『福岡史伝』はリニューアルしました。新ページはこちらからどうぞ!!

旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。





記事検索 

検索の結果 5件の記事が見つかりました


筑紫に置かれた「漏刻」とは?(中大兄皇子の水時計研究)【Fアイテム】
漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという事です。 現在ではその漏刻は残っておらず、また具.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

観世音寺建立(661年)【福岡史伝・飛鳥】
斉明天皇は百済復興支援のため入った九州で突然崩御します。 中大兄皇子はこの母のために大野山の麓に大規模寺院を創建することを決めますが、 これが85年の歳月をかけて完成する「観世音寺」です。 斉明天皇は重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇で二代前に皇極天皇と.....

「朝倉橘広庭宮」はどこ?(斉明天皇崩御の地)【わかっていない事】
中大兄皇子の母、斉明天皇は百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」(福岡市南区三宅)に滞在します。 5月には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に移り、7月にそこで突然崩御します。原因は臣下も数人亡くなっていることから疫病のためではないかとの説がありま.....

斉明天皇(594年~661年)【福岡人物伝】
中大兄皇子の母親で重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇です。 二代前の皇極天皇の時に皇子の蘇我入鹿暗殺を目の当りにし退位を決意しますが、 再び斉明天皇として皇位に就き、百済復興のため入った筑紫で崩御します。 観世音寺はこの斉明天皇を弔うために中大兄皇子が建立した寺といわれてい.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
徳川家康





福岡史伝・戦国
 【耳川の戦い-筑前・筑後-】(1578年)

高城川古戦場(後方の小高い山が高城)
同族間で争いを繰り広げていた島津氏は貴久が頭主になると、周辺豪族を従え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後には日向を奪われ豊後大友氏の元へ逃れ救いを求めます。これに大友宗麟は島津氏との対決を決意し日向へ大軍を向けます。
1578年11月、戦いは現在の宮崎県木城町高城辺りで行われました。合戦前には大友の武将たちに意見の不一致があり、中途半端な状況で一部の武将が戦いを始め、これに他の軍も引きずられるように戦線に加わります。大友軍は緒戦で敵を蹴散らした勢いで島津軍本隊と戦うため高城川(小丸川)を渡りますが、そこへ四方から一斉に島津軍が突撃し、大友の軍勢は大混乱に陥り形勢は逆転、北へ向けて敗走します。島津軍はこれを追い20km以上離れた耳川に追い詰めます。混乱を極めた敗走の軍は川を渡る手立てもなく次々に討たれ、川を渡ろうとした者も底の深い流れに呑まれて行きます。こうして大友宗麟は頼りとした百戦錬磨の将兵たちの多くを耳川に失い、以後、急速に勢力を縮小して行く事になるのです。

大友方のこの大敗で、筑前、筑後も風雲急を告げます。 筑後の諸豪族は勢力を拡大する容赦のない龍造寺隆信になびき、筑前南東部では秋月種実が大友の筑前諸城と本拠地・豊後を分断、筑前西部では龍造寺とつながる原田信種が勢力を拡大し、肥前南東部からは筑紫広門が龍造寺と共に筑前南部の大友方の城を狙います。大友の重鎮・立花道雪は養子の立花統虎(宗茂・高橋紹運の長男)に立花城を守らせ、自らは軍勢を率い筑後勢力と対峙し、岩屋城の高橋紹運は東に秋月種実と西に筑紫広門の両面の敵を抱える情勢となります。
大友方の多くの将兵が斃れた耳川
1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に救援を求める事になるのです。


写真の「高城川古戦場」は宮崎県児湯郡木城町高城。「耳川」は宮崎県日向市美々津町で撮影したものになります。









福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【大夫(たゆう)】
(西暦57年頃~)


西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。



このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝