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意外な話
 【博多の人魚伝説】(1222年)-消えてなくなった人魚塚-

大博通りの「博多古絵図」
博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。
鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が捕らえられ、櫛田神社に近い浜辺(現在の中洲東側の博多川辺り)に引き上げられたと言われます。その遺骸は近くの寺に埋葬されその寺は竜宮寺と改められました。そして埋葬された跡には人魚塚の碑が建てられますが、人魚は不老長寿に霊験あらたかと考えた参拝者によって少しずつ削り取られその碑は原形を留めなかったと言われています。現在の竜宮寺は戦国末期に当地に移築され、境内に建つ人魚塚は1958年に再建されたものになります。
この人魚に関しては、おそらく鯨ではないかとの想像もできるのですが、アニメ・ワンピースに登場する「しらほし姫」を想像した方が夢があっておもしいのかもしれません。

因みに応仁の乱が収まった2年後、室町時代の連歌師・宗祇は筑紫を旅した事を「筑紫道記」に記しています。その際、博多では竜宮寺に滞在しますが、「人魚伝説」を「筑紫道記」に記すことはなかったようです。

画像は大博通りに置かれている「博多古絵図」の一部です。中央には「人魚此辺ヨリ上ルト云フ」と記されています。この「博多古絵図」巻物の原本は聖福寺に所蔵されています。






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福岡史伝・南北朝・室町
 【観応の擾乱-筑前-】(1351年)

1349年、足利尊氏の右腕の高師直と、尊氏の弟・直義との確執で足利幕府は二派に割れます。 長門探題を努める尊氏の庶子・直冬は叔父(義父)の直義に援軍するため軍を率い上京しようとしますが、 実の父・尊氏より討伐命令が出たため、海路で肥後に逃れます。 そして1350年に筑前の少弐氏に迎えられ、翌年に九州探題の一色氏(尊氏派)の月隈城を攻めます(月隈・金隈の戦い)。 その戦いで城は落ちませんでしたが、その後は直冬と少弐氏が戦いを有利に進めます。 畿内では京を逃れた直義が勢力を挽回すると、翌年に尊氏が和解を申し入れ、高師直は直義派に斬られます。 これで動乱は一旦収束し、直冬は九州探題の職に就きます。しかし、1352年には直義と尊氏の立場が逆転し、直義は鎌倉に逃れそこで没します。 この直義の死をきっかけに二派に別れて戦っていた九州の武家方は、戦う名目を失くし、流れは尊氏派の一色氏に移ります。 また一色氏は宮方とも協調路線をとっていたため、直冬は九州を去り長門へ戻り、少弐頼尚は旗頭を失うことになります。
(2014.11.9)









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