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検索の結果 27件の記事が見つかりました


筑前にも超能力者がいた?(筑前に存在した幻術師・火亂)【意外な人物伝】
「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持った人物が現れ、信長や秀吉、家康といった時の人を翻弄したといわれています。この果心居士が実在の人物かどうかは読者の判断にお任せするしか.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

官兵衛的な人たち(2013年11月3日)【余談】
えらく豪胆な人、すごく気配りのできる人、運動神経が超人的な人、仕事が超速い人、信じられないぐらいな美形な人。 永年 社会で仕事をしていると色んな面で優れた人とめぐり合うもので、私も「この人なんでこんな頭ええんやろ」 と感じる人とめぐり合った事が何度かありました。その中でもっとも印象に.....

都井岬の馬(2014年8月28日)【余談】
宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。 秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代.....

後藤又兵衛(1560年~1615年)【福岡人物伝】
関ヶ原の戦いなどで名を上げ黒田家を代表する武将となりますが、黒田如水の没後、藩主・長政とそりが合わず福岡藩を出奔します。 又兵衛の武名を惜しむ声は多かったもの黒田家に遠慮し召抱えようとする大名は少なかったようで数年間の浪人生活を送ります。 その後「大阪冬の陣・夏の陣」で久々に活躍の場を得た又兵衛は豊.....

小早川隆景(1533年~1597年)【福岡人物伝】
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。.....

島津貞久(1269年~1363年)【福岡人物伝】
「元弘の乱」で少弐貞経、大友貞宗と共に鎮西探題・北条英時を攻め滅し、「多々良浜の戦い」では足利軍に属して戦います。 島津氏は少弐氏、大友氏と共に鎌倉時代に守護を命じられ少弐氏は九州北西部、大友氏は北東部、そして島津氏が九州南部を治めます。 この三氏は九州御三家と呼ばれ九州の中心武家として戦国時代ま.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

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2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

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【記想録】佐々木小次郎の経歴

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【記想録】夢想権之助の挑戦

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
蝸牛(かぎゅう)の角上、雌を較べ雄を論ず。
菜根譚





福岡史伝・幕末・維新
 【五卿の大宰府入り】(1865年)

赤間宿 五卿西遷之遺跡
会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島に集結させます。 これに長州藩は恭順の意を表し、三家老を切腹させ五卿を他藩に送るという条件に従いますが、この五卿を引き受けたのが福岡藩です。 藩では五卿を迎えるため幽閉中の勤皇家・月形洗蔵の罪を赦し、早川養敬と共に五卿を迎えるため下関まで向かわせます。 二人に大宰府入りを説得された五卿は承諾し筑前に向かいますが、福岡藩の真意を測りかねたためか、 途中の赤間宿(筑前)に一月ほど滞在します。この間、薩摩、長州、土佐、筑前勤皇党の志士たちが慌しく面談していますが、 これは五卿の安全の保障や警護について協議していたものと思われます。そして1865年2月13日に五卿は無事大宰府の延寿王院に入ります。

(2011.6.4)









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スポットライト人物伝


【貝原東軒(かいばらとうけん)】
(1651年~1713年)


秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。



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