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余談
 【薩摩街道 松崎宿「油屋」】

数ヶ月前の事になりますが、西郷隆盛の泊まったといわれる小郡市松崎の「油屋」の撮影に行って来ました。残念ながら史跡「油屋」は建替中で足場が組んであり見学する事はできませんでしたが、玄関の撮影だけはどうにか叶いました。
 薩摩街道は島津藩が参勤交代で通った街道で松崎宿はその宿場町ということです。昔も薩摩に向かうには旧国道3号線あたりの道を使用していたと思い込んでいたのですが、GoogleMapによると薩摩街道が旧国道3号線とほぼ一致するのは熊本県植木市以南になるようです。江戸時代に肥後や薩摩に向かうには今の国道3号線ではなくこの薩摩街道を進んだものと思われます。
 ところで史跡「油屋」の建替工事は平成31年3月12日まで続くようです。ただ右写真のとおり骨組みはほぼ完成していたので母屋の外観が見れるのはもう少し早いのかもしれません。大河ドラマ「西郷どん」の最終回に合えばよいのですが・・・。






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最後の仇討(1880年)【福岡史伝・幕末・維新】
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吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
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親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
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男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
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朝倉の三連水車(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰 朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけると意義のある観光になるかもしれません。 筑後川が大きく南に蛇行する山田の地に江戸時代に設けられた山田堰。この堰は筑後川の北側に農業.....

儀右衛門 からくり太鼓時計(2020.6.1)【余談】
このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。 この時計は、翁が製作した太鼓時計をモチーフとしており、定刻になると前面の時計盤が回転し、からくり儀右衛.....

破るる夢も惜しからず(2019.10.17)【余談】
鶯や破るる夢も惜からず 温泉に通ふ下駄と雲雀の声高し 江戸時代、黒田藩中老・立花秋水の作。 現在の筑紫野市二日市温泉に滞在中の一句になります。 この辺りは天拝山の麓で、また田園地帯が広がる地域でもあり、ウグイスやヒバリの声を聞きながの温泉通いとはなんとも粋じゃござ.....

勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。 「同公は本草学.....

筑後川の鵜飼の事(昔は瓢箪で鵜飼?)【意外な話】
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人が.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
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武田信玄





意外な話
 【筑後川の鵜飼の事】(明暦以前)-昔は瓢箪で鵜飼?-

江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。

「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人がとも(船の後方)で棹をさし、もう一人がかがり火で川底を照らして鵜を放つと、おのおのの鵜がハヤを捕らえた。鵜の首にはたなわと言うものを着け、その縄の先を指の間にはさみ多数の鵜が上下左右に入り乱れても、縄は乱れて絡むことがない。これは誠に奇功なる技である。」

これは「筑前国続風土記」巻十一 下座郡 長田 の項に書かれている鵜飼の概要になります。
福岡の奥座敷・原鶴温泉では5月末~9月末に鵜飼漁が行われています。こちらは鵜飼船による漁になりますが、瓢箪での漁も再現できれば観光資源となると思われるのですが、鵜縄が足に絡むと事故につながるので想像に止めて置いた方が良さそうです。









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スポットライト人物伝


【平野國臣(ひらのくにおみ)】
(1828年~1864年)


朝廷や長州藩、薩摩藩に広い人脈を持った名の知れた倒幕勤皇の志士で、のちに「寺田屋事件」「生野の変」に関わります。 「禁門の変」の時に捕らわれていた京都六角獄で斬首され36年間の人生を終えてます。



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