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福岡人物伝
 【古屋佐久左衛門】

筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官軍の艦砲射撃に合い被弾、37歳で幕府に殉じます。
語学堪能で神奈川奉行所で通訳していた頃に横浜で町屋の子供がイギリス人の乗った馬に蹴られ大怪我をする事故が起こりますが、泣き寝入りになりそうなところを佐久左衛門がイギリス領事館に乗込み交渉、治療費を出させたと言う逸話を残しています。






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最後の仇討(1880年)【福岡史伝・幕末・維新】
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。 .....

吉塚の由来(2021.3.28)【余談】
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り.....

親魏倭王印はどこにある?(もう一つの金印が発見されれば!!)【わかっていない事】
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見.....

男装の漢詩人・原采蘋(酒豪の女流詩人)【意外な人物伝】
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をかけ、中国地方や九州各地への遊歴に伴います.....

朝倉の三連水車(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰 朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけると意義のある観光になるかもしれません。 筑後川が大きく南に蛇行する山田の地に江戸時代に設けられた山田堰。この堰は筑後川の北側に農業.....

儀右衛門 からくり太鼓時計(2020.6.1)【余談】
このモニュメントは、郷土が生んだ偉大な発明家「日本第一細工師」田中久重翁(1799-1881)の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するため久留米市制施行百十月年記念事業として設置するものです。 この時計は、翁が製作した太鼓時計をモチーフとしており、定刻になると前面の時計盤が回転し、からくり儀右衛.....

破るる夢も惜しからず(2019.10.17)【余談】
鶯や破るる夢も惜からず 温泉に通ふ下駄と雲雀の声高し 江戸時代、黒田藩中老・立花秋水の作。 現在の筑紫野市二日市温泉に滞在中の一句になります。 この辺りは天拝山の麓で、また田園地帯が広がる地域でもあり、ウグイスやヒバリの声を聞きながの温泉通いとはなんとも粋じゃござ.....

勝海舟の黒田長溥・評(蘭学の先駆だった福岡藩)【意外な人物伝】
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。 「同公は本草学.....

筑後川の鵜飼の事(昔は瓢箪で鵜飼?)【意外な話】
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人が.....

豊前、筑前、筑後について(2018年12月31日)【余談】
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海側では文化がだいぶ違うと佐賀県人の方から聞いた事があります。このような事は九州以外の他県でもあるのか.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

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【記想録】冷眼にて人を観る

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【記想録】人を責むる者は・・・

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
過去は過去として葬らしめよ
志賀直哉





福岡史伝・戦国
 【博多町割り】(1587年)

櫛田神社の「博多塀」
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資金を提供したものと思われ、 「博多町割り」後は、現在の大博通りの東側を宗室町、西側を宗湛町と呼んでいたそうです。 秀吉としては博多を南蛮や明との交易の一大拠点と考え、博多復興には力を入れたと思われます。 もちろん博多の商人たちの思惑もこれと一致し博多は大きく発展してゆくはずでした。しかし 秀吉が没すると徳川家康が1603年江戸幕府を開きます。江戸幕府が鎖国政策をとると、 海外貿易の役目は長崎に移り、博多商人の活力は失われていくことになるのです。
ところで、奈良屋町にあった神屋宗湛の屋敷跡は現在、豊臣秀吉を祭る「豊国神社」となっており、 また櫛田神社には嶋井宗室屋敷跡にあった「博多べい」が移築展示され、 当時の復興の様子を偲ぶことができます。

(2011.7.3)









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スポットライト人物伝


【月照(げっしょう)】
(1813年~1858年)


「安政の大獄」で幕府より追われる月照は西郷隆盛と共に薩摩に逃れようとします。 そして下関で西郷と別れた月照は筑前で野村望東尼の「平尾山荘」や太宰府の宿屋「松屋」に匿われます。 その後、平野國臣の案内を得て薩摩に入り西郷と再会しますが、 薩摩藩は月照の受け入れを拒否したため錦江湾で西郷と共に入水し亡くなりました。 西郷は助けられましたが死亡したことにされ極秘裏に奄美大島に流されました。



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