

吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り.....

親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見.....

男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います.....

朝倉の三連水車(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰 朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけると意義のある観光になるかもしれません。 筑後川が大きく南に蛇行する山田の地に江戸時代に設けられた山田堰。この堰は筑後川の北側に農業.....

儀右衛門 からくり太鼓時計(2020.6.1)【余談】
このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。 この時計は、翁が製作した太鼓時計をモチーフとしており、定刻になると前面の時計盤が回転し、からくり儀右衛.....

破るる夢も惜しからず(2019.10.17)【余談】
鶯や破るる夢も惜からず 温泉に通ふ下駄と雲雀の声高し 江戸時代、黒田藩中老・立花秋水の作。 現在の筑紫野市二日市温泉に滞在中の一句になります。 この辺りは天拝山の麓で、また田園地帯が広がる地域でもあり、ウグイスやヒバリの声を聞きながの温泉通いとはなんとも粋じゃござ.....

勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。 「同公は本草学.....

筑後川の鵜飼の事(昔は瓢箪で鵜飼?)【意外な話】
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人が.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

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-「雨ニモマケズ」より-
宮沢賢治





名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【特別史跡水城西門跡】-太宰府市吉松-



水城西門跡

特別史跡水城跡の調査成果

ここは特別史跡水城跡の西門の跡です。水城は西暦六六四年に博多湾側から攻め入ることが予想された唐・新羅軍に備えて造られた防衛施設ですが、東と西に二つの門がありました。
平成六年~八年に九州歴史資料館によって西門の周囲が発掘調査され、当初建てられた西門が八世紀前半と八世紀中頃以降の二回建てかえられたことがわかりました。はじめは実戦に備えた簡易な門でしたが、三回目の門は敵の侵攻の恐れがほぼなくなり、見かけを重視した二階建て風のりっばな門(楼門)になったようです。
また、門の両側にある土塁の断面では版築と言って、粘質土と砂質土を交互に積んでよく締め固めた様子が観察されました。(写真)
さらに、この調査では、西門から鴻臚館までほぼ直線的に伸びる官道(古代の国道)の跡も見つかりました。しかし、上塁前面にあるとされていた濠(ほり)がこの官道より東側では見つかりましたが、西側では見つかりませんでした。
一方、土塁の西側付け根部分の高台では、望楼(見張り所)の可能性のある建物が見つかりました。
まだ謎の多い水城跡ですが、発掘調査によっていろいろなことがわかってきました。

平成十九年三月

大野城市教育委員会


特別史跡水城西門跡に置かれている案内板より。









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スポットライト人物伝


【宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)】
(1835年~1876年)


「秋月の乱」の中心的な人物ですが決起には消極的だったようです。豊津藩の反政府勢力と合流するため豊津に向いますが、 そこで乃木希典の指揮する小倉の歩兵第14連隊の攻撃を受け撤退します。 そして決起より4日後には乱の中心となった人物6名と共に自刃することになりました。



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